11.辺境の風
春から夏に移り変わろうとしている、ノールガール辺境伯領。辺境と呼ばれるこの地にも、王都とは違う、ゆっくりとした時間の流れがある。厳しい冬を超えた民たちは、束の間の温もりを喜び、互いに顔を見合わせては労い合い、今年の作付けの相談を始めていた。村々では、冬の間に積もった雪が解け、豊かな土壌が姿を現し、新たな生命の息吹が感じられる。
そんな春のある日。ノールガール辺境伯邸の正門前には、鮮やかな民族織の衣を身につけた老婦人が立っていた。彼女は、この地域の古くからの慣習に則り、村の代表として辺境伯夫妻に直接祝いの言葉を届けるために集まった面々を率いていた。その老婦人こそ、この地域の村々の精神的支柱である「村長ミレイユ」。彼女の隣には、大きな体躯の鍛冶屋の主、穏やかな表情の牧場主、そして知識深そうな薬草師といった、地元を代表する面々が控えていた。彼らの顔には、冬を乗り越えた喜びと、領主への敬意が入り混じった表情が浮かんでいた。
「して、奥方様はどんなお方なんじゃろな」
ミレイユが、期待に満ちた声で呟いた。彼女は、新しい女主人がこの地にどんな影響を与えるのか、興味津々だった。
「若いが芯のある方だと噂で聞いたぞい。前とは違う風が吹き始めとるらしい」
鍛冶屋の主が、力強い声で答えた。屋敷の使用人たちから、ミネットに関する良い噂が広まり始めていたのだ。
「坊っちゃん……いや、旦那様も丸くなったようでな。雪解けが人の心にも来たのかのぅ」
薬草師の老爺が、しみじみと呟いた。ゼノの変化は、すでに領民たちの間でも話題となっていた。彼の厳格な態度の裏に隠された、人間らしい側面が、ミネットの存在によって少しずつ露わになり始めていたのだ。
使用人が慌てて客間を整え、ミネットが応対に出る。辺境伯夫人が領民の代表と謁見するのは、この地では珍しいことではなかったが、新しい女主人がいることで、客間には普段とは異なる、どこか柔らかな雰囲気が漂っていた。そして、控えの間で待つ彼らを迎えるべく、ミネットはゆるやかな白のドレスに身を包み、ゼノと共に現れた。そのドレスは、王都の華美な装飾とは異なり、この地の清らかな自然に溶け込むような、質素ながらも上品なものだった。
「ようこそ、お越しくださいました。お招きせぬまま足をお運びいただいたこと、深く感謝いたします」
ミネットは、彼ら一人ひとりに、心のこもった一礼をした。その姿勢は、完璧だった。穏やかで凛とした声、気品ある姿勢。けれど、決して“上から”ではない目線で、彼ら一人ひとりをきちんと見つめていた。その視線は、彼らの年齢や身分に関わらず、一人ひとりの存在を尊重していることを示していた。
「辺境伯夫人様……お初にお目にかかります」
老婦人ミレイユは、杖をつきながらにっこりと笑い、ミネットの手を握った。ミネットの手に触れたミレイユの指先は、長年の労働で硬く、皺が刻まれていた。
「顔を見ると、ようわかる。あんたぁ、賢くて気丈な人だわ」
ミレイユの言葉は、ミネットの本質を見抜いていた。彼女は、王都の虚飾に惑わされることなく、人々の本質を見抜く力を持っていた。
「まぁ、身に余るお言葉ですわ。けれど、まだまだ未熟者でございます。今は学びながら、この館と、この地に馴染もうと努めている最中ですの」
ミネットは、謙虚に答えた。その言葉は、決して社交辞令ではなく、彼女の本心だった。彼女は、この辺境の地で、新しい自分を見つけようと努力していた。
「よう申した!」
薬草師の老爺から、陽気な声が上がる。その声には、ミネットに対する信頼と、そして彼女への期待が込められていた。ミネットはにっこりと微笑みながら、各代表と自然に言葉を交わしていった。彼女は、彼らの話に真剣に耳を傾け、時には質問を挟み、彼らの暮らしに寄り添おうとしていた。
「ご覧なさい、あれを……」
薬草師の老爺が、小声でつぶやいた。彼の視線は、ミネットと領民の代表たちの間を往復していた。
「王都の貴婦人と、村の婆様らが普通に話せておる」
鍛冶屋の主が、感嘆の声を上げた。王都の貴族たちは、領民を見下すことが多かったが、ミネットは違った。
「うんにゃ、普通以上じゃ。あれは本物の“懐の広さ”だ」
ミレイユの言葉には、ミネットに対する深い敬意が込められていた。彼女は、ミネットの持つ、人を受け入れる心の広さに感銘を受けていた。
遅れてやってきた、少し離れて立つゼノの顔に、ほんの微かな笑みが浮かんでいた。それは、彼がこれまで見せたことのない、柔らかで温かい笑みだった。
(ミネットは……やはり、俺には惜しいほどに、才気と品を備えている)
ゼノは、ミネットの対応を間近で見て、改めて彼女の素晴らしさを実感していた。彼女は、貴族としての品格を持ちながらも、人々と心を通わせることができる稀有な存在だった。彼女の存在が、この堅苦しい屋敷に、そして彼の心に、新しい風を吹き込んでいた。
ミネットはふと、ゼノの方を振り向いた。彼女のアイスブルーの瞳が、ゼノの視線を捉える。
「辺境伯様、先ほど皆様が、野に咲く薬草の収穫時期についてお話くださったのです。こちらでも茶葉として用いられているとか?」
ミネットは、ゼノに、領民との会話の内容を共有した。それは、彼を会話に引き込み、彼らが共にこの地で生きていくという意思表示でもあった。
「……ああ。喉や胃に効くと古くから言われている。近くの泉のあたりに群生しているな」
ゼノは、ミネットの言葉に、いつもよりも少しだけ柔らかな声で答えた。彼の言葉には、以前のような冷徹さはなく、どこか温かさが宿っていた。
「まぁ、今度ぜひ教えていただけますか? 私、薬草にも興味がありまして」
ミネットの言葉に、ゼノの表情がわずかに変化した。彼女が自分に興味を持っていることに、彼は密かに喜びを感じていた。
「……わかった。案内しよう」
ゼノは、小さくうなずいた。彼の声は変わっていない。低い声で、感情をあまり表に出さない話し方は、以前と変わらなかった。
けれど、空気が違うのだ。
以前はもっと硬かった。言葉も、視線も、空気すらも。彼の周りには、常に目に見えない壁があった。
今は、どこか“余白”がある。ミネットが差し込んだ光に、彼の頑なな心がじわりと融けつつあるのが、誰の目にも明らかだった。彼の表情には、以前には見られなかった、人間らしい温かさが宿り始めていた。それは、ミネットの存在が、彼の心を少しずつ開かせている証拠だった。
客人たちが帰った後、ミネットはテラスに立って庭を見下ろしていた。春の穏やかな陽光が、彼女の白いドレスを照らしている。庭では、使用人たちが、新しい花の苗を植える準備をしていた。
ゼノが後ろから、そっと彼女に声をかける。彼の足音は、以前よりもずっと静かで、彼女に近づくことに躊躇いを感じているようだった。
「……礼を言う。今日は、俺の代わりに、よく応対してくれた」
ゼノは、ミネットに心からの感謝を伝えた。彼は、自分にはできないことを、ミネットが自然にやってのけることに、改めて感銘を受けていた。
「いえ。私の立場として、当然の務めを果たしただけですわ」
ミネットは、謙虚に答えた。彼女は、自分の役割をしっかりと認識し、それを全うしようとしていた。
「そうか……だが、あの村長の目は厳しい。すぐには心を許さぬ人だ。それでも、今日の笑顔は――本物だった」
ゼノは、ミレイユの言葉を思い出しながら言った。彼は、ミレイユの信頼を得ることが、どれほど難しいことかを知っていた。それだけに、ミネットがミレイユの心を掴んだことに、深い感銘を受けていた。
ミネットは振り向き、ゼノの瞳をじっと見つめた。その琥珀色の瞳は、彼の心の奥底を見透かすかのように、輝いていた。
「ありがとう。そう言っていただけると、嬉しいわ」
ミネットの言葉は、ゼノの心に温かい光を灯した。彼女の笑顔は、彼の努力が報われたことを示していた。
風が、彼女の髪をそっと揺らした。ゼノの目が、一瞬だけその動きに釘付けになる。彼の視線は、ミネットの美しい髪の動きを追っていた。
(美しい――)
不意にそんな言葉が、ゼノの胸をよぎった。それは、王都で言われたような、表面的な“美貌”ではない。彼女の美しさは、内面から滲み出るものであり、この地に根を張ろうとする彼女の強さや、優しさが反映されたものだった。清らかで、誇り高く、そしてどこか危うい――この地に根を張ろうとする、繊細な芽吹きのような美しさだった。
「……これからも、頼りにしてもいいか」
ゼノは、ミネットに問いかけた。それは、彼からの、新たな関係を築こうとする意思表示だった。
「それは、あなたの望む距離次第ですわ」
ミネットの目がふっと細まり、笑みの色を深くする。その言葉の意味を、ゼノは深く理解するにはまだ時間がかかるかもしれない。しかし、その言葉には、ミネットが彼との関係を、彼の意志に委ねているという、信頼が込められていた。
けれど、彼の中で何かが確実に変わっていっている。ミネットの存在が、彼の心を少しずつ柔らかくし、新たな感情を芽生えさせていた。そして、ミネットの中でも――。
(この地の人々が少しでも、あたたかく笑える日々を過ごせるように)
彼女は、この地で暮らす人々の幸せを願うようになっていた。それは、王都での生活では感じることのなかった、新しい使命感だった。
それは、政略の名を借りた結婚でありながら、互いの心が少しずつ、確かに歩み寄る物語の一幕だった。春から夏へと移り変わる季節のように、彼らの関係もまた、静かに、しかし確実に、深まり始めていた。




