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政略結婚なのに、寡黙な辺境伯の無垢な溺愛が仔猫系令嬢を目覚めさせました  作者: 宮野夏樹
第1章 不器用な溺愛

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10.贈り物


 北の地にも、ようやく柔らかな春の気配が根を張り始めた。それでも朝晩はまだ寒い。空気は澄み渡り、遠くの山々には白い残雪が残っている。ノールガール辺境伯邸の庭にも、淡く小さな花が顔を出していた。冬の間に凍てついていた大地が、ゆっくりと息を吹き返し始めている。


 そんな春の午後――館の廊下に、見慣れぬ滑稽な風景が出現していた。邸宅の廊下は、いつも静かで、使用人たちも足音を立てずに移動するのが常だった。しかし、今日ばかりは、その静寂が不穏な足音によって破られていた。


 ゼノ・ノールガールが、両手に何かを抱えてミネットの部屋の前でウロウロしていたのである。彼の足取りは、まるで獲物を前にした大型獣のように落ち着かず、部屋の扉の前を行ったり来たりしている。その額には、軍務では決して見せないような、冷や汗がにじんでいた。


「……これは、いつ渡すのが適切なのだろうか……」


 ゼノは、心の内で何度も自問自答を繰り返していた。彼の顔には、深刻な悩みが刻まれている。彼は、ミネットに喜んでもらいたい一心だったが、その方法が見つからない。


(花だけでは物足りないか。いや、しかし甘いものばかりでは軽薄に思われはしないか?)


 彼の頭の中では、様々な可能性が渦巻いていた。完璧なタイミングと、完璧な贈り物を追求しようとするあまり、身動きが取れなくなっていたのだ。


 片手には小さな白い花束。まだ蕾の残るマーガレットが中心で、ほのかに香る。それは、ミネットが白い花を好むと知って、早朝から庭師に命じて摘ませたものだ。マーガレットの花言葉に込められた「真実の愛」という言葉が、彼の胸の奥でひそかに響いていた。

 もう一方の手には、厨房で特別に作らせたハチミツ入りのクッキー。甘いものを好むミネットのため、彼は数日前から厨房に無言で立ち尽くし、料理人たちを困惑させた末、思い切って作らせたものだ。普段は軍務一筋の彼が、甘い菓子の注文をする姿は、厨房の人間たちにとっては衝撃だった。


「…………」


 しかし問題は、肝心の“渡し方”だった。彼は、自分の行動を、まるで戦略を練るかのように緻密に考えていた。


(これは、もっと詩的なタイミングがあるのでは? 例えば彼女がバルコニーに佇む時。あるいは、図書室で読書にふける姿を見つけた時――)


 ゼノの頭の中では、まるで王都の恋愛小説のようなロマンチックな場面が展開されていた。しかし現実のゼノは、ミネットの部屋の前を右往左往しているだけで、詩的どころかほとんど不審者である。彼の不器用さは、彼の真摯な好意を、まるで喜劇のように見せていた。


 そんな彼の姿を、呆れ顔で見つめる者がひとり。エリーゼ・ベルモンド。ミネットの侍女であり、最近は「使用人代表・胃痛部門」的存在となっている彼女は、廊下の角から腕を組み、深いため息をついた。彼女は、ゼノの奇行に慣れてきたとはいえ、毎日のように繰り返される彼の行動に、頭を抱えていた。


「……あの、無愛想ゴリラ様が……また迷子みたいにしてるわ……」


 小声で呟いた言葉が、たまたま近くを通った執務官ハルトの耳に届く。ハルトは、いつものように無表情ながらも、エリーゼの言葉にわずかに反応した。


「エリーゼ嬢。それ、さすがに本人に聞こえたらまずいのでは」


 ハルトは、静かに忠告した。彼は、主の尊厳を守ろうとする立場にあった。


「いいえ、むしろ聞こえて改めてほしいんですけど? あんなにぐるぐるして、警備隊が勘違いして拘束しかけたんですよ? 二回目です、二回目」


 エリーゼの言葉には、苛立ちと、そしてどこか諦めが混じっていた。ゼノの行動は、すでに屋敷中の噂となっていた。警備隊が「不審者」と勘違いするのも無理はない。


「……陛下のご視察の護衛より厄介かもしれませんね」


 ハルトは小さく笑いながら肩を竦めた。彼もまた、ゼノの不器用な求愛行動に手を焼いていた。彼の主は、軍事では天才的だが、恋愛においては全くの素人だった。


 そしてエリーゼは、また一つ深く息を吐いてから、ノックもせずミネットの部屋にずかずかと入った。彼女は、もはやゼノの行動を見かねて、介入するしかないと判断したのだ。


「奥様。ええと――無愛想ゴリラ様、お越しになってます」

 エリーゼの言葉に、ミネットはくすりと笑った。


「ふふっ……まぁ」


 ミネットは読みかけの本を閉じ、優雅に椅子から立ち上がった。彼女は、ゼノがまた自分の部屋の前で「迷子」になっていることを、すでに察していたのだろう。ほんの少しだけ微笑んで、整えたドレスの裾をさりげなく撫でる。その仕草には、女性らしい余裕が漂っていた。


「では、お出迎えしましょうか」


 その口調には、たしかな余裕が宿っていた。ミネットは、ゼノの不器用な求愛を、すでに受け入れ始めていたのだ。




 扉を開けた瞬間、ゼノは弾かれたように直立し、無言で花とクッキーを差し出す。彼の顔は、まるで兵士が上官に報告する時のように真剣で、しかしどこか滑稽だった。


「……これを。春の花が咲いていたから……あと、これも……お口に合えば良いのですが」


 彼の言葉は、まるで棒読みのようだった。感情が込められていないかのように聞こえるが、その実、彼の心は激しく動揺していた。


(もっと、ロマンチックな言い回しはなかったのか……!)


 ゼノは心の中で何度も何度も、自分に問いかけていた。彼の頭の中では、理想の言葉が次々と浮かび上がる。


(“春の香りをあなたに”とか……“あなたの笑顔に、この甘さが似合うと思った”とか……もっと、詩的に!)


 しかし口から出てくるのは、まるで石像が喋っているかのような素っ気なさ。彼の感情と行動の間には、大きな隔たりがあった。


 だが――ミネットは微笑みを崩さず、少しだけ首を傾けた。彼女は、ゼノの不器用さの中に、彼の真摯な気持ちを感じ取っていた。


「まぁ。春のお裾分けかしら。ふふ、ありがとう、辺境伯様」


 そう言って、両手で丁寧に花束を受け取り、香りを吸い込む。ミネットの指先が、白い花びらに触れる。その仕草は優雅で、ゼノの心を温かく包み込んだ。


「マーガレット……私、白い花、好きなの」


 ミネットの言葉に、ゼノの表情が少しだけ明るくなった。彼女の笑顔は、彼の心に、これまで感じたことのない安堵をもたらした。


「そう、ですか……よかった」


 ゼノは、言葉にならない安堵と自責とを同時に飲み込みながら、ぎこちなくうなずいた。彼は、自分の気持ちが少しでもミネットに伝わったことに、心から喜んでいた。


「……あの、もし……ご迷惑でなければ。少しだけ、部屋の中で、お話を……」


 ゼノは、さらに言葉を続けた。彼は、ミネットとの時間を、もっと長く共有したいと願っていた。


「ええ、もちろん。どうぞ、お入りになって」


 ミネットの微笑みに導かれるように、ゼノは緊張した足取りで部屋の中へと招かれる。彼の足音は、普段の堂々としたそれとは異なり、どこかぎこちなかった。

 その様子をいつの間にか廊下に出て、こっそり覗いていたエリーゼは、ふうっと短く息をついた。彼女の顔には、安堵と、そしてかすかな笑みが浮かんでいた。


「……無愛想ゴリラにも、春は来るのね……」


 エリーゼの呟きは、春の風に乗って、屋敷の奥へと消えていった。




 ミネットの部屋は、どこか王都の空気を思わせる洗練された内装だった。王都から持ち込んだ調度品と、この地の素朴な家具が、絶妙な調和を生み出している。窓際のテーブルには紅茶のセットが用意され、白のカーテンが春風に揺れている。部屋全体が、ミネットの個性を反映した、温かく穏やかな雰囲気に満ちていた。


「どうぞ、お座りになって。お茶をお淹れするわ」


 ミネットは、ゼノに座るように勧め、自ら紅茶を淹れようとした。


「いや、それは……私が」


 ゼノは、反射的に言った。彼にとって、女性にお茶を淹れてもらうことは、慣れないことだった。


「あら、わたしでも紅茶くらいは出せましてよ?」


 ミネットは、くすりと笑いながら言った。その言葉には、彼の堅物な性格をからかうような響きがあった。


「……そう、ですね……」


(言い返せない……)


 ゼノは素直に椅子に腰を下ろした。ミネットはさっと紅茶を淹れ、自分の分と彼の分を並べる。カップのふちから立ちのぼる湯気が、二人の間の距離を柔らかく包み込んだ。部屋には、淹れたての紅茶の香りと、春の優しい香りが混じり合っていた。


「あなたがこうして来てくださるなんて、思ってもいなかったわ」


 ミネットは、率直な気持ちを口にした。ゼノが自分の部屋を訪れることは、彼女にとって予想外のことだった。


「……来たくて来ました。……ずっと、来たかった。だが、どう来ればいいか、わからなかった」


 ゼノは、正直な気持ちを、不器用な言葉で伝えた。彼の言葉は、飾り気がなく、彼の心の中から直接紡ぎ出されたものだった。


(何を言っている……いや、それは本心だが……もっと雰囲気というものがあるだろう)


 ゼノは、自分の言葉の選び方に、再び自責の念にかられた。しかし、ミネットはその不器用な言葉に、どこか胸がくすぐられるのを感じていた。


(この人は、本当に、飾るのが下手なひと)


 ミネットは、彼の言葉の裏に隠された、彼の真摯な気持ちを感じ取っていた。けれど、だからこそ――不器用な優しさや、誠実な視線が、言葉の裏からきちんと伝わってくる。彼女は、ゼノという男が、言葉よりも行動で示す人間であることを理解し始めていた。


「あなたって、本当に面白い人ね」


 ミネットは、微笑みながら言った。その言葉には、からかうような響きではなく、純粋な好奇心と、そして彼への好意が込められていた。


「……からかっている、のですか?」


 ゼノは、不安げに尋ねた。彼の頭の中では、自分の言葉がまた空回りしているのではないかという疑念が渦巻いていた。


「からかってなんていないわ。ただ、嬉しいのよ。来てくれたことも、お花も、お菓子も」


 カップを手に取ったミネットが、そっとゼノの目を見た。その柔らかな笑みが、ゼノの胸の奥をほんの少し、優しく撫でていった。彼女の言葉は、彼の心に、温かい光を灯した。


 ほんの少しだけ、近づいた距離。物理的な距離だけでなく、心の距離も、確実に縮まっていた。けれど、それは確かに、春の訪れのように静かで、心を温めるものであった。


(次は……もう少し、ロマンチックに……!)


 ゼノの内心の決意が、次なる空回りを予感させながら、午後のひとときは静かに過ぎていった。しかし、その空回りこそが、ミネットの心に、彼の真摯な気持ちを伝え続けていくことになるだろう。

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