01.仔猫の嫁入り
季節は春のはずなのに、王都イシュタリアの空気は妙に冷たかった。まるで空気そのものが、社交界に飛び交う噂話で凍っているかのように思える。
ミネット・ヴィルネールは、自室の香炉から立ち上る濃厚なバラの香気にむせながら、華奢なデミタスカップを傾けた。その手の動きは、王都の名門侯爵家の一人娘に相応しい優雅さで、少しの淀みもない。きらめく金糸の刺繍が施された絹のドレスの裾が、彼女のわずかな動作に合わせてふわりと揺れる。窓の外では、春の陽光がヴィルネール侯爵家の庭園を照らしていたが、その光すらも、どこか冷たく感じられた。
(まったく……この空気にふさわしい、冷たい話題だわ)
ミネットの心は、目の前の母が語り出した内容で静かにざわついていた。だが、その動揺を悟られるまいと、彼女はあくまで平静を装う。
「婚約……ですって?」
問い返す声は、あくまで穏やかだった。だが、微笑の奥に棘を仕込むのをミネットは忘れなかった。それは、長年社交界で磨き上げられた、彼女なりの処世術だった。
母、セレスト・ヴィルネール侯爵夫人は、娘の探るような視線を受けても表情一つ変えない。彼女の顔には、この話題に対する揺るぎない確信が浮かんでいた。
「ええ。北方のノールガール辺境伯。彼があなたの婚約者になるのよ」
ミネットは、きらめく紅茶の表面に映る自分の目元をじっと見つめた。そのアイスブルーの瞳は、普段の気まぐれな輝きとは異なり、警戒するように細められている。
(辺境伯? 狼の棲む氷原で、剣を振るって生きるような……そんな男が、わたしの相手?)
頭の中に浮かんだのは、荒々しい雪景色の中、毛皮を纏い、巨大な剣を背負った野蛮な男の姿だった。王都の絢爛な生活とはかけ離れた、想像を絶する日常。
「……北って、あの氷点下で狼と戦ってるような土地? 侯爵家の令嬢をそんなところに?」
茶杯の底を揺らしながら問いかけるその声音は、まるで興味なさげだった。しかし、内心は先ほどよりも激しくざわついていた。王都の社交界の華として、”お人形のような令嬢”として窮屈な生活を送ってきたミネットにとって、この唐突な話は、一筋の光にも見えたのだ。
(ねえ、本気? でも――面白い。逃げ出すより先に、見てみたいわ。どんな人なのか)
ミネットの心の中で、退屈な日常に新たな刺激を求める”仔猫”が、小さく尻尾を振った。政略結婚には反発していたはずなのに、この北方の辺境伯には、なぜか抗いがたい好奇心が湧き上がっていた。彼女は、誰よりも他人の心の機微に敏い。そして、常に物事の本質を見抜こうとする冷静な視点を持っていた。この縁談の裏に、何か抗えない大きな力が働いていることも、薄々感じ取っていた。
数日後、ノールガール辺境伯ゼノが王都を訪れる日。ヴィルネール侯爵邸は、いつも以上に厳かな雰囲気に包まれていた。香炉のバラの香りはさらに濃くなり、使用人たちは皆、緊張した面持ちで持ち場についている。
ミネットは、自身の美しさを最大限に引き出すために選ばれた、淡いすみれ色のドレスに身を包んでいた。胸元には控えめな宝石が輝き、白銀の髪は流れるようにまとめられている。しかし、その完璧な着こなしの裏で、彼女の心はひそかに高鳴っていた。
「ミネット様、まもなくノールガール辺境伯がお見えになります」
侍女のエリーゼ・ベルモンドが、いつもの皮肉めいた口調ながらも、どこか緊張した面持ちで告げた。エリーゼはミネットとは幼い頃からの付き合いで、彼女の気まぐれな性格をよく理解していた。
「そう。ご苦労様、エリーゼ」
ミネットは鏡に映る自分に微笑みかけた。普段通りの、少し気まぐれな猫のような微笑。
「あの無愛想ゴリラ、本当に来るんですかね? 噂じゃ、すごい堅物だって話ですけど」
エリーゼの軽口に、ミネットは肩をすくめた。
「あら、失礼ね。それに、ゴリラだなんて。どんな人か、楽しみじゃない?」
(まさかエリーゼにまで、そんな噂が届いているとはね。でも、確かに興味深いわ。私を”北”へ連れ去る男が、どんな人物なのか)
その時、応接室の扉が静かに開かれた。
ノールガール辺境伯、ゼノ。
ミネットの視線はまっすぐに彼を捉えた。一瞬、室内の空気がぴんと張り詰めたように感じられた。そこに立っていたのは、彼女が想像していたような野蛮な男ではなかった。
鋼のような静けさを湛えた深い青の瞳。均整の取れた、堂々とした体躯。鍛え上げられた軍人のような佇まいには、確かに畏怖を感じさせるものがあった。しかし、その目がミネットと合った瞬間、ふいに逸れた。わずかに視線が揺らぎ、彼は一瞬だけ居心地悪そうに身じろぎした。
(あら……人前に慣れてると思ったけど、違うの?)
ミネットは内心で少し驚いた。これほどの威厳を纏っているにもかかわらず、どこか不慣れな雰囲気があった。彼の頬が、微かに紅潮しているように見えるのは、気のせいだろうか。ゼノは、一度逸らした視線を再びミネットへと戻した。その表情は、やはりどこかぎこちない。
「初めまして、侯爵令嬢」
ゼノの声は低く、そして抑えられていた。礼儀正しいが、どこか不自然な硬さがある。
(……やっぱり。不器用。見た目だけじゃないのね)
ミネットは、彼の言葉遣いや態度から、その内面を瞬時に読み取った。社交界の男たちのように巧みな言葉を操るタイプではない、と。しかし、それがかえって彼の正直さを物語っているようにも感じられた。
ゼノはミネットの沈黙に、一瞬だけ喉を鳴らした。彼の脳裏では、側近のハルトから事前に叩き込まれた”侯爵令嬢への挨拶マニュアル”が、慌ただしく駆け巡っていた。
(言え。ちゃんと挨拶を。いや、気取るな。素直に――)
しかし、彼の中から出てきた言葉は、予定調和を打ち破るものだった。
「俺の評判がどう伝わっているかは知らないが、君を軽んじるつもりはない」
それは、彼の誠実さを示す言葉だったが、あまりにも飾り気がなく、そして無骨だった。
(……いや、それじゃ味気なさすぎないか? “光に導かれるようだった”とか、“初めて春を感じた”とか……そういう言葉を用意しておけ、ゼノ)
ゼノは内心で頭を抱えた。自分の言葉のチョイスの悪さに、深い溜息をつきたい衝動に駆られる。しかし、その内心の葛藤に気づかぬふりをして、ミネットは微笑んだ。
「まあ、誠実な人ではあるのね。それだけでも救いかしら」
(でも、少し残念。もう少しだけ、ドラマティックな言葉が欲しかったのよ。だって、人生に一度の“はじまり”なんだから)
ミネットの心は、ほんの少しだけがっかりしていた。しかし、同時に、この堅物な辺境伯との結婚生活が、退屈なものにはならないだろうという予感も抱いた。彼の不器用さは、彼女の好奇心を刺激するに十分だった。
結婚式当日。王都イシュタリアの中心にそびえ立つ白亜の聖堂に、厳かな鐘の音が鳴り響く。その音は、ミネットの耳には、まるで新しい人生の幕開けを告げる祝砲のように聞こえた。
ミネットは、金糸の刺繍が施された純白のヴェールを揺らしながら、父、ヴィルネール侯爵の腕に引かれ、ゆっくりとバージンロードを進んだ。聖堂のステンドグラスから差し込む七色の光が、彼女の白いドレスとヴェールを幻想的に照らし出す。
(この景色が、わたしの人生の分岐点? 本当に?)
一歩一歩進むごとに、幼い頃からこの屋敷で過ごした日々が走馬灯のように脳裏をよぎる。華やかさの裏にあった窮屈さ、”お人形”のように振る舞うことを求められた日々。そして今、彼女は、そのすべてを置いて、見知らぬ土地へ旅立とうとしていた。
視線の先。祭壇の前に、ゼノは軍服姿で直立していた。その姿は、まるで王の前に立つ忠実な騎士のようだ。表情は硬く、一点の隙もない。その威厳ある佇まいが、ミネットのわずかな不安を打ち消していく。
(……緊張してる? でも、目はわたしをちゃんと見てる)
ゼノの灰色の瞳は、まっすぐに彼女だけを映していた。その視線は、周囲の喧騒や華やかさに一切惑わされることなく、ただひたすらにミネットを捉え続けている。ゼノの心臓は、まるで北の猛吹雪のように荒れ狂っていた。
(これ以上にふさわしい言葉がないのか? どうして“君は光だ”くらい言えない? いや、言えない。……心の中では思っていても、それを口に出す勇気が、俺には……)
彼は、ミネットの美しさに、言葉では表現できないほどの感銘を受けていた。純白のドレスに身を包んだ彼女は、まるで聖女のように神々しく、彼にとって、まさに「光」そのものだった。しかし、それを口に出す術を、彼は知らなかった。幼い頃から軍人の家系で育ち、感情を抑制することを叩き込まれてきた彼にとって、ロマンチックな言葉を紡ぐことは、剣を振るうことよりも困難だった。ついに、ミネットはゼノの隣に立った。司祭の声が聖堂に響き渡る。
「ミネット・ヴィルネール。あなたはゼノ・ノールガールを、夫とすることを誓いますか?」
一瞬、聖堂の空気が凍りついたように感じられた。ミネットは返答をわずかにためらった。彼女の心の中で、二つの声がせめぎ合っていた。一つは、この結婚が自分を新たな”檻”へと閉じ込めるのではないかという疑念の声。もう一つは、この不器用な男が、自分を大切にしてくれるのではないかという微かな期待の声。
(この瞬間が、檻の鍵を閉じる音じゃないといいけど……)
しかし、彼のまなざしが、自分の答えだけを必要としているように感じられて――。彼の深い青の瞳は、真っ直ぐにミネットの意思を求めていた。そこに、嘘偽りのない誠実さを見た気がした。
(……いいわ。少なくとも、わたしをちゃんと見ている。そこだけは嘘じゃない)
ミネットは、迷いを振り切るように、澄んだ声で答えた。
「……ええ。誓いますわ」
その瞬間、ゼノの硬く引き結ばれていた口元が、わずかに緩んだ。それは、彼が見せた初めての、そして極めて控えめな安堵の表情だった。
(ありがとう……それしか言葉が見つからない。もっと詩的に、もっと感動的に応えられたら――)
彼の胸の奥には、感謝と喜び、そしてミネットへの敬愛の念が溢れんばかりに満ちていた。しかし、その複雑な感情を、彼はたった一言でしか表現できない。
(でも、今はこの一言に全部を込めるしかない)
式が終わると、ヴィルネール侯爵家の屋敷に戻る時間が刻々と迫った。ミネットの金糸のヴェールは外され、純白のドレスの裾が静かに翻る。見慣れた王都の馬車に乗り込むと、隣に座るのはもう父でも侍女でもなく、夫――ゼノだった。
(夫……ふふ、まだちょっと面白い響き)
ミネットは横目でゼノを見た。彼は相変わらず不器用に前を向いている。表情も硬い。けれど、時折こちらを盗み見る視線があって、それが少しだけ可笑しかった。まるで、獲物を狙う猫のように、しかし警戒するような視線。
(見ないふりして、ちゃんと見てるじゃない)
一方のゼノはといえば、並んで座る彼女との距離を測るように、心中で激しく葛藤していた。
(もう少し、言葉をかけるべきなのではないか? いや、だが何を? 「美しい」? そんな月並みな言葉では足りない。“一輪の雪花が春を運んできた”――いや、それはさすがに大袈裟か)
彼の唇が僅かに動き、何かを紡ぎ出そうとしては、また閉じられる。その微かな動きを、ミネットは気づいていた。
(何か言いたげなのに……言わないのね。相変わらず無愛想)
ミネットは、内心で彼の不器用さに微笑んだ。彼の言葉が出ない代わりに、彼の瞳が何かを伝えようとしている気がして、ミネットは言葉を待つ気になった。ゼノは迷った末、観念したように口を開いた。
「……寒くないか?」
その言葉に、ミネットは小さく噴き出す。それは、彼が思い描いていた「ロマンチックな言葉」とは程遠い、あまりにも日常的な問いかけだったからだ。
「寒いのは、これからですもの。北に行けば、冬には吹雪の洗礼があるんでしょう?」
彼女の声は楽しげで、からかうような響きを持っていた。しかし、ゼノはさらに自問する。
(……それじゃ駄目だ。“これから君を温める”とか、そう言うべきではなかったのか? なぜ俺の口はこうも平凡なことしか言えない?)
彼は、自分の言葉の選択の不適切さに、深い自己嫌悪を感じていた。だが、ミネットはそんな彼の内心を知ってか知らずか、ただ楽しそうに微笑んでいた。
王都の華やかさが背後に遠ざかり、馬車は長い道を越えていった。豊かな平野は徐々に姿を消し、代わりに岩肌の荒々しい山々が連なるようになる。気温は目に見えて下がり、窓の外の景色は、やがて白銀の世界へと変貌していった。
ノールガール辺境伯領――それは、風の音すら重く響く寒冷地だった。空の色すら王都とは異なり、どこまでも鉛色に広がっている。樹々は雪に覆われ、道の両脇には、風が吹き荒れてできた氷の塊が点々と存在している。屋敷に近づくにつれ、ミネットはじっと窓の外を見ていた。彼女のアイスブルーの瞳は、興味深く、そして冷静に、この新しい土地のすべてを観察している。
(……想像以上。これはまさに、氷の国)
王都の華やかさとは対照的な、厳しくも美しい光景。しかし、彼女の心に恐怖はなかった。むしろ、これまで感じていた窮屈さから解放されるような、清々しささえ感じていた。
やがて、馬車は広大な敷地に入り、堅牢な石造りの建物へとたどり着いた。ノールガール辺境伯の要塞屋敷。到着すると、出迎えたのは一列に並んだ兵士たちと、質素だが整然とした使用人たちだった。皆、寒さに慣れたかのような、引き締まった表情をしていた。なかには、ミネットと同じ年頃のメイドも混じっており、彼女は好奇心と警戒が入り混じった目でミネットを見つめていた。
「ノールガール辺境伯の妻、ミネット様をお迎えいたします!」
辺境伯家の執務官、ハルト・グレイの低い声が、静かな雪景色の中に響き渡る。ミネットの背筋は自然と伸びた。彼女は堂々と馬車を降り、真っ白な雪を踏みしめた。冷たい空気が肌を刺すが、彼女の表情は晴れやかだった。
(ようこそ、わたしの新しい舞台へ)
ミネットは、これから始まる新しい生活に、静かな興奮を覚えていた。
屋敷の内部は、外観と同様に石造りで、壁は冷たく、装飾も控えめだった。ヴィルネール家が宮殿のような絢爛さであるのに対し、ノールガール辺境伯邸は、実用性と堅牢さを追求した、まさに要塞といった趣きだった。しかし――ミネットはそこに、ほんの少しの温もりを見つけた。
廊下を進むと、パチパチと音を立てて燃える暖炉の火が、冷たい石壁に温かな光を投げかけていた。厚手の絨毯が敷かれ、その絨毯の端で、一匹の黒猫が丸くなって眠っている。その姿は、あまりにも唐突で、ミネットの心を和ませた。
(あら……猫? こんなところに?)
ミネットは思わず足を止め、黒猫を見つめた。王都では、猫を屋敷に入れることはあまりなかったからだ。
「クロです。……あなたのために拾った」
ゼノがぽつりと説明した。その言葉は、彼の不器用さの中に、どこか優しさを感じさせた。彼が「あなたのために拾った」と言うのは、かつてこの猫を拾った時、自分自身がこの猫を抱き上げ、世話をしたことを示している。それは、彼が口に出さない優しさの一端だった。
(“あなたのために拾った”って、まるで運命みたいに言うのね)
ミネットは、その言葉の裏にあるゼノの無自覚な優しさを感じ取った。そして、いたずらっぽい笑みを浮かべた。
「じゃあ……この子と一つ、共通点ができたわね。わたしたち、どちらもこの屋敷に連れてこられた猫」
ミネットは、まるで自分もこの猫のように、彼の元へ連れてこられた仔猫だとでも言うかのように、楽しそうに笑った。ゼノの眉がわずかに動いた。
(……なんだその比喩は。だが、妙に心に残る)
ミネットの言葉は、ゼノの心を揺さぶった。彼女の自由奔放な発想は、彼の堅苦しい思考回路にはなかったものだ。しかし、彼女の言葉は、なぜか彼の心に温かい感情を呼び起こした。ミネットはふっと目を細める。
(この人は、きっと不器用なだけ。本当は優しい目をしてる。それに、ちゃんとわたしを見てくれてる)
彼女は、ゼノの堅物の奥にある、誠実さや優しさを感じ取っていた。彼の言葉は少なくても、その瞳は、彼女にまっすぐ向き合っていた。ゼノは静かにミネットを見つめながら、自分の中の問いにまた答えを探していた。
(どうして、もっとロマンチックな言葉が出てこないんだ? “君が来てくれて、世界が変わった”くらい、言えないのか。……けど、嘘の言葉は吐きたくない)
彼の心には、ミネットがこの屋敷に来てくれたことへの純粋な喜びと感謝が溢れていた。しかし、それを飾り立てる言葉を選ぶことは、彼にとってあまりにも困難だった。だからこそ、ゼノは不器用なまま、ただ一言だけを選んだ。
「……ありがとう。来てくれて」
それは、たった八文字の短い言葉だった。しかし、その言葉には、彼の心の奥底にある、飾り気のない真摯な感情が込められていた。その言葉を聞いたミネットの胸の奥に、ぽたりと灯がともったような気がした。それは、暖炉の火よりも、もっと温かい光だった。
(うん……それでいい。今はまだ、それだけで)
ゼノが部屋から出て行った後も、「……ありがとう。来てくれて」という言葉の余韻が、暖炉の火の音とともに、しばらく部屋の空気に漂っていた。ミネットは静かに笑った。微笑んだというより、どこかくすぐったそうな顔で。まるで、初めて触れる温かさに、少しだけ戸惑っているかのように。
(今の、ちゃんと“夫の言葉”だった。ちょっと照れ臭くて、でも……嫌いじゃない)
ミネットの心は、彼との出会いに感じた好奇心とは異なる、もっと温かい感情で満たされ始めていた。
一方、執務室へと戻ったゼノは、口元を引き結び、少しだけ目線を逸らしていた。
(これでいいのか? もっと、式の夜にふさわしい言葉があったのでは? たとえば――“君のためにこの屋敷を温めておいた”とか……いや、それも妙だな。言うべき時機を逃した気がする)
彼の内心は、未だロマンチックな言葉を紡ぎ出せない自分への不甲斐なさでいっぱいだった。
そんな彼の内心とは裏腹に、側近兼執務官のハルトが、いつもの淡々とした声を発した。
「旦那様。奥方様に邸内をご案内なさいますか?」
ハルトは、ゼノの感情表現の苦手さをよく知っていたため、あえて具体的な行動を促した。
「ああ、そうだな」
ゼノは小さく頷き、立ち上がった。ミネットの部屋へと再度赴く。静かに扉を叩き、中からの返事と共にミネットが出てくる。
「屋敷を案内する。……広くはないが、必要なものは揃っている」
そう言って差し出された手を、ミネットは少し驚いたような顔で見た。彼の言葉は質素だったが、その行動は、これまで以上に彼の心境を表していた。
(あら……手を、差し出した?)
ミネットは、一瞬迷ったふりをしてから、その手を取った。彼の指先には力はなかったけれど、掌は意外と温かかった。その温かさが、彼女の心にじんわりと広がる。
ノールガール辺境伯邸は、石造りの要塞のような構造だった。廊下は長く、暖炉のある部屋以外は肌寒さが残る。使用人たちは最小限に抑えられ、足音すら静かに響く。
「ここが食堂。……大きな暖炉があるのはここだけだ。次に……執務室、それと兵の控室が隣にある」
ゼノの説明は事務的で、必要最低限だった。彼は、屋敷の機能性を説明しているようだった。しかし、その歩幅は、ミネットの小さな歩幅に合わせていた。
(案外、気を遣ってくれてるのね。……言葉にはしないけど)
ミネットは、彼のそうした細やかな気遣いを敏感に感じ取っていた。言葉で表現できない分、彼は行動で示そうとしているのだと。
廊下の突き当たりに、装飾の少ない扉が二つ並んでいた。ゼノは左側の扉の前で立ち止まった。
「ここが君の部屋だ」
「……ふうん」
ミネットは、右隣の扉を一瞥した。
(なるほど、寝室は“別”なのね)
当たり前だと言われればそうだが、婚礼の夜としては少し拍子抜けだった。彼女は、ゼノが自分に対して、どのような態度で接してくるのか、内心では少し期待していたのかもしれない。
(まあ……期待なんてしてないけど。けど、たとえば「一緒に寝てもいいか?」くらい、聞いてくれてもよかったのに)
ミネットは自分の心が、ほんの少し波立っていることを自覚しながらも、それを顔には出さなかった。彼女は、期待通りの反応を見せない猫のように、わざと平然を装った。
「ありがとう、旦那様。じゃあ、わたしはここで」
くるりと背を向けようとしたそのとき──。
ゼノが何か言いかけて、言葉を飲み込んだ気配があった。彼の喉が上下し、何かを懸命に伝えようとしているのが、ミネットには見て取れた。
(……言え。言うんだ俺。せめて、“おやすみ”くらい)
ゼノの内心では、まだロマンチックな言葉たちが乱舞していた。「君が安心して眠れるように」「何かあればすぐに駆けつける」……しかし、それらの言葉は、彼の口から出てこなかった。葛藤の末、彼の喉から出たのは――
「……何かあったら、すぐに呼べ。扉は隣だ」
(もっとロマンチックに言えなかったのか、俺……!)
ゼノは、自分の口から出た言葉の平凡さに、再び深い溜息をつきそうになる。しかし、ミネットの反応は、彼の予想とは違った。
一瞬、ミネットの足が止まった。彼女は、肩越しにこちらを振り返る。そのアイスブルーの瞳が、彼をじっと見つめている。
「……それ、まるで“すぐに駆けつける”って言ってるみたいね?」
ミネットの言葉に、ゼノは答えない。ただ、少しだけ頷いた。その小さな頷きの中に、彼のすべての意思が込められているようだった。
ミネットはそれで満足したように、くすりと笑う。彼女の心の中には、暖炉の火が燃え盛るように、温かい感情が広がり始めていた。彼の不器用な優しさが、彼女の心を捕らえたのだ。
(ふふ……不器用なロマンチスト。悪くないわ、そういうの)
「おやすみなさい、旦那様」
扉が静かに閉じる音がした。ゼノはその前でしばし立ち尽くし、ようやく自室へと向かう。
(……言いたかったことは山ほどあった。“この屋敷が、君にとって安らげる場所であってほしい”とか、“今日の君は本当に美しかった”とか)
けれど、それらはすべて喉元で凍ってしまった。
(……明日こそ、ちゃんと言おう)
ゼノは、明日こそは、と心に誓った。そして彼は、質素で無骨な部屋の中へと静かに消えていった。だが、彼の胸の中には、ミネットへの温かい感情が、静かに、そして確かに育ち始めていた。そしてミネットもまた、冷たい王都から連れてこられたこの辺境の地で、不器用ながらも温かい愛に包まれていく予感を抱いていた。