【08】ベンバートン伯爵邸 下
三英傑。それは、十五年前、北部の国有地《黒い深き森》に現れた魔族と、命がけで戦った三人の魔法士のことを顕彰する呼び名。
その戦いを指揮していたのは若き第二王子だったが、彼も命を落としている。王子の名は公式には“三英傑”には含まれていないが、民間では「四人目の英雄」として語り継がれている。
それは、この国において“語られている”歴史の一端にすぎない。
ようやく椅子を引いて席に着いたアランに、ルルシュカはソーサーに伏せられたカップをそっと持ち上げ、ポットから紅茶を注いでやる。
「御伽話っていうのは、どう言う意味?」
ルルシュカの所作を見ながら、アランは先ほどの言葉の意味を確かめるように質問を重ねる。
「知らないの? 三英傑は魔族を倒しはしたけど、全滅だったらしいんだ。それなのに、話は今や絵本や舞台にもなってるなんて……。まさに、御伽話じゃない?」
まさか、自分自身が“その中の登場人物”にされているとは――。
誰かが語る物語の中で、勝手に意味を持たされ、飾られ、敬愛される。
それを知るたび、笑うことも怒ることもできず、ただ誰も知らない苦味を、静かに口元で噛みしめるしかなかった。
紅茶が注がれたカップを渡すと、アランはどこか納得したような、していないような表情を浮かべているように見えた。
「……ありがとう」
カップを受け取ったアランは、紅茶を口に含み、湯気越しにじっとルルシュカを見つめた。
「ねぇ……さっきのって、あれも魔道具なの?」
これが悪意からではないと分かっていても、胸の奥がヒリつく。
これ以上の言い訳は苦しいが、もう少し様子を見てみることにする。
先ほどのトラップの件も、もしかしたら何か意図があったのではと疑えなくもない。とはいえ、あのときのアランの顔からして、狙ってやったものではなかったのも確かだが。
「そうだよ。服の下にネックレスをしていて、そのチェーンに指輪が通してあるんだ」
淡々と言いながら、服の上から指輪を軽くなぞる。
「でも、この魔道具は護身用につくったもので、本来は規定に反するんだ。だから――」
「もちろん黙っておくよ。……本当にルルって、すごい女の子なんだね」
口に含んだ紅茶を思わず吹き出しそうになった。
この無邪気さの裏に、何が隠されているのだろう。それとも、これは演技ではなくて、本当にこういう性格なのだろうか――。
ルルシュカの目がアランの顔をじっと捉える。
「ま、まぁ。……そうかもしれないね」
ネックレスの指輪は、アランに渡した、店の裏口を繋ぐ指輪と同じもの。
あんな雷撃を撃てるような、そんな機能はないし、攻撃特化の魔道具の製造は国から禁止されている。
リディア夫人がなぜああなのかは分からないが、おそらく紹介者にでもこそっと聞いていたのかもしれない。
(昨日のあの態度は何だったのか? 私の勘違い……?)
けれど、あの目の動き、言葉の端々に隠された何かがあった気がしてならない。
ルルシュカは茶請けのクッキーを口に含み、もぐもぐと噛みながらソファで寛ぐトムに視線を向けた。気づいた彼は、黄金色の瞳を細めて楽しげに笑う。
その後、二人はお菓子をかじりながら、会話もそこそこに紅茶を静かに啜った。
あっという間に終わった休憩。テーブルを整え直していると、部屋の外から控えめなノックと足音が重なる。
ルルシュカは立ち上がり、扉の方へ向かった。
「ご無沙汰しております、アーサー様。エミリアお嬢様」
夫のアーサーはキャラメル色の髪を整え、以前と変わらず逞しい軍人の体躯をしていた。鍛え抜かれたその体格に、つい感心の念を抱く。
「やあ、ルルシュカさん。久しいね。堅苦しい挨拶は抜きにしよう。弔意の言葉、リディアもありがたく受け取っていたよ。さて、そちらが見習いのアランさんだね? アーサー・ベンバートンだ。こちらは娘のエミリア」
エミリアは今年十六歳。数年前とは見違えるほど垢抜けた姿に、母リディアの華やかさをしっかり受け継いでいる。
ルルシュカは彼女の成長を嬉しく思った。
「ルルシュカさん、こんにちは。またお会いできて嬉しいです。アランさんは、初めましてですね」
エミリアは慣れた所作でカーテシーをし、アランも礼を返したが、なぜかすぐに彼女から目をそらしていた。
「金庫から魔獣が現れたと聞いて驚かされたよ。妻がルルシュカさんの勇姿を見られたと大興奮でね。こんなに楽しそうに話す妻を見るのは久しぶりだ」
リディアは「大げさよ。恥ずかしいわ」と扇子で口元を隠し、夫に寄り添う。
「こちらの不手際にも関わらず、リディア夫人には温かいお言葉をいただき感謝しております」
「相変わらず君は硬いな! しかし、残念だよ。君の勇姿、私も娘も間近で見たかった」
豪快に笑うアーサーには“豪傑”の言葉がよく似合う。しかし、どこか生まれ持った気品も漂っていた。
「恐れ入ります。私のような臆病者としては、今後このようなことが二度と起こらないことを願っております。皆様お揃いとなりましたので、早速ではございますが金庫の開錠と参りましょう」
ルルシュカは簡潔に一礼し、金庫の作業へ戻る。トラップ魔法を解除した金庫の初期化は一分もかからなかった。
「お待たせ致しました」
ルルシュカは金庫から離れ、アランと共に壁際に下がった。
金庫の中から機械音が鳴り、一枚の金属板の扉が重々しく少しだけ開く。アーサーが扉を開ければ、中には小ぶりな円形の箱が一つだけ入っていた。
(老舗ブランドの……ハットボックス? マダムは何を入れてたんだろう?)
首を傾げながら中身を見つめていると、アーサーが箱を取り出し、ゆっくりと蓋を開けた。
中にはキラキラ光る小石や貝殻、リボンやレース紐、壊れた髪飾りなど、いずれもマダムの物とは思えない、単なる不用品にしか見えなかった。
蓋の裏には手紙が差し込まれている。ちらっとだけ見えたそれには、美しい字で、エミリア、と書かれており、その字は、マダムのものだった。
「……これだけのようだな」
その言葉に、部屋の空気は微妙に変わった。期待と現実のギャップが、言葉にできない重さをもたらしている。
重厚な金庫の中に入っていたとは思えない、まるで少女の宝箱のような品々。それを見つめるエミリアの顔に、ふわりと笑顔が咲いた。
「まぁ……」
感嘆の混じる声が張りつめていた空気を和らげた。
「お父様、これ、私のだわ」
「なっんだって?」
「エミリア、どういうことなの?」
「これ、私がお⽗様とお⺟様に内緒で集めていた宝物なの。でも乳⺟のマリアに⾒つかったら捨てられちゃうと思って、お祖⺟様に相談したのよ。――私の宝物を、⼤切にしまっておけないかしらって」
エミリアは顔を綻ばせて笑うと、戸惑う両親にそれらにまつわる思い出を話し始めた。
壁際からその様子を静かに見守っていたルルシュカは、そっと目を細める。微笑みとは違う、胸を温める優しい感情を抱いていた。
マダム・ベンバートン――
彼女との思い出は数え切れないほどあり、その一つ一つは今でも大切に記憶の中にしまってある。
宝箱の残し方も、彼女らしく思えた。
――友人の願いを、どうか聞いてほしい。
あの日の夜の声が脳裏に蘇る。
『……伯爵? どうされたんですか?』
『なにがあっても。なにを裏切ってでも――必ず、生き延びてちょうだい』
それは、周りの喧騒にかき消されそうなほど小さく、それでも確かな声だった。
ルルシュカは静かに目を閉じ、また一人、世を去った大切な人に想いを馳せる。
思いがけない形ではあったが、指輪は見つかった。残るはひとつ。
(でも、あなたがいなければ……もう)
熱くなった目頭をごまかすように、そっと天井を仰ぎ見て深呼吸する。静かに金庫へ向かい、一家に声をかけ、新たに家族の魔力登録を手早く済ませた。
(さようなら、マダム・ベンバートン伯爵)
ルルシュカは胸に秘めた思いを抱き、静かに荷物をまとめてベンバートン家を後にした。