【07】ベンバートン伯爵邸 中
夫人に用意してもらった踏み台に乗り金庫へと対峙するルルシュカ。
邪魔にならないよう彼なりの配慮なのか、アランはそこから一歩下がった壁側の位置で静かに立っている。
(一応格好だけはとっておくか……)
アランへ向けて、ルルシュカは面倒臭そうに説明を始める。
「これは古代魔道具だよ。魔法だけで操作するんだ。扉が開く仕組みは、中にあらかじめ仕込まれてる。今回は設定を初期に戻して、ご家族の魔力の登録をするって流れなんだ。――けど」
「けど?」
「間違えるとトラップが作動する」
「へぇ……。それって大丈夫なの? ……アンティークの整備には、魔法士が立ち会いするんだよね? ここにはいないみたいだけど……?」
通常ならアンティークの整備に、魔法士の立ち会いは必須だ。バレればすぐに魔法士側に通報が入り、あっという間に営業停止になる。
だが、ルルシュカはミアの上司との協議により立ち会いの免除を密かに受けている。書類上では、ここにミアがいることになっているのだ。
「必要があれば、だよ」
さもそれが当たり前かのように、ルルシュカは息を吐くように嘘をつく。
「そうなんだ」
こんなに簡単に納得されると、悪い大人に騙されないか心配になってくる。だが、それは自分がすることではない。すぐに、仕事モードへと頭を切り替える。
「魔道具の整備がどれだけ地味か、よく見ておきなよ。まぁ、すぐに飽きると思うけど」
金庫に手をかざし魔力を送ると、金庫の前に淡い光を放つ魔法陣が浮かび上がる。
複雑に文字や図形が描かれた魔法陣は、見ているだけでも目が疲れそうだが、この緻密さが魅力でもある。
手の動きに呼応するように、複数の魔法陣が淡く輝きながら展開されていく。
魔道具の魔法構築理論は、階層構造になっており、それぞれ必要な情報が積み重なって出来ている。命令式が複雑に絡み合い、一行の書き換えにも高い知識と読解力が求められる。
慣れた手つきで命令式を読み解き、必要な箇所を書き換えていく。時折、視界の端に映るアランが、その作業を静かに見つめていのが見えた。
ただひたすらにこれを繰り返していくのだ。
隣の少年が何を思っているのかは知らないが、アランはその場を離れることはなく、その視線はしっかりとこちらに向いていた。
途中、作業の手を止め、踏み台を降りた。
数歩先に置いたトランクの上の小瓶から飴を取り、口に含み、まだ作業台へと戻る。
無言のまま視線を向けてくるアラン。彼の目が、なぜだかやけに意識に引っかかる。
金庫に掛けられるトラップを、丁寧に解除していく。まだ疲労は感じない。
ルルシュカは隣の青年の事を気にかけつつ、黙々と作業を進めた。
新たに飴を口にする頃には、夫人のティーポットはすっかり空になっていた。
飴玉を舌先でくるりと転がしながら、最後のトラップ解除に集中する。
視界の端に、先程まではいなかった羽虫がチラチラと見えはじめたが、気にすることでもない。
(あとは、ここを書き換えるだけだ……)
――瞬間。
視界の端で、骨ばった手が羽虫を取り払うように動いた。その指には、見慣れたセントリオの指輪。
次の刹那、魔力の奔流が金庫の魔法陣に干渉する。
複雑な光紋が螺旋を描くと、淡く鈍い音とともにトラップが発動していく。空気が一瞬で張りつめた。
驚きに横を見れば、そこにはアランの青ざめた顔があった。
目を見開き、唇を強く結び、どうすることもできずに立ち尽くしている。……どうやら、偶然を装い仕掛けたわけではなさそうだ。
新たに展開された魔法陣から、トラップの内容におおよその検討をつける。
(距離は取れないけど、仕方ないな……)
ルルシュカは迷いなくアランを両手で突き飛ばした。音を立てて壁際に倒れ込むアランと金庫の距離は近いが、正面からズレたので良しとする。
自らも一歩、また一歩と後方に跳び下がり体勢を整える。
ブーツが床を強く打ち鳴らし、ローブの裾がふわりと舞う。光沢のある黒のスラックスと、フリルのついたシャツがわずかに揺れ、細身のリボンタイが微かに震えていた。
斜め後ろにいるリディアを見れば、彼女は椅子に腰掛けたまま、少女のような笑顔でこの状況を伺っている。
「申し訳ございません。すぐに処理いたします」
「ふふ。どう対処するのか、楽しみだわ」
リディアは、目を輝かせていた。その表情は、まるで舞台の幕開けを待つ観客のようだ。
金庫へと視線を戻せば、床と天井にまで届きそうな魔法陣が展開されている。鈍い唸りを上げ、狼に似た大型の魔獣がその中から姿を現し、徐々にその体を露わにしていく。
喉を鳴らすような音を漏らし、魔獣が大きな口を開け牙を剥き、部屋中を震わせるような咆哮を響かせる。
(この状況を楽しんでるなんて……さすが、マダムのお嬢様だ。あの子は……あのまま動けそうにないな)
ルルシュカは静かに息を吸う。
フリルの袖越しに、右手と左手の指先が胸の前でそっと触れ合う。
淡い光が指先から立ち上り、囁くように詠唱を始めた。
「蒼白の雷 轟け雷鳴 眩耀の導きにて敵を穿て」
魔獣が駆け出した刹那、ルルシュカは右手を突き出し、口中の飴を鋭く噛み砕く。魔力が体を覆っていくのを感じながら、人差し指を軽く曲げた。
――雷撃
空気がビリッと裂けるように震え、切り裂くような雷光が一直線に魔獣の頭頂を貫いた。
強い衝撃に動きを止めた魔獣は、そのまま鈍い音を立て床に崩れ落ちる。徐々に体が解け魔素に変わっていくと、跡形もなく姿を消した。
安堵したのも束の間、心臓を鷲掴みにされた様な痛みがルルシュカを襲う。
胸の前で拳を握り、深呼吸をして体内の魔力を循環させていく。脚の力が抜けて、ストンと落ちるように床に片膝をついた。
壁際に追いやったアランを見れば、彼は目を見開いたまま、何も言わず尻餅をついている。眼鏡は無事なようだ。
背後から優雅な拍手が響く。
振り返れば、椅子に腰掛けたままのリディアが満面の笑みで手を打っていた。
「なんて美しい魔法なのかしら。閃光の魔法士様を彷彿とさせるわ。とっても素敵」
リディアはうっとりと頬に手を添えていた。
(……そういえばこの人、大の魔法士オタクだったな)
久しぶりにその姿を目の当たりにした。
膝に鞭打ち気合いで立ち上がり、そのままリディアへと向き直る。
じわりと、全身に汗がにじんでいくのがわかる。
(気づかれる前に、一旦ご退場頂こう)
気丈に振る舞い、来た時と同じように丁寧な所作でカーテシーをした。
「驚かせて申し訳ありません。閃光の魔法士様とは恐れ多いお言葉です。作業はほぼ終わりましたが、臆病な私に少し休息の時間をいただけますか?」
「ええ、もちろんよ。あと二十分ほどで主人が戻ってくるの。主人もルルシュカさんに会いたいと言っていたから丁度いいかしら」
「お心遣い感謝いたします」
「お二人のお茶の用意はあちらにございますから、どうぞごゆっくりなさってくださいね」
リディアは立ち上がり「また後でね、トムくん」とご機嫌に声をかけ、静かに部屋を後にした。
ドアが閉まってから数秒、ルルシュカはその場を動くことなくリディアの足音が遠ざかるのをじっと待った。
足音が完全に消えたのを確かめた途端、膝が崩れ、そのままぐったりと床に倒れ込む。
「しんどい……死ぬかと思った……」
先ほどまでの行儀はどこへいったのか。
彼女は床に寝転がっていた。
(……一撃で済んでよかった……連発してたら今頃倒れてる)
天井を仰ぎながら、ルルシュカはゆっくりと息を吐きながら、額に滲んだ汗を袖で拭った。
そろりと近づく気配に、うっすらと目を開ける。
「……ごめん。すごく苦しそうだけど……大丈夫?」
眼鏡越しに揺れる瞳がルルシュカを見下ろしていた。アランが膝をついて、傍に座っている。
一気に失われた魔力。
奥歯で割った飴の分だけでは到底足りず、自身の魔力も総動員して、どうにか魔法を発動させた。
小瓶の飴から自動的に補充された魔力は徐々に体に馴染んで来た。
「……すぐに良くなるから、気にしなくていいよ。それより、突き飛ばしてごめんね。……怪我、してない?」
「僕は大丈夫。でも……ルル、苦しそうだよ。僕にできることは……あるかな?」
確かにアランのせいではあるのだが。
今にも泣き出しそうな、その不安げな表情が痛々しい。
こんなに心配されるなんて、打算で動いているこちらの方が悪者に感じてしまう。
情に流されれば判断を誤る。軍時代に読んだ教本に書いてあったそれは、何度だって役に立った。
(……でも、こうも真っ直ぐに心配されると、返ってやりにくいな。一般人だし、まだ子どもだから、そう感じるのか……?)
「本当に平気だから、いいよ。それにしても見た? あの魔獣……ははっ、……君の背丈くらい大きくなかった?」
茶化して笑うと、アランは何かを噛みしめるように口元を歪ませ、困ったように眉を下げて苦笑した。
「確かに、ルルの三倍くらいはあったね」
震える指先を見て、連れてこなければよかったとルルシュカは後悔した。ようやく胸の痛みも和らぎ、汗も引いてきた。起き上がろうと手をつくと、震える声が聞こえた。
「本当に……ごめんさない」
アランは膝に乗せた手を握りしめている。
どれだけ大丈夫と伝えても、この空気は変わらない。どうしたものかと考えながら、ゆっくりと立ち上がると、横から楽しそうな声がした。
「くくっ、閃光の魔法士様、だってよ」
トムがソファの上で背もたれに体を預け、お腹を上に向けてリラックスしながら笑っている。
アランの切迫した雰囲気を一気に和らげるように、からかうようにしてルルシュカに声をかけた。
「夫人はよほど彼女の事がお好みのようだね。ほら、夫人のお茶は美味しいんだよ。一緒にいただこう」
笑顔でアランを誘い、彼もそれに応じて立ち上がった。
「……うん。ねぇ、閃光の魔法士ってあの……三英傑の魔法士だよね?」
「そうだよ。……くだらない御伽話の、ね」
――しまった。
言葉にしてすぐに、ルルシュカは後悔した。
三英傑の話は、今からもう十五年も前の話だ。
アランが知らないなら、普通に考えてルルシュカも知らないだろう。ここは同意だけですませておくべきところだ。
それでも、三英傑の話になると、どうしても胸の奥に拒絶したい感情が湧き上がってくるのだ。
反射的に出た言葉に後悔してももう遅い。
「三英傑って……御伽話なの? 三人は……実在してたんだよね?」
「さっきもリディア夫人が言ってたじゃない。閃光の魔法士様の事を。実在しない人の話を、夫人がするとは思えないけど?」
自分の失言に呆れながらも、ルルシュカは遠い記憶をなぞるように、わずかに微笑む。
質問には答えず、カップの紅茶に視線を落とした。