【06】ベンバートン伯爵邸 上
「今日はドレスコード必須だからね」
ルルシュカは飴玉を一つ口に含むと、呟くように呪文を詠唱する。みるみる口の中の飴玉から魔力が紡がれ、小さくなって消えていく。紙の魔法陣が淡い光を帯び、魔法が展開される。
ローブが淡い光をまとい、たちまち装いが変わっていく。繊細なフリルのシャツに、細身のリボンタイ。裾から覗くスラックスには皺ひとつなく、編み上げのブーツには上品な艶が浮かんだ。
またひとつ、飴を口に含むとアランにも魔法をかける。
アランの服は黒一色の三つ揃えスーツに変わり、バランスの良い彼の体にぴたりと馴染んでいた。
戸惑いと興味が入り混じった表情で、アランは袖口を見たり、背中を振り返ったりと落ち着かない。
「……これって?」
「魔道具だよ。便利でしょ」
そんなものはない。魔法だ。
だが、魔法士は魔法は使えない。そう決まっている。
小さな嘘がまたひとつ、無造作に積み上げられていく。どこかで綻びが出れば、言い訳はできないかもしれない。
(なにを話したか、覚えていないと。いつかボロが出そうだな……)
――ほんとうに?
そう問いかけるような眼差しがこちらを見ている気がしたが、彼がなにかを言うことはなかった。
この魔法には髪を整えてくれる効果もある。寝癖がついたままだった髪はサイドで分けられ、黒のリボンと綺麗に編まれ、耳の辺りから下はゆったりと髪が流れている。
いつもとはあまりにも違う風貌に、アランは目尻を下げてまたへにゃりと笑う。
表情がないと、どこかぼんやりとした、表情の乏しさを感じさせるが、一日過ごしてみると想像とは真逆だった。
「かわいい。いつもそうしてたらいいのに」
「……それはどうも」
素っ気なく答え、蝶ネクタイのデザインの首輪をトムに付けさせてもらう。
素直に応じてはくれるが、トムの視線はルルシュカを睨んでいる。
「俺をこんな扱いすんのは、お前だけだかんな」
「……へへ。似合ってるよ、トム。いつもありがとう」
なんだかんだ言いつつ付き合ってくれる彼の優しさや、このやりとりが好きだった。
あとは、アランの目の色をどうにかしないといけない。知っている人が見れば、すぐにその瞳に違和感を感じるだろう。
ルルシュカはトランクに荷物を詰めつつ、その中に入っていた眼鏡を取り出した。
「これもかけて。仕事が終わるまでは、外さないでね」
「……なんで眼鏡?」
「君は今日見習いとして同行するんだ。あった方が、ぽいでしょ」
理由が流石に適当すぎたか。
アランは何度か言葉の意味を噛み砕くかのように、ゆっくり瞬きをしていた。
「わかったよ」
だがすぐに受け取り眼鏡をかける。
魔道具の効果でアランの瞳は、ヘーゼルへと変わっている。
「眼鏡、似合うね」
「……本当? 嬉しい」
取ってつけたようなお世辞。
言葉とは裏腹に、アランのその表情がどこか納得していないような顔に見えたのは、気にしすぎだろうか。
準備を整え、アランに荷物持ちを任せる。
役割をもらえたからか、また彼は頬を緩めて笑いトランクを手にした。その様子を見てか、トムが軽やかにアランの肩へと飛び乗ってきた。
こちらを見るトムの表情はどこか挑発的で、にんまりと笑っている。トムは協力はしてくれるが、必ずしも味方というわけでもない。
その態度にルルシュカの口元がへの字に歪む。
突然のことで驚いているアランは、崩れたバランスをどうにか取り戻していた。頬に触れたトムの毛のがくすぐったいのか、片目を閉じて笑っている。
(驚くか、笑うかばっかりだな……)
アランから視線を外すと、裏口の前に立つ。
「トム。レイフォードにお願いね」
「レイフォードな」
ルルシュカの言葉に、トムは尻尾を小さく振って応えた。
店のドアを開けると、懐かしい匂いと共に、レイフォードの路地裏が目の前に広がっていた。ルルシュカの先導で路地を抜けると、やがて賑わう石畳の大通りに出た。この街はかつて王国の首都として栄えた古都で、現在はベンバートン伯爵家の領地だ。
ベンバートン家は、旧王都を礎に、周辺諸国との戦が絶えなかった時代から王国を支えてきた由緒ある名家。
政治にも軍にも強い発言力を持ちながら、どの派閥にも染まらず常に中立を保つ姿勢から、“王国の見張り役”と呼ばれている。
少し行くと、高級住宅街の奥にそびえる石造りの古城が姿を現す。
「ここって……」
「ここは、ベンバートン伯爵邸だよ」
「これが、あの……」
どうやらアランでも、その名は耳にしたことがあるようだ。
風雨に刻まれ、苔むした城は、それでもなお荘厳で、時の流れすら拒むかのような威厳を保っている。
門は、いつものように開かれていた。ルルシュカの訪問に合わせて、あらかじめ開けておいてくれたのだろう。この一家は、歓迎の意を形式ではなく、心で示してくれるのだ。
ルルシュカは、一切のためらいなく、そのまま足を踏み入れるその先で、躊躇なく玄関のドアノックを打ちつけた。
やがて重厚なドアが開き、屋敷の主人リディアが現れた。彼女はいつもルルシュカの訪問を歓迎してくれる。表情、声、態度、その全てで伝わってくる。
「いらっしゃい、ルルシュカさん。今回も遠くからありがとう。毎回助かっているわ」
キャラメル色の髪に、くっきりした顔立ち。流行のドレスがよく似合い、エメラルドの瞳をやわらかく細めて笑う。
元の魔法士が引退するという話から、知人経由でベンバートン家を紹介された。
まさかと思ったが、断る理由もなかったので引き受けたのが始まりだった。
自分で言うのもなんだが、見た目からは想像できない知識と技術、そして確かなマナー。そのギャップにベンバートン家はすぐに心を開いてくれた。
だからこそ、出迎えは家令ではなくいつもリディア夫人が務めてくれる。
「お久しぶりです、リディア夫人。いつもご愛顧いただき、ありがとうございます。このたびは先代当主、マダム・ベンバートン様のご逝去、謹んでお悔やみ申し上げます」
ルルシュカは追悼の意を伝え、胸元に手をあて丁寧に一礼した。
ズボンのまま、片足を引いて小さく膝を折る。かかとを揃え背筋を伸ばした所作には、凛とした気品がにじんでいるはずだ。
「あたたかいお言葉をありがとう。母も、きっとあなたのお心遣いを喜んでいると思うわ」
少し寂しそうに笑う彼女の視線が背後へと移る。アランを見ているようだ。
「彼が昨日お伝えさせて頂きました、見習いでアランと申します。急なご連絡にも関わらず、同行許可を頂き誠にありがとうございます。早速ではございますが、ご依頼の金庫をお見せ頂いても宜しいでしょうか?」
アランは黙って頭を下げた。
長い前髪が揺れ、夫人の瞳が、アランの顔にほんの一瞬だけ止まった。それだけで、ルルシュカの心臓が跳ね上がった。
(気づかれた……?)
「ふふ。やっとお弟子さんを取る気になったのね。アランさんも、宜しくお願いしますね」
アランへ向けて柔らかく笑ったリディアに、ほっと胸を撫でおろす。
案内されたのは、地下に設けられた一室。二十帖ほどの広さに、上品な家具や調度品が整然と並べられている。
夫人は迷いなく壁に飾られた一枚の絵画に手をかけた。外された絵画の下から、子どもの肩幅ほどの正方形の金属板が、数指ぶんの厚みを残して埋め込まれていた。
「この金庫を開けてもらいたいの。登録されていた魔力がお母様のものだけだったみたいでね。誰も開けられないから、何が入っているのかも分からず困っているのよ」
「かしこまりました。さっそく調査に入らせていただきます」
ルルシュカは胸元に手を添えて丁寧に一礼した。
アランからトランクを受け取り、床にそっと置いて、静かな所作で鞄を開ける。
中には予備のローブ、手袋に男物の服や靴がなどが並び、その一角には、行きに詰め込んだ飴の小瓶も収まっている。
トムが部屋の対角にあるテーブルの椅子に優雅に腰掛け、リディアに猫用の高級おやつをもらっているのが見えた。
夫人の前のテーブルには、あらかじめ用意されたティーセットが整っている。彼女は今回もそれを楽しむつもりのようだった。
視線をトランクへ戻し、飴を口に含む。
背後に視線を感じて顔を上げると、アランと目が合った。
「飴、仕事の時によく舐めてるよね」
飴玉が歯に当たり、それからぽこりと頬を膨らませた。
「これがあると、仕事が捗るんだ。作業を始めるから、君はその辺にいて」
指した先は部屋の隅。指先を追ったアランの視線が、戻ってくる。
「僕は見習いなんでしょ。近くで作業を見てた方が、自然なんじゃない?」
純粋な好奇心が見え隠れしているが、本心はどうだろうか。だが、理屈としてはもっともだ。
ルルシュカは肩を落として答える。
「……好きにすればいいよ」
アランはパッと明るくなると、小さく拳を握って喜んでいた。




