【30】手記
「こんにちは。この間ぶりですね、アラン」
メアリーは以前と変わらぬ笑みを浮かべ、柔らかな声でそう告げた。その穏やかな様子に、アランの背筋が自然とこわばる。
(魔力のこと、気づかれたくない……)
内心の願いも虚しく、魔力の有無は目を凝らせばすぐに見えてしまう。彼女がそれを話題に出すのも、時間の問題かもしれない。
「こんにちは。……今は大聖堂にいるって、聞いてたけど?」
「昨日、ここに来たときに忘れ物をしてしまって。それを取りに」
「……忙しそうだね、相変わらず」
養護院を出た今でも、彼女の前では自分が子どもに戻ってしまうような錯覚を覚える。正体不明の不安が、胸の奥で鈍く鳴った。
「近々、王子殿下のご結婚式があるでしょう? その準備の一部を、私が任されることになったの。ふふ……私なんかにこんな大事なお役目をいただけるなんて、女神様のお導きに感謝してもしきれないわ」
私なんかに――。
その言葉に、養護院にシスターが来ると聞いた話の断片がうっすらと蘇る。確か、何か特殊な事情があったという話だったような気がするが……。
彼女が養護院に来たのはアランが七歳の頃。幼さもあって、詳しいことは覚えていなかった。
「アランはあれからどう?」
「職場の人にも恵まれて、毎日楽しく過ごせてるよ。シスターはいつも忙しそうだから、体には気をつけてね」
「ありがとう。あなたがこんなにもいい子に育ってくれて嬉しいわ。それじゃぁ、また」
「うん」
メアリーは軽快な足取りで教会の裏手へと向かっていく。その口元は嬉しさに歪んでおり、拝任されたことがよほど嬉しいのだとアランにも伝わった。
彼女の背を、アランは見えなくなるまで見つめていた。魔力のことを聞かれなくてよかった。浅かった呼吸が深くなる。
今更だが、魔力は見ようと意図しないと見れない。メアリーはアランに魔力が戻ったなど思いもしないだろう。アランは余計な心配だったと短く息を吐いた。
視界の端に、見知った愛らしい少女の姿が映る。鞄には黒猫のトムが顔を覗かせていた。なんとなくだが、ルルシュカとメアリーが出会わなくてよかったと思えた。
「おまたせ」
「おかえり。なんでトムも連れてったの?」
「トムと少し話がしたくてね」
鞄から覗くトムはなんとも言えない顔をしていた。アランは顔を上げられず、視線をさらに落とし、自分の靴先を見つめていた。
「……ルル、僕初めてなんだ。魔力測定でちゃんと魔力があったの」
「それはよかったね。分けた甲斐があったよ」
アランはその言葉にも、視線を上げることができなかった。本当は、自分の魔力を分けてくれた訳ではなかったと知っている。
彼女が無理をして、自分のために使えなかった魔力を使えるようにしてくれたのだ。
「……うん。ありがとう」
「君はさ、魔道具士の仕事がしたいんだよね?」
どうして今日に限って、こんなにもルルシュカの声が優しく聞こえるんだろう。気を抜いたら、涙が出そうだ。
鼻の奥がツンとした。彼女はどんな顔をしているのだろう。本当は無理なことを言ったことくらい自分でも分かっている。ジャックに背中を押されて舞い上がっていた自分が恥ずかしい。顔をあげられない。声が震える。
「できたら、よかったけど……」
「店にいる時だけ、あの指輪を貸してあげるよ」
思いがけない言葉にアランは反射的に顔を上げていた。
「え? ……それはどういうこと?」
「いつも舐めてる飴があるでしょ。あれは、足りない魔力を補うためのものなんだ。それでも十分、魔道具士の仕事はできる。あの指輪に貯められる量なら、簡単な仕事は十分できる。キミが仕事ができるようになったら、貯められる量を増やしてあげる。でも指輪を使うのは店の中だけだ」
ずっと引っかかっていた疑問が一つ、ようやく解けた。絡まっていた紐がほどけるように、これまでの出来事が自然と繋がっていく。
(本当に、魔力を捨てたんだ……)
それに、ルルシュカが自分の魔力を戻すために、無理をしてくれていたことが、アランの胸をきゅっと締めつける。
「ルルは、どうして魔力を捨てたの……?」
「要らなかったから、捨てただけだよ」
ルルシュカは、どこか懐かしむように笑った。その瞳に宿る淡い憂いが、過去の痛みを滲ませている。少しずつ明かされていく彼女の秘密は、触れれば触れるほど、深く沈んでいきそうで――アランは、「そっか」と返すが精一杯だった。
「資格は取れない。でも、ジャックがいる限り仕事はできる。私と一緒だ。それが嫌なら、キミは他の道を選ぶだけ。私と出会う前と、なにも変わらない」
自分のことを、気持ちを考えてそう提案してくれた。あの大切な指輪をこれからも使っていいと。ただそれだけのことが、アランには嬉しかった。
この気持ちが何なのか、アランにはまだ言葉にできない。ただ――彼女がなぜ両親を殺したのか、そんな問いすら霞むほど、胸が満たされていた。
「ルルが、教えてくれるの?」
「まずは教本を読んで基礎から学ぶところからだよ」
「ジャックには教えたんだよね?」
「ジャックは曲がりなりにも基礎は出来てたから。必要なことだけね」
「なら……僕が、ルルの初めての、弟子ってことになる?」
頬を緩めて、へにゃりと笑ったアランに、ルルシュカは息を飲み、鞄の肩紐を無意識に握りしめている。わずかに揺れた鞄で、トムの顔が、どこか楽しげに三日月のように笑っているように見えた。
「師匠とは、お前も偉くなったもんだな」
「……私にそんなつもりはないよ」
「早く店に帰って勉強しなきゃ!」
笑顔のアランは、ルルシュカの手を取ると走りだした。
◇◇◇
セオドアの怒りを買ってしまったイヴは、三日間の謹慎と称して、長らく閉ざされたままの書庫の掃除を言い渡されていた。
――興味本位で余計なことを聞くんじゃなかった。
セオドアの冷たい視線が脳裏に焼きついて離れない。軍人である前に人間なのだと、身をもって知った。大佐ともあろう人が私怨でこんなことをしてくるなんて……。
いや、セオドアのあの性格なら十分に想定できた。通常任務からも外されたイヴは、がっくりと肩を落とす。
初めて足を踏み入れた書庫は、窓ひとつなく、昼間だというのに夜のように薄暗かった。空気は湿り気を帯び、何年も放置された埃が漂っている。
室内の掃除を始めたイヴだったがすぐに飽きると、書庫の本を物色し始めた。
だが、流石に使われていないだけのことはある。並ぶのは随分と昔の戦術本や歴史書ばかり。
何度目かも分からないため息を吐くと、イヴは書庫の中をうろうろと歩き回り、面白そうなものがないかと棚を見て回った。
一番奥の書棚の一番奥に収まる一冊の本が、イヴの目を引いた。よく見ればその本には魔力が込められている。
辺りを見渡すも、当然ここには一人しかいない。イヴは慎重な手つきで本を手に取った。
背表紙にも表紙にもなにも記載のないその表紙を、そっと開く。
――あの悲劇の真実をここに。
第二王子殿下付き側近、ロバート・ジェンキンス。
私は、あの悲劇の真実をここに記す。
表題のように書かれたそれは、とても丁寧な字で綴られていた。どうやらこの本は、今は亡き第二王子殿下の側近が書き記した手記のようだ。
適当にページを送ったイヴは、知っている名前を見つけてページを送る手を止める。
――第二王子殿下は、ダニエル・アシュリーと共に謀反を企て始めた。初めは単なる冗談だと思った。
パンっと本を閉じ、恐怖に辺りを見渡した。当然ながら、人気の気配など微塵もない。
心臓が跳ねるように暴れ出し、手のひらがじっとりと汗ばむ。空気が喉に引っかかるようで、息が浅くなる。突然、自分がここで命を狙われ、殺されるのではという恐怖が襲ってきた。
だが、もっとこの本の内容を読みたい。誰も来ない古書室で、イヴは恐怖と興味に揺れ動かされていた。
イヴは本を書棚に戻すと足早に古書室のドアへと向かった。いつも潜伏で使う、敵の侵入を知らせる魔法をドアに手早くかけると、また足早に奥へと走っていく。
再び開かれた本。字を追う視線は止まることを知らなかった。
――信じていた。あの人の力が、私たちを守ると。それなのに彼女は、第二王子殿下をあっさりと切り捨てた。
あの日、事件は起きたのだ。仲間だと思っていたルーシャ・クロフォードは、ダニエルを筆頭に家族のように仲の良かった彼らを、あっさりと裏切った。“魔女のような”女――ルーシャは、彼らを自らの手で殺した。
王に差し出された二人の遺体には、心臓を鋭い刃で貫いた様な傷口が一つだけ付いていた。
イヴは夢中になってページを繰った。
まるで、これまでのイヴの調査が答え合わせされていくように、その手記にはカーライル家の次男である、ドロテアの婚約者までもが登場した。
――セオドア・スペンサーが、ルーシャの遺体を王に捧げ、この謀反は幕を下ろした。
(……ルーシャを……セオドア大佐が、殺した……)
セオドアがルーシャを崇拝していたことは、軍内でも有名だった。その思いは、彼の才能を妬む一部の者から「ルーシャの模倣品」と揶揄されるほどだった。
だが、イヴが別の先輩から聞いた話では、二人はまるで姉弟のようで、時に恋人のようでもあり、また悪友のようでもあったと言う。
だからこそ、誰もが軽々しくセオドアの前でルーシャの名を口にすることを憚っていた。それほどまでに、彼にとってルーシャは特別な存在だった。
──なのに、あの穏やかに微笑む上司が、今や恐ろしい存在に変わっていた。
アシュリー家とカーライル家の一族は、その死を悼み、大々的な葬儀の後、それぞれの屋敷内の墓地に葬られた。
一方、孤児であったルーシャの遺体は、中枢の大聖堂の地下墓地に安置されている。地下墓地は現在封鎖されており、立ち入ることはできないが――それでもイヴは彼女の命日に、何度か大聖堂を訪れて祈りを捧げたことがある。
それなのに、この手記には、三英傑の栄誉も、華々しい活躍も、何一つとして記されていなかった。ただそこにあるのは、側近の深い後悔と、彼が見聞きしたであろう出来事の静かな記録だけだった。
ページを挟むようにして静かに閉じ、乱れた呼吸を整えながら書棚へと戻す。
イヴは慌てて掃除用具を掴むと、うっすらと積もった埃を拭い始めた。その手元には、開いた痕跡を消そうとする焦りがにじんでいる。
――誰がこの本の存在を知っているか分からない。開いた形跡を消すのが、今は何よりも優先だった。
必死に掃除を続けるイヴの頭に、はたと一つの仮説が浮かぶ。もしかしたら、ドロテアもこの本を読んだのかもしれない。婚約者の死の真相を知り、彼女は軍を去った……。
乱れた息のまま、埃を払う手を止めずに続けた。すべてを元通りに。誰にも気づかれてはいけない。
手早く掃除を終えたイヴは、用具を抱え、書庫を飛び出した。胸の内には、まだ言葉にならない疑問と恐怖が渦巻いていた。




