【23】トーマス
翌年。
中尉に昇進して間もないある日。
久しぶりの違法転売グループとの小規模な抗争に、ルーシャはどこかハイになっていた。
敵の攻撃で傷を負うなんて、いつぶりだろうか。シャツの袖を破って応急処置は済ませたが、じくじくと腕が痛み不快でたまらない。
――たまには教会で治療を受けてもいいんですよ。
まったく顔を見せなくなったルーシャに、神官がからかうように言った言葉を思い出す。久々に行ったら、今度は何を言われるだろう。思わず笑みがこぼれた。
残党を追って裏路地へと足を踏み入れた先、状況は不明だが、屈強な男たちが細身の青年を囲んでいるように見えた――次の瞬間、パチン! と何かが弾けた音が響いた。
数秒後には、チンピラたちが次々と倒れていく。
その光景に、ルーシャは唖然とした。
中心に立つ青年の足元には、かすかに魔力の残滓が漂っている。
「……今、詠唱してたよね? もしかして、古代魔法!?」
ルーシャの紅の瞳がキラリと光る。
獲物を見つけた猫のように、青年の元へ駆け寄った。
「あ゛? んだお前。誰だよ急に……古代、なんつった?」
黒髪に銀色の襟足という不思議な髪型の青年は、ルーシャを威嚇するように睨み付けた。だが、その金色の瞳は見惚れるほど美しく、ルーシャは恐怖どころか、どこか引き込まれるような感覚さえ覚えた。
「私はルーシャ。魔法士だよ。今の、明らかに現代魔法とは違ってた。あれ、古代魔法だよね?」
軍式の自己紹介も忘れて、ルーシャは興奮気味に言葉を紡ぐ。
「魔法士? お前も魔法使えんのか? ……ちょっと、見せてみ――」
どこか見下したような口ぶりに、ルーシャは軽く手を振り、青年が言い終えるより先にピシッと小さな雷を撃ち込んだ。模擬試験ではないのだ。先手必勝。
卑怯などという言葉は、ルーシャの辞書にはない。
「いってぇ!? おい! お前、なんで詠唱してねぇのに……!?」
青年が詠唱を始める前にすかさずもう一発。
「クッソ! 容赦なさすぎだろ!」
地面に膝をついた青年の前にしゃがみ込み、ルーシャは真っ直ぐ彼の瞳を覗き込む。
「あなたの目……きれいな金色。古代魔法の使い手は金の瞳をしてるって……まさか、本物に出会えるなんて……!」
王家の人間は、古代魔法の使い手を魔族と呼ぶのだと、ルーシャは先日の王孫殿下の護衛の際に、殿下に得意げに教えてもらっていた。やんちゃで手のつけられない王孫の護衛も、悪いことばかりではなかった。
感激しているルーシャの姿に、青年は呆れたようにため息をつく。
「なに一人で舞い上がって訳わかんねーこと言ってんだよ……。頭イカレてんだろクソ女。とりあえず、お前なんで無詠唱なんだ。魔法を侮辱してんのか?」
ルーシャは自分の解釈が合っていたことに、また一人で感激していた。教本に転用されている古代魔法を見ていて、なんとなく気づいていたのだ。詠唱は魔法を使うことに対する敬意の表れなのだと。
「そんなつもりじゃないよ。私だって魔法には敬意を持ってる。でも、この国ではこれが最適だから……」
ルーシャは軍から貸与されている特製グローブの予備を取り出すと、青年に差し出した。
「この国の魔法は古代魔法を簡略化したものなの。詠唱を省略できるように、媒体に魔法陣を刻んで使ってる。悪いヤツを捕まえるのに、詠唱なんてしてられないよ」
グローブにはそれぞれの指先に魔法陣が刻まれ、適切な魔力量を流すことで魔法が瞬時に発動できるよう設計されている。
「ふーん。威力はだいぶ落としてあるな」
「うん、殺傷能力はないからね」
青年はこの国の魔法を体感し、様式を目にし、その形態に興味が湧いたようだった。
「お前、俺の魔法に興味あんのか?」
「すっごいある」
「へぇ。ならこうしようぜ。俺が古代魔法を教えてやるから、お前はそのヘンテコな魔法理論を俺に教えろ」
「いいよ! 約束だよ。名前教えて。キミはこの辺に住んでるの?」
「トーマスだ。さっき別世界からここに来たから、拠点もなんもねぇよ」
「別、世界……!?」
聞けば、遥か昔、彼の一族はこの地に住んでいたという。しかし、魔法使い同士の争いで土地が荒れ果て、住めなくなった。そこで彼らは、物理的な手段ではなく、「次元そのものを越える」という常識外れの方法でこの地を離れたのだと、彼は語った。
それは、もはや御伽話に近い話だった。
トーマスの語る話は、荒唐無稽な作り話のように思えた。だが、その金色の瞳は一切の冗談を排している。 彼の世界では、数年前から魔法使いたちの小競り合いが始まり、それが利権争いに発展し、ついには全面戦争となったという。
一度はそうして争いから逃れたというのに、また同じことが繰り返されたのだ。
トーマスはそんな故郷に愛想を尽かし、偶然知った転移の魔法を使ってこの世界を訪れたのだという。 その語り口には、微塵の後悔もなかった。
ルーシャは幸いにも戦争の経験はない。
それでも歴史としては知っている。ダニエルたちの親世代が実際に経験したことも、その影響で今も苦しんでいる人々がいることも、もちろん知っていた。
トーマスの軽い口ぶりとは裏腹に、その話はあまりにも重すぎた。
「んな顔すんなよ。よくある話だ」
「……そうなんだ」
トーマスのその一言で、暗かったルーシャの表情が、ケロッと明るくなった。
ルーシャは、もっと沢山トムと話したいと思った。けれど軍の規則では、外部の人間を勝手に基地に連れ帰ることはできない。唯一の抜け道は、動物としての保護申請のみ。
「あなたみたいな魔法使いなら、いろんなことができるんだろうな……。たとえば、動物に変身するとか?」
「あたりまえだろ。俺は偉大な魔法使いだぜ。お前……犬猫になりてーの?」
「違うよ。私、軍の寮暮らしだから、勝手に人を泊めたりできないの」
「ぐん? なんだそりゃ」
「軍人……国に仕える人のこと。規則で、部外者とは暮らせないけど、動物なら飼育申請が出せるの。犬猫なら一緒に暮らせるんだよ」
「……はぁ? お前、この俺にペットになれってか?」
トーマスが呆れたように目を細めたその瞬間、背後から声がかかった。
同僚が戻らないルーシャを探しているようだ。
「……俺をペットにするなんて、覚えとけよ、このイカれ女!」
トーマスは舌打ちをしながら、低く呟くように古代語を紡いだ声が聞こえた。
「――トーマス?」
ルーシャがトーマスに振り返ると、そこには既に姿を変えた黒猫がいた。胸元だけが白く、あの金色の瞳はそのままだ。あたりには服や靴が落ちている。
「どうだ? すげーだろ」
「すごい! ……ほんとに、最高だよトーマス!」
「トムだ。特別に愛称で呼ぶのを許してやる」
「ふふ、ありがとう」
ルーシャは上腕に巻いていた布をほどき、血のついた部分を裂いてトムの前足に巻き付けた。血がついた部分がしっかりと見えるように。
「……ちょっとだけ、我慢して」
「なにしてんだよ、お前……。わざわざ止血の布ほどいてまで……」
「だって、リアリティが大事でしょ? “ケガした猫を保護しました”って言うなら、ちゃんとそれっぽくしないと!」
ルーシャの真顔に、トムは絶句する。だが彼女の行動には、一切の迷いがなかった。ルーシャは流れ出た血をコートの端で拭って、再び布の切れ端を腕にきつく巻きつけて止血した。
「さっきの抗争でキミを見つけたってことにする。ね、完璧でしょ?」
トムは顔を背けながら、小さくため息をついた。
――ルーシャ中尉!
仲間の声がだんだんと近づいてくる。ルーシャは猫になったトムを抱き上げ、落ちていた彼の服と靴をコートでくるむと腰に巻きつけた。
「制圧完了してるよ! 」
隊と合流したルーシャは後始末を任せると、負傷と保護を理由に足早に基地へと帰還した。
これからの日々がどうなるか、ルーシャはわくわくしていた。
けれどそれが、強さを得る代わりに、“大切なもの”をいくつも手放す日々になるとは、まだ知らなかった。




