【22】クロフォード 下
ダニエルは、驚きにぽかんと紫の瞳を丸く見開いている。彼の友人であるレオン・カーライルが鞄を片手に近づいて来ると、なにを勘違いしたのか、ダニエルを非難の目で見始めた。
「ダニエル……。お前、この子に何したんだ?」
「レオンか。話しかけた……だけなんだが、何故かこうなったか僕も聞きたいところだよ。……君、名はルーシャ、だったよな? とりあえず、顔をあげてくれないか?」
その言葉におずおずと頭を上げたルーシャの表情は、すっかり怯えきっている。
ルーシャがスッと伏目がちに視線を逸らしたその仕草に、ダニエルの眉間に皺が寄る。
「僕は君と同級生だ。分かるか?」
「……はい」
「なら、普通に話すことが自然だと思うが、違うか? それに、なぜこちらを見ない?」
「貴方様は貴族でいらっしゃいます。私は賤しい孤児。ですので、その……失礼ながらおっしゃっている意味が……わかりかねております。それと、私の瞳は人を不快にさせてしまうので……」
思い切り顔を歪めたダニエルは、ゆっくりとルーシャの顎に手を添え、そのままそっと上へと持ち上げた。
男性の骨ばった長い指の感覚が、皮膚を通して伝わってくる。その手はひやりと冷たかったが、触れられたルーシャの体は眩暈がしそうなほどに熱くなった。
紅い瞳が光を受けて揺れ、視線が絡んだその瞬間、ルーシャの体はわずかに震えた。だが、その視線から目を逸らすことはできなかった。
「ルーシャ、分からないのなら教えてやろう。ここは訓練校で、必要なのは血筋ではなく実力だ。貴賤の差は関係ない」
はっきりとした程よい低音の彼の声は、スルリとルーシャの耳を通り脳へと入り込んでくる。
「力の差が分からない以上、君と僕は同等だ。それと、君は賤しくなんかない。誰になんと言われようが堂々としていればいい。理解したか?」
だが、ルーシャは言葉の意味をすぐには飲み込めなかった。ゆっくりと、ダニエルの言葉を反芻し、紐解いていく。
(この方は、お嬢様とは、真逆の事を言ってる……? お嬢様が、こんなこと聞いたらきっと……)
急に怖くなったルーシャは不安にギュッと胸の前で手を重ねて握った。そうすることで、胸の痛みをごまかせる気がした。
(でも……ダニエル様の言葉は、どうしてこんなにも胸に残るんだろう……?)
後ろめたい気持ちだ。だが、ここにマルグリットはいない。ならばダニエルに従うことがこの場では正しい。
ルーシャは思いを言葉にした。
「……はい」
「いい子だ。次に、君の瞳は何一つ不快ではない。そうだな、例えるなら、君の瞳はルビーの様に美しいと僕は思う。そして、今の様に目を逸らされる方が不快だ。理解したか?」
セオドアもそうだったが、なぜみな宝石でこの薄気味悪い瞳を例えるのだろうか。
理解出来ない。それでも、ルーシャは嬉しさに瞳を細めて、戸惑いながらもぎこちなく笑った。
「……はい。あの、一つ質問をしても?」
「もちろんだ。許可はいらない」
「ありがとうございます。……あの、私は、鞭打ちされないんですか?」
そのやり取りを隣で見ていたレオンは、一瞬唖然としたが、すぐに声をあげて笑い始めた。薄茶色の髪がサラリと揺れ動く。
「何だそりゃ。擁護院ではそんなくだらない教育を施してるのか? それが本当なら、抜き打ちで調査が必要だな。なぁ、ダニエル」
「そのようだな……」
低い声でそう言い放ったレオンの顔は、明らかに怒っていた。それはルーシャに植え付けられた理不尽に対する怒りだった。
レオンはカーライル子爵家の長兄だ。同い年と言われなければ、少し幼くもみえるが、翡翠の瞳に浮かぶ怒りからは、貴族の凄みが感じられた。
「君にそんな事をする必要がない。……望まれても困るが」
ようやく離された手に胸をなでおろしながら、ルーシャは恥ずかしさをごまかすように、ようやく目の上まで伸びた前髪を撫でつけた。
(くだらない……教育? マルグリットお嬢様の、教えが? ……いや、違う。シスターの教えのことだ)
「私にはわかりませんが、レオン様や、ダニエル様がそう感じられるなら、そうかもしれません」
ルーシャは戸惑いながらも、小さく答えた。
「ルーシャ、敬語も敬称も不要だ。僕からも質問をしたいのだが、いいかな?」
「え? あ、は……。うん、どうぞ」
「そのノートの理論はルーシャが考えたのか?」
「そうで……。……ううん、そう、だよ。……試験勉強で、先輩方の教本を……お借りしていて。その中になぜか基礎理解の教本があったんです。その教本の書き込みを参考にしながら、自分で考えてるの」
敬語と砕けた言葉が混ざり、ルーシャは必死に言葉を紡いだ。
「えっ! マジで? 全部覚えてんの!? それ、めっちゃすごいじゃん!」
ノートを覗いていたレオンは、その理論の価値を理解し、目を輝かせた。
素で驚いた声をあげるレオンに、ルーシャは混乱した。この人たちは、怒っているわけではない。むしろ――
(……なんだか、楽しそう)
「それ、僕らにも教えてくんない?」
「も、もちろん。……私なんかが役に立つなら」
ダニエルがまた不機嫌に眉を寄せる。
「ルーシャ、自分を卑下する言葉を二度と使うな。君は誇り高き魔法士の訓練生だ。その自覚をもて」
「誇り、高き……魔法士……」
胸がドキドキした。
そんなふうに考えてもいいのだろうか?
それはマルグリットの教えに背くことになる。
だが、ダニエルは言った。魔法士は誇り高いと。貴賤の差は関係なく、実力が全てだと。
言葉が、心の奥に落ちてくる。この瞬間まで、そんな風に言ってくれる人がいるなんて、ルーシャは思ってもいなかった。それが、こんなにも嬉しいなんて。
「……気をつけて、みるね」
ルーシャは微笑むと、小さくうなずいた。
その後も、養護院出身というだけで、訓練校ではしばしば冷たい視線を浴びたが――その度に二人が側にいてくれたことは心強くもあり、どこか居心地の悪さがあった。
辛い訓練も、マルグリットやシスター達からの仕打ちに比べれば難なく乗り越えられた。
まともな食事が取れるようになり、次第に肌や髪にも艶が戻っていくと、ルーシャの見違えるほど美しくなっていった。
訓練でも、ルーシャは上手くいくたび「すべてマルグリットお嬢様のおかげ」と心の中で感謝していたが、ダニエルの矯正により、少しずつマルグリットの存在は形を潜めていった。
黙々と訓練をこなし、次第に実力をつけていくと、周囲の雑音は少しずつ消えていった。そのせいか、二人と過ごす時間にも居心地の悪さが和らいでいったように感じた。
その頃には、訓練の合間や食事の時間もいつの間にか三人で過ごすようになっていた。
気がつけば、そこには「家族」と呼べるような、穏やかな時間が流れていた。
訓練生の実技は魔法だけに留まらない。体術や剣術の基礎訓練も当然組み込まれている。
魔法理論を学ぶ中で、ルーシャは魔法士の不完全さを感じていた。
結局のところ、魔法士の根幹を支えているのは魔力だ。魔力が切れれば行動は不能になる。不足の事態に陥り、魔力が使えなくなっては意味がない。「力が全て」という軍の中で、それが、ルーシャの不安をかき立てた。
ルーシャが次に熱を注いだのは剣術だった。教官に剣術か体術、どちらか一方を基礎訓練以降も続けたいと相談したところ、「剣を扱うには体の使い方も重要だ」という理屈を話された。
ただ、その教官が戦術部隊では知らぬ者のない剣の名手で、訓練も秘密裏にみてくれるという。
気づけばルーシャはうなずいていた。
どうしても「魔法士は誇り高い」というダニエルには知られたくなかったのだ。
(私の誇りは、二人に比べればちっぽけだ……。魔法を過信することはできない……)
彼女はダニエルにも、レオンにも秘密で特訓を受けた。
隊に入ると配属地域もバラバラになり、会う頻度は劇的に減ったが、手紙や通信機でやり取りをしたり、休日が合えば集まって。三人の絆は離れてもなお揺らぐことはなかった。
ルーシャが二十五歳の年を迎える頃には、周りからの彼女の評価はガラリと変わっていた。
「ルーシャ。今ベンバートン伯爵が部屋から出て来て、すれ違ったけど……もしかして」
振り返ると、汗まみれのレオンが顔を輝かせて立っていた。
「レオン、お疲れ様。……ご厚意で、後ろ盾になってくれるって提案をいただけたの。でも、私には荷が重くて……。本当はこういうの言わない方がいいんだよね? 内緒だよ。」
「断ったのか。……ルーシャらしいな。流石、閃光の魔法士様だ」
横からダニエルが落ち着いた声でからかってきた。レオンと同じように、紫の瞳を細めると、口の端を上げ品よく笑っている。
「もー、からかわないでよ。それに、その二つ名みたいなの、恥ずかしいよね……」
「えー、かっこいいじゃん! そういやさ――」
その後に続くレオンの言葉に、ルーシャはまた思考が追いつかなくなった。
「ダニエルの婚約がとうとう決まったんだぜ! 相手はマルグリット・フォーサイス伯爵令嬢。フォーサイス家のお嬢様だぜ! って言っても、ルーシャはピンとこないか……」
「家格が合って歳の近いご令嬢がいなかっただけだ。大した事じゃない」
「……へぇ」
ルーシャは固まっていた。素直に喜べない自分に胸が痛んだ。
ダニエルには素敵な方を迎えてほしかった。なんというか、マルグリットはダニエルとは正反対だったのだ。
ルーシャにとって、マルグリットは素晴らしいお嬢様だ。間違いない。それなのに、なぜ素直に喜べないどころか、息が出来ない程に苦しいのか。
――この道を、自らの力で歩み続けたい。それが、私の矜持でございます
つい先ほど、自分の口でハッキリと女伯爵に伝えた言葉に嘘はない。
魔法士の私じゃなくて、私がやっている魔法士。ルーシャは自身がここで作り上げている自分に誇りを持ちたいと思えるようになっていた。
それでもマルグリットの声が頭の片隅に響く。
――お前には心がないの。
(ああ、だから……二人のように喜べないんだ。所詮私がどれだけ自分を誇ろうと、心のない欠陥品に変わりはない)
ルーシャは軍での訓練を受けていて良かったと思った。いつもどう笑っていたかを思い出すとそれを貼り付ける。
「ううん。知ってる方だよ。養護院の時によくご訪問して下さっていたの。とてもいいお方だったから、ダニエルと結ばれるなんて、すごく嬉しい」
ルーシャは満面の笑顔を貼り付けた。