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【21】クロフォード 中

 

 セオドアが来て二ヶ月が経つと、優しかった神父が院を離れることになり、代わりにシスターがやってきた。


 まだ若かった彼女はルーシャの紅い瞳をひどく嫌った。また、愛らしいセオドアがルーシャになつき、自分には懐かなかったことも、彼女の苛立ちを募らせ、ルーシャへの虐待が始まった。


 それを見た他の院の子どもたちもルーシャに暴行や嫌がらせを加え始め、彼女の地獄の日々が始まった。


「チャーリーから、お前がやるはずの当番を代わりにやらされたと聞いたわ。どうしてあなたは最低限の役目すら果たせないの? 罰を与えます。シャツを脱いで、後ろを向きなさい」

「……はい、シスター」


 ――チャーリーは、自分から代わると言ってくれたのに。


 何がいけなかったのか分からないまま、冷たい声に逆らえずに命令に従う。鞭が肌を裂くたび、体に、胸の奥に、「また間違った」という鈍い痛みが刻み込まれていく。

 それは時間が経っても溶けなかった。


(どうして……? 言われた通りにしてるのに。正しくしようとしてるのに。なんで……間違いになるの?)


 いつしか、ルーシャは考えることをやめていた。


 自分で決めると、いつも間違う。だから、人の言葉に従えば間違えない――そう思っていた。

 だが、シスターの言葉はすぐに変わる。

 ルーシャは混乱していった。


 その頃、篤い信仰心を持ち、慈善家と名高いフォーサイス家の令嬢であるマルグリッドが院を定期的に訪問するようになると、ルーシャは彼女のお気に入りとなった。

 彼女が与える知識には、いつも“理由”があった。それがあれば、迷いは消える。

 マルグリットの教えに触れるたび、胸の中の霧がすっと晴れていくようだった。

 そこには明確な問いと答えが存在していた。痛みや命令には理由がなくても、知識には理屈があったのだ。

 ――この世界で、唯一信用できるものだった。


「お前は、私を誰だと思ってるの。いいこと。

 従順であること――それが唯一、お前に許された価値。その小さな頭に、よくよく刻み込みなさい」


 そう上から言い放つマルグリットは、意地の悪い令嬢の見本のような少女だった。気味の悪い少女の紅い瞳に気づくと、「こっちの方がいいわ」と無理やり伸ばしていた前髪を切り落とした。


 翌週、彼女の体に増えたアザを見て、心配そうな言葉をかけながら、その顔は喜びに歪ませていたのにも、ルーシャは気がついていた。


 だが、そんな嫌悪すらちっぽけに思えるほど、マルグリットの知識は圧倒的。

 そうしてマルグリットの知識は、ルーシャにとって欠かせない光となっていった。


 将来は魔道具士や魔法士になりたかったのだろうが、伯爵家の長女であるマルグリットには、その選択肢は与えられない。ルーシャはマルグリットを慕う反面、哀れで可哀想な令嬢だと思っていた。


「本来、下賤な身の者に教養など不要なの。こうして知識を与えてもらえることが、どれだけ幸運なことか分かってる? 私は育てて“やっている”の。分を弁えなさい。それで、お前はなんだったかしら?」

「はい。お嬢様。私は賤しい身でありながらも、お嬢様に施しをいただける幸せ者でございます」


 地に這い恭しく頭を垂れる少女。その頭を踏みつけるマルグリットの瞳は、もの言えぬ快感に酔い、恍惚としていた。


 ――従順こそが唯一の価値。


 高貴な血筋のマルグリットが自分だけを特別に選び、価値を与えてくれる――それが何よりも甘美だった。


(お嬢様は、いつも正解を教えてくれる。その意味も。私はこれで間違えない。……お嬢様は凄いお方)


 ルーシャはマルグリットの訪問の日を待ち遠しく思っていたが、同時に、マルグリットを見るセオドアの瞳に嫌悪が満ちているのも感じていた。

 その感情は言葉にできないほど深く、何度説明しても、ルーシャの心には届かなかった。


 彼女の世界には、マルグリットの歪んだ“正解”だけが、確かに刻み込まれていった。


 傷や痣が増えていくルーシャを見るたび、体の弱いセオドアは自分に何もできないことを悔しがり、毎日のように涙を流した。

 だが、ルーシャはただ微笑み、『大丈夫』と言って彼を抱きしめた。


 しばらくして、セオドアは子爵家に引き取られる事が決まる。別れの日も、セオドアはずっと泣いていた。泣いて、ルーシャの傷だらけの手を握って離さなかった。


「強くなるから……。今度は、僕がルーシャを……守る、から……だから……」


 ルーシャは、何も言えないでいた。

 自分を必要としてくれる人がいなくなる。それが、ルーシャには恐ろしかったのだ。

 ただ、自分の存在意義が崩れていく音を、黙って聞いていることしかできなかった。


 十八歳になると、養護院を出なければならない。


 養護院出身者が就ける仕事はあまりにも少ないが、幸いにもルーシャには人よりも多く魔力があった。魔力があれば魔法士や魔道具士への道が開ける。


 どちらの職も身分に関係なく挑戦できるのは、ルーシャにとって数少ない希望のひとつだった。


 魔力量は、生まれ持った資質によるところも大きい。特に親からの遺伝は無視できない。

 ルーシャはその事実を知ったとき、初めて、顔も知らない両親に心から感謝した。


(魔力があって、本当に、よかった……)


 魔法士になるには、膨大な魔力量だけでなく、学力、そして苛酷な訓練に耐える体力と根気が求められる。

 一方、魔道具士は古語の理解や理論的思考が必要とされ、知能の高さが問われた。

 どちらを選んでも、孤児には国からの補助が出る。

 だが――当然というべきか。

 ルーシャに「選ぶ自由」はなかった。


「愚鈍なお前に、魔道具士など務まるはずがない。目指すこと自体、おこがましい」


 そう言い捨てたシスターが、目の前で希望書を破り捨てた。手元に残されたのは、たまたま提出しそびれていた“魔法士”の志望用紙だけ。


(バレたらまた破り捨てられちゃう……)


 その紙に、彼女は運命を委ねるしかなかった――自分の意思というよりは、もはやそれしか残っていなかったから。


 人生の岐路で、彼女は魔法士の道を歩むこととなった。


 だが、どちらでもよかったのかもしれない。それは自分のためではなく、叶わぬ夢を見続けたマルグリットのためだった。


 お嬢様が褒めてくれるかもしれない——


 マルグリットに認められなければ、自分の存在を確かめられない。その期待だけが、ルーシャの心を支えていた。


 そうして、ルーシャは、歪んだ世界の外へと一歩を踏み出した。


 無事国の補助を受けられることとなったルーシャは、魔法士として教師を務める人物から、試験対策の特別指導を受けていた。

 教材として渡されたのは、過去の訓練生が使用していた教本の数々。その中には、試験には出ないはずの「基礎魔法理論」に関するものも混ざっていた。


 興味本位で開いた教本には、びっしりと書き込みがあった。


(何が書いてあるんだろ……)


 ページをめくっていくうちに、魔法士の先生が初日に話してくれた言葉が蘇ってきた。


 ――魔法士は、魔道具で作られた専用のグローブを用いて魔法を発動させる。これにより発動速度が向上し、無詠唱で複雑な魔法を扱うことも可能になったんだ。

 ただし、グローブがなければ魔法は使えない。その弱点を補うため、訓練生のうちに簡易魔法の習得が義務付けられている。

 現在使われている魔法理論は、古代魔法の一部を軍が簡易的に解読・転用したものなんだ――


 魔法士の先生は、たしかにそんな話をしてくれていた。

 ひとまず全体を流し読みしてから、ルーシャはページを戻し、書き込みと教本の内容を丁寧に照らし合わせ始めた。その中の一文が、彼女の目を引く。


 それは基礎原理の一部を掘り下げた考察だった。命令式は簡略化されているが、理解を深めることで、魔法の解像度も向上するのかもしれない。


(もしかして……転用されてる古代魔法って、よく分からないまま使われてるのかな?)


 基礎と呼ばれる魔法理論にも、未完成な部分がある――そう彼女は気づいた。


 もしこの理論を本当の意味で理解できれば、魔法の応用――操作性の向上や威力の調整など――も可能になるということだ。

 理解の深さが、魔法士としての実力差に直結する。教本に残された書き込みは、それを如実に示唆していた。

 その面白さに、ルーシャはたちまち魔法理論にのめり込んでいく。


 ……とはいえ、試験に受からなければ意味がない。理論にのめり込む一方で、試験勉強にも手を抜かなかった。


 そして、無事に訓練校への入学を果たす。

 だが、周囲から聞こえてくる声は、遠慮というものを知らなかった。


「あの子の目、見た? 気持ち悪い色してる」

「知らないの? あの子孤児だよ……。肌艶悪いし、髪も……。なんか臭そう」

「それって特別枠ってやつだよね? どうりで勉強会にいなかった訳だ」

「そんな事より、ねぇ、あっちの二人は貴族だって」

「初めてみた! てか、それなら、なおさら孤児が一緒ってまずくない?」


 嘲笑まじりで話す彼女達の視線の先には、二人の男子生徒がいた。


(あのお二人は、貴族なんだ。私みたいなのが視界に入らないように気をつけないと……)


 貴族と言えばマルグリット。という方程式が出来上がっていたルーシャは、無意識に華奢な体を更に縮こませた。

 クラスは一つのみ。そこに生徒は十九人。すぐにルーシャは弾き者になる――はずだった。


 授業が始まり魔法理論の基礎を学ぶうちに、ルーシャはすっかりその虜になっていた。

 前に見た教本のメモ書きがその興味を加速させ、応用を交えながら、ノートに自分なりの解釈を書き込んでいく。授業が終わったことにも気づかないまま――


「……聞こえてるか?」


 声が聞こえた気がした。

 恐る恐る顔を上げれば、そこには貴族の一人、ダニエル・アシェリーがいた。


 黒の髪はオールバックにセットされ、若くも伯爵家らしい洗礼された雰囲気を纏うダニエル。

 彼はルーシャがようやく顔を上げたことに満足したのか、口の端を上げ品よく笑った。


 厚めの二重が、彼のシャープな目元に知的で艶っぽい印象を与えている。

 まさか話しかけられているとは思わず、驚いて目を見開いたルーシャは、すぐに視線を下げて頭を机にぶつけた。鈍い音に、ダニエルの目元に皺が寄る。


「大変申し訳ございませんでした。決して無視をした訳ではないのですが……。気がつくのが遅くなり、その……失礼致しました」


 淡々と言葉を紡いだが、ルーシャは心の中で『もう少し感情を込めればよかった』と後悔した。


 咄嗟に頭を下げてはみたが、遅かったかもしれない。もし怒らせてしまっていたら――どんな罰を下されるか分からない。

 ルーシャは細い肩を震わせた。

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