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【18】アシュリー邸 中


 気がつくと、アランは知らない部屋の中にいた。

 床には、一人の女が崩れ落ちている。

 涙に濡れた顔でこちらを睨みつけるそのヘーゼルの瞳には、氷のような憎しみが宿っていた。アランは、その顔にどこか見覚えがあるような気がしが、どうにも思い出せない。


(何がどうなったんだ? さっきまで書斎にいたはず……。それに、この女性は誰だ?)


 体を動かそうとしたが、まるで金縛りにあったように、ぴくりとも動かない。


「主人からの愛も、共に過ごす時間も奪ったというのに――今度は、私の子どもまで奪うというの!?」


 それは、目の前の女が吐き出した言葉だった。腹の底から絞り出されたその声は、憎しみに満ちた叫びとなってアランの耳を貫いた。


「大変恐縮ではございますが、これまで幾度となく、ご当主様にはご家族を大切にと進言して参りました。故に、奥様のおっしゃられるお話は、私の責によるものではございません」


 どこからか、別の女の声がした。凍りつくような無感情な声だった。その瞬間、目の前の女の顔が怒りに歪む。

 そこでアランはようやく気づいた。自分が見ているこれは、自分の目を通した光景ではない。この視界の主は、おそらく今の冷たい声の持ち主――そして、目の前の女と敵対する存在だ。

 声の調子、纏っているドレス、振る舞いからして、目の前の女性は相当な地位の貴族だろう。

 そして、彼女の目に宿る憎悪は、深く、長い確執の存在を物語っていた。


「お前さえいなければ……。やはり、心を持たぬからお前は孤児なのよ。まさか、自分を人間だと思っていないでしょうね。……共に日々を重ねてきた者に……その家族にすら、平然と手をかけるなど、口にしただけでも悍ましい」


 夫人は反論の余地が見つからなかったのだろう。話題をすり替え、せめて心を抉る一言で返そうとした。それは理性の言葉ではなく、噛みつくように吐き出された感情そのものだった。

 デジャブのように重なって聞こえていた。それは、ルルシュカの謎のテストで言われた言葉に似ている気がしてならない。


「奥様のおっしゃる通りでございます。それで、言いたいことは以上でしょうか?」


 冷酷に夫人の虚勢を切り捨てたその言葉は、まるで死の宣告のようだった。

 アランは知らない舞台のワンシーンを見ているようなのに、この先がどうなるのかドキドキしながらその様子を見守る。

 夫人の表情が悲痛なものに変わると、涙で頬を濡らしながら、今度は縋るように言葉を紡ぐ。


「あなたは沢山の物を私から奪った……。私はお前に沢山のものを与えてやったのに。……だから、せめて……せめてあの子のことは見逃して頂戴」


 嗚咽混じりの鳴き声が、音のない部屋に響いて消えていく。夫人の動きに合わせて、彼女のほどけ乱れた赤錆色の髪が揺れ動く。

 どうやらこの夫人、ここで殺されるようだ。――その子供も、きっと同じ運命を辿るのだろう。


 この視界を共有している女は、いったい何者なのか。夫人の言葉どおりなら、主の愛と時間を奪った――となると、愛人が一番しっくりきそうだ。

 邪魔になった正妻と子どもを、今まさに消そうとしている……そんな構図がアランの頭に浮かび上がる。


 この後、主導権を握るこの女はどんな決断を下すのか。啜り泣く音だけが耳について、沈黙の中、過ぎていく時間が耐え難かった。

 ゴクリと唾を飲み込む。――アランは、そんな気分だった。


「……では、こう取り計らいましょう。ご子息様の魔力はすべて封じ、一族との縁も断ち切ります。以後は、魔力なき者として、養護院にて静かに生をお送りいただく」


 アランはその言葉の意味を、すぐには飲み込めなかった。だが、その内容は――どこかセオドアが話した内容と、自分自身の歩んだ過去をなぞるかのような話に思えて、心が強く掻き乱された。


「それと、名も改めねばなりません。そうですね、……あぁ、エーリエネイト様に致しましょう。これからのご子息様にはピッタリな名にございます。以上が、私から奥様へご提示できます最大限の譲歩にございます」


 悲しみの涙に暮れていた夫人はバッと顔を上げる。

 こちらを睨みつける夫人の、その表情が痛々しく、アランは思わず視線を逸らしたくなったが、視界を共有する女の眼差しは一点を見据えたままだった。


「今ここで共に逝くのと、死んだように、心を無くして生き続ける一生。愛するご子息様へ、奥様はどちらを贈られますか?」

「絶対に、お前を許さない……ルーシャ……」


 怒りに震えた低い唸り声のようなそれは、脳裏に焼き付くような、呪いの言葉に聞こえた。




 ――ラン。アラン。


「ん……」


 フニフニとした感覚が頬に当たる。

 目を覚ましたアランの視界に、金の瞳とピンクの鼻、白黒の毛が映り込んだ。


「……トム?」

「おっまえ! 何勝手に出歩いてんだ。早く起きろ! さっさと立ち上がって戻れ。二人にバレたらヤバイぞ」


 急かすように頬をバシっと叩くトムと、起きあがろうと床に手をついたアランに影が落ちる。


「誰が、なんだって?」


 そこにはルルシュカが立っていた。

 いつもは死んだ魚のような目をしている彼女が、珍しく目を吊り上げ、腕を組んでアランを睨んでいる。

 可愛らしい子どもが怒っている姿には、恐ろしさよりも微笑ましさが勝ってしまうが、ルルシュカは例外だ。トムは「あーぁ」と両の前足で顔を隠していた。

 不意に上げられた白い手に、イヴが気絶した姿がフラッシュバックする。

 アランは息を飲み、思わず両手で頭を庇っていた。


「ご、ごめん。勝手に出歩いて……!」


 腕の隙間から見上げたルルシュカが手を下ろすのを確認すると、アランはホッと胸を撫で下ろした。


「何してたの?」

「その……ちょっと、書斎を見てただけで、なんにもしてない。……本当」


 ルルシュカの視線が書斎へと向いた。

 サフファイアの瞳が、部屋の隅々までゆっくりと走っていく。


 数秒の間を置いて、盛大にため息をつく音に、アランの額にはじっとりと冷や汗が滲む。


「何があったの?」


 アランはビクッと肩を震わせ、目を泳がせた。


「な、何って……?」

「これ、ただの写真立てに見えるだろうけど、魔道具だよ。普通は魔力を流すと動くんだ。けど今はおかしくなってる。何かの不具合があるから、君が倒れたのかもって思ったから聞いてる」

「あ……そういう、ことか。別に何も……。なんで魔力が反応したのか、わかんないけど、ちょっと……気絶してたみたい」


 何を見たのかを、アランはうまく説明できる気がしなかった。

 それに、自分でもまだ整理がついていないのに、それを怒り心頭のルルシュカに話すなんて、気が進むはずもなかった。


 だが、ルルシュカには反省の色が見えないように思えたらしい。

 もの凄い速さで脳天に決められたチョップに、アランは悶絶してまた床に倒れ込んだ。


 苦しむアランの視界の端で、写真立ての中で微笑む魔法士を、ルルシュカが感情のない冷めた目で一瞥していたのが、見えた気がした。


「さっさと戻るよ。アラン、キミが先を歩いて」


 ホールに出たルルシュカは、ドアの横に控えて立つと、アランが出てくるのを待っていた。

 どうにか立ち上がったアランは素直に書斎を出て、元いた客間へと戻る。

 その後ろで、ルルシュカが書斎のドアを閉めた音がして、トムと一緒に客間へ戻ってきた。


「勝手な行動な慎んでください。あなたは特別に同行を許可された身だということをお忘れなく」

「ごめんなさい……」

「先程、教会と連絡が取れました。予定通りにオルガンをあちらへ送りますので、もう暫くお付き合いお願いします」


 セオドアは淡々と告げると、コートのポケットから黒い手袋を取り出した。

 右手の白い手袋を丁寧に外し、黒い手袋に静かに指を通していく。その所作には、どこか儀式の始まりを思わせる気配があった。


 右手をオルガンの上へと掲げる。指先が空をなぞった瞬間、場の空気がひやりと冷える。やがて、オルガンの上に淡い光が渦を巻き、魔法陣が浮かび上がった。


 セオドアが手首をくいと下に折ると、魔法陣はそのままゆっくりと床へと降りていく。その軌跡をなぞるように、オルガンの姿が消えていく。


 魔法陣が床まで降りると、淡い光の尾がふっと弾け静かに消え去った。

 長年そこに置かれていた証のように、絨毯の毛がしっかりと折れた跡だけが残されている。


「これって、教会に移転されたってこと?」

「そういう事」

「さて、これでお仕事は完了です。あとは無事ここから出るだけですね」


 手袋をはめ替えるセオドアは、相変わらず胡散臭い笑顔を浮かべていた。




 一向は来た道を引き返す。セオドアを先頭に、アランはルルシュカの隣を歩かされていた。その隣にはトムがいる。

 アランは先程書斎で見た写真と、不思議な夢を思い出すと同時に、先日のセオドアの言葉を反芻していた。


 ――その魔法士は、報復を恐れて、君と君の母親の命をも狙った。最終的に、母親だけが殺された……。君の魔力も……彼女が奪ったんだ。


(もしかして、ルルって……。あれ? でも、そうなると……僕の両親は、アシュリー伯爵夫妻になるってこと……? でも、僕はエーリエネイトじゃない。……あれはやっぱり、夢だったのか……?)


 それにしても気になるのはルーシャだ。


 アランは書斎に置かれていた写真で初めて彼女のきちんとした顔を見た。写真で見る紅い瞳は宝石の様に美しかったが、当然と言うべきか、ルルシュカの面影はどこにもない。

 それにしても、わざわざルーシャ単体での写真を書斎に飾っているのは、なぜだろうか。


 三英傑は三人ともが同期の魔法士だと聞く。仲も良かったのだろうと推測できるが……。

 連想ゲームの様に次から次へと湧いて出る疑問には際限がなかった。


(あの夢の女の人の話だと、ダニエルとルーシャは、特別な関係だったってこと? そもそもあれが夢だったのかを、はっきりさせたいな……)


「ねぇ、ダニエル・アシュリー伯爵って、結婚してたんだよね? 奥さんって、どんな人なの?」


 気がつけば、勝手に口をついて言葉が出ていた。

 隣を歩くルルシュカを見ると、彼女は視線だけアランに向け、すぐに前方へ戻した。


 ――奥さんってどんな人?


 その質問にルルシュカは答えられなかった。


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