【12】訓練
ある日の店内。
そこには、満面の笑みを浮かべたウサギのぬいぐるみを握る青年と、その青年の周囲を無表情で歩き、罵倒を浴びせる少女の姿があった。
彼女の手には、長尺の定規が握られている。
――トムから君が魔力操作が完璧にできるようになったって聞いたよ。だから、これはその最終確認ね。
そう淡々と告げたルルシュカは、氷のような視線をアランへ向けていた。
まるで軍の上官が部下の失敗を責めるかのような――張り詰めた空気が、店内を支配していた。
アランは椅子に座り、目を伏せたまま手元のぬいぐるみをぎゅっと握りしめている。その肩はかすかに震えていた。
(詳しい説明してないから、こうなるよね……まぁ、してても同じだけど)
そう内心で思いながら、ルルシュカはアランのすぐ横のカウンターを定規で叩いた。
パシンッ――
乾いた音に、アランがビクッと身体を跳ねさせる。
その反応すら、ルルシュカには想定内だった。
「魔力のない貴様がなぜこの店にいられるか、その理由はわかっているな?」
「……わかってる、よ」
「貴様のした交渉は下劣なものだ。だが、養護院出身者には心がない。よって、貴様のその行いには正当性があると判断できる。それについてどう思う」
「……それは。けど……申し訳ないって、思ってるよ……」
まるで別人のルルシュカに、アランの声がかすかに震えている。
またアランの隣で、定規が風を切りカウンターを叩きつけた。
それでも、手のなかのウサギはニコニコと笑っている。
(……いい調子だね)
「ならば、貴様は自身に心がないと認めるのだな」
「……そうとは、言って、ないよ。僕には、心が……あるから」
「孤児のくせに、口答えするか。身の程をわきまえろ。賤しい出自の貴様にその指輪は分不相応。よもや誰かから奪って来たのではあるまいな」
それでも、アランは拳をぎゅっと握ったまま、目を逸らさずに言葉を吐いた。
「そんなわけない! ……賤しいとか、孤児とか、そんなの関係ない……この指輪だって……」
その声は震えたままだった。
最後まで言い切れなかったのは、悔しさのせいか。
それとも――涙を堪えているのか。
(大きい声も出るんだ……意外な一面だな)
彼はそれきり口を閉ざし、拳をぎゅっと握ったまま、前髪越しにこちらをじっと睨んでいた。怒らせるつもりだったのに、震える彼は今にも泣き出しそうだった。
狙った反応とは違ったが、目的は達成された。だから、まあ良しとする。
それに――あの流れで、指輪の出所を弁解しなかったのは意外だった。
普通なら、奪っただなんて言われたら、真っ先に否定したくもなるだろうに。
けれど彼は、言わなかった。言い訳を呑み込んで、ただ、言葉の芯だけに反応した。その態度だけでも、少し印象が変わる。
(希望があれば、魔法士にもなれたかも。いや――この子は、なれなくてよかったかもしれないな……)
アランは顔を伏せたまま、わずかに肩を上下させていた。落ち着こうとしているのが見て取れる。手の中のウサギは、変わらない笑顔でじっとしていた。
その様子を、ハチワレ猫が窓際のソファに座り眺めながら、呆れ顔で見ている。
(ほんとうにやりやがった。って思ってるんだろうなぁ……)
ルルシュカの、刺々しくも執拗な言葉の暴力に、アランの紫の瞳にはうっすら涙が浮かんでいる。
「いいね、合格だよ」
ルルシュカがにっこり笑うと、店内の空気がふっと和らいだ。
アランは肩の力を抜き、ウサギをそっと手放す。籠っていた全身の力を抜くと、椅子の背もたれに体を預けて、目尻の涙を指で拭っていた。
軍の訓練なら、もっと効果的な挑発もできたかもしれない。けれど、アランについて知っている情報はごくわずかだ。選べる手札が限られていた以上、これくらいしか思いつかなかった。
――というか、そもそも訓練以外で誰かを罵ったことなど、今までない。
だから仕方なく、ずっと昔――自分が言われてきた言葉を、表面だけ真似て口にした。
その時の言葉が、今になって子どもを追い詰めている。
(今思えば、よくまぁこんな言葉を、あのお嬢様は楽しそうに言ってたもんだ。……でも、そこがまた、あの人の可愛いらしい部分ではあるけど)
こうしてアランは、感情に左右されず魔力を使うことを、知らぬ間にマスターした。
「うぅ……ねぇ、これ本当に、魔力操作の確認に必要だったの……?」
弱々しい声ににじむ不信感は、演技ではなさそうだ。
けれどもその奥には、自分の力が認められたことへの、かすかな誇らしさも見え隠れしていた。
「そうだよ。それも大切なね。でも、完璧だったよ。それと、一応言っておくけど、あれは本心じゃないからね」
「……ほんと……?」
「本当だよ。なんせ、私も養護院出身者だからね」
「え?」
ふいに明かされた事実に、アランは言葉を失ったようだ。
驚いたようにこちらを見つめたまま、唇が何かを言いかけて止まった。
ルルシュカは、小さく微笑んだが、それはどこか、寂しさを含んだものだった。
そっとローブのポケットに手を差し入れ、あらかじめ忍ばせておいた革の手袋を取り出すと、右手にはめる。
「それじゃあ、君に魔力を少し渡そうか」
「……ねぇ、魔力供給装置って……もしかして、それのこと?」
涙が乾ききらないうちに、アランの顔がぱっと明るくなった。
目を見開き、革手袋を指さすその仕草は、子どもらしい無邪気さと好奇心に満ちている。
「そうだよ」
ルルシュカは右手をゆっくりと顔の高さまで掲げ、誇らしげにその甲を見せた。
装飾もない、ただの革の手袋。けれどその姿は、まるで由緒ある魔導具でも掲げるような所作だった。
アランは少しだけ口を開け、しばらく瞬きを繰り返す。
「すごい……。もっと、壮大な装置だと思ってた……」
魔力供給装置。
大層な名前をつけたが、実際には店にそんな派手な道具はない。そこで、それっぽく見える魔道具を用意したのだ。
逆にこちらの言葉の信憑性が増したようでよかった。
「といっても、渡すのは、平均的な魔力量の三分の一くらいね。前にも言ったけど、一回で全て渡すと、体にどんな影響が出るか分からない。魔力が渡せたら、次は実践練習だよ」
「お願い、します」
珍しく引き締まった表情のアランを見て、ルルシュカは思わず苦笑した。
アランのその眼差しには、希望が宿っていた。
飴を二粒口に含む。舌先に広がる魔力の刺激が、微かに神経を研ぎ澄ます。
「じゃあ始めるね。じっとしてて」
アランの背にそっと手を添え、ルルシュカは静かに息を吸い込んだ。
手のひらに力を込めると、封印の術式が刻まれた魔法陣が淡く浮かび上がる。
十五年の時を経た今もなお、それは微塵の綻びも見せず、アランの魔力を静かに押さえ込んでいた。
(魔法の都合だけど、魔力が階層で封印されてるのは都合がよかったな)
掌に宿した魔力が、脈打つように微かに震え始める。
目を閉じ、低く、小さな声で、どこか旋律を帯びた声で詠唱を紡ぐ。
「我、燈の結びを解く者 眠れる波間に繋がる路を いま一度」
室内の空気が少しだけ重くなり、アランの体に触れていた手元から、ゆっくりと淡い光が広がっていく。たったこれだけの詠唱で、口の中の飴玉が一つ消えてなくった。
魔法陣はルルシュカの紡がれていく魔力に反応し、青白く、まるで水面に反射する月光のように揺れている。
残りの飴を奥歯で砕き、呪文を唱えた。
――開
その声と同時に、魔法陣のひとつの文字が渦を巻くように崩れ、静かに霧散していった。次の瞬間、アランの全身がふわりとした温かな気配に包まれた。
ルルシュカは小さく息をつき、魔力の流れを感じ取りながら、その循環が滞りなく回るように補助する。
「……どう? 気分悪くない?」
「うん……大丈夫……。なんか、ちょっと……温かい」
「いいね。最初に練習した魔力の循環を数分でいいから意識してやって」
「うん」
ルルシュカは手を離し、手袋を外す。
指先が小さく震えているのに気づき、そっとそれを握り込んだ。
ふと視線をやれば、ソファのトムが暇そうにあくびをしている。
(封印術って……やっぱり、体にこたえるな)
額に滲んだ汗をローブの袖で拭い、立ち上がる。
「この後は、ジャックの工房で魔力を使い切るまで練習ね」
「工房? ねぇルル、前髪、跳ねてるよ」
「そう」
少し不満そうに前髪を直すルルシュカを見て、アランは眉尻を下げた。
「……顔、赤いよ? もしかして、気分悪くなった?」
アランの声は、どこか戸惑うようで、それでもこちらを気遣う優しさが滲んでいた。
「魔力を渡したからね。ちょっと疲れただけ。体調は問題ないよ」
笑って答えたけれど、喉の奥にわずかな違和感が残る。
手足の先がじんわりと痺れていて、それがただの魔法行使による疲労なのか、封印の干渉への反動なのか、まだ判断がつかない。
それでも――見せるわけにはいかない。
心配させたくなくて、いつものように口元を持ち上げる。
そう言って微笑みながら、ルルシュカはカウンターの外に出とそのまま受付へと出ていく。
背後でアランの足音が静かについてくる。視線を感じて、振り向かずとも分かった。彼は、きっと私の背中を見つめている。心配そうに、静かに――まるで何かを感じ取ろうとするかのように。
(……大丈夫。次も、ちゃんとやれる)
ローブの袖の中で、そっと指先を握りしめた。




