【01】再開
たとえば、家族とも呼べる人たちを、過去に裏切って殺していたとしたら。
その仲間の子どもと、ある日出会ってしまったとしたら――。
一体、どうするのが正解なのだろうか。
自分の選択に、後悔も罪悪感も……なかったつもりだった。
――少なくとも、そう思っていた。
目の前にいるのは、選んだ結果を体現する少年。
終わったはずの過去が、あの日の選択が正しかったのかと問いかけてくる。静かに、けれど確かに――この気持ちが、揺らぎ始めていた。
ルルシュカは困惑していた。
この出会いが、平穏の終わりを告げるなど、想像もしていなかったのだ。
「ルルー。お客さんが来たよー」
店主のジャックに案内され部屋にやってきたのは、まだあどけなさの残る顔立ちの少年。
スラリとした高い背に華奢な輪郭と艶のある黒髪。長い前髪が瞳を半ば覆っているが、その隙間から特徴的な紫の瞳が覗いていた。
中性的な顔立ちは、今にも溶けて消えてしまいそうな儚さをまとっている。
間違いなく、彼の息子だった。従軍時代に殺した。あの瞳の色がその証だ。
薄い唇の形、長いまつ毛、細い顎のラインに彼らの面影が見え隠れしていた。
(……懐かしい、な……)
不意に、鼻の奥がつんとした。
懐かしさと痛みが同時に押し寄せる。あの面影を、その瞳を、こうして見ることはもう二度とないと思っていた。
――本当にあれでよかったのかな。
遠い昔に抱いた迷いが、忘れたはずの鎖のように心に絡みつく。
少年の瞳がわずかに見開かれる。無理もない。案内された先にいたのが、十三歳ほどにしか見えない子どもなのだから。初対面の客が驚くのには、すっかり慣れていた。
窓際のソファで丸まっていたトムも、予想外の来客に驚き固まっている。
金色の瞳をまん丸に見開いて、まるで「どういうことだよ」とでも言いたげに、可愛らしい白い前足でツンツンと彼を指し口を開けている。
少年に座るよう促せば、ゆっくりとした動きで椅子に腰掛けた。どこかぼんやりとしたその目は、感情の起伏があまり感じられなさそうな雰囲気がある。
「ルルシュカだよ。宜しくね。それで、ここへはなんの用で来たの?」
紫の瞳がルルシュカを捉えると、少しの間を置いてから彼はようやく口を開いた。
「……この指輪を探してる人がいるって聞いたんだ……。それってさ、君のこと?」
その声は耳に心地よく、落ち着いたものだった。
骨ばった長い指にある、いくつかの指輪の中から抜き取られたのは、十五年もの間探していた、セントリオの指輪だった。
最愛の人に贈った指輪は、シルバーで作られたシンプルなデザインをしている。
久しぶりに見る懐かしさに、思わず目元が緩むと彼の言葉が脳裏に蘇った。
『指輪は、ある人に預けたんだ。だから、探して見つけ出してよ。約束だからね』
楽しそうに笑って、彼は静かに息を引き取った。
疲れきっていたルルシュカに、「生きるための理由」を、一方的に押し付けて。
(……どれだけ探しても、見つからなかったわけだ)
まさか、殺した仲間の子どもが持っているなんて、誰が予想できる?
あまりの皮肉に、自然と笑みがこぼれた。
「そうだね……。その指輪を探していたのは私だよ。君は?」
「……僕はアラン。……ねぇ、どうしてこの指輪を探してたのか、聞いてもいい?」
アラン――その名に、ルルシュカは微かな違和感を覚えたが、彼の“本当の名前”は、もう過去に葬られている。あの子には間違いないのだ、今更呼び名などなんでもよかった。
「それは、私が大切な人に贈った指輪だよ。彼が亡くなる際、人に預けたから探して欲しいって言われてね。……遺言なんだ」
カウンターに置かれた幅広の指輪は、今なおその輝きを失ってはいなかった。
――ジョシュリーのこと?
ポツリと、アランの声が聞こえた気がした。ため息のように吐き出されたその名に、思わず視線を向けると、そこには自分と同じ様に驚いた顔があった。
(なんで、ジョシュリー? ジョシュアじゃなくて?)
彼はこの指輪の持ち主のことを、知っているのだろうか。
「今……なんて言ったの?」
「……え、なにも言ってないよ?」
穏やかに笑ったアランに、違和感を覚える。
(そもそも、彼の要件をまだ聞いていない。この様子だと、指輪を返しに来たわけじゃなさそうだけど……)
それにしても、なぜこの指輪が彼の手に?
誰から、どうやって?
はやる気持ちを抑え込む。
「どうして君は、その指輪を持ってるの?」
「……なんでだったかな。物心ついた頃には、これを持ってたから」
嘘だとわかった。声音の変化、ほんの僅かな視線の動きが、そう告げている。
だが、ここで追及しても彼は答えないだろう。
「僕には、魔力がないんだ。……だから、この指輪は、僕にはとても大きな支えになってる。この指輪をずっと探してる人がいるって話を聞いて。……どんな人なのか、興味があって」
アランに魔力がないのは当然だ。
彼を生かす代償として、その魔力はルルシュカが奪ったのだから。
セントリオの指輪には、「魔力を循環させ、蓄え、使う」という、一見単純な仕組みに見えるが、現代の魔道具にはない特殊な機能を備えている。日常的に魔力を分けてくれる人がいれば、生活に困ることはないだろう。
「ルルシュカはさ、この指輪を、返して欲しいんだよね?」
困ったような、それでいてどこか打算を宿した目。
アランはこちらをじっと見つめながら、交渉を持ちかけようとしている。
「……そうだね」
「僕ね、もう少ししたら、養護院を出ないといけないんだ。でも、まだ住む場所も仕事も、なにも決まってなくて……。それに、この指輪をルルシュカに渡したら、僕は生活すらままならなくなる」
魔道具の補助はあるが魔力なし。養護院の出自では、世間の風当たりは強い。
おまけにこの国では、魔道具が生活に浸透している。魔力がなければ玄関の鍵すら開閉出来ない。彼が言いたいことは、自ずと理解できた。
ソファに座っていたトムが、アランとルルシュカを隔てるカウンターの上に飛び乗ってきた。
「……猫?」
突然現れたトムに、アランはわずかに目を見開きじっと見つめていた。トムはアランを一瞥すると、そのままカウンターの端に腰を下ろす。その視線は、まるで品定めをしているようだ。
とりあえず、ルルシュカはアランの言いたいことを最後まで聞こうと続きを促した。
「……だから?」
「あ、うん。だからさ――僕を雇ってくれないかな?」
アランは柔らかく笑ってそう言った。
だが、前髪から見え隠れするその目の奥には、計算が見える。
「君の話を聞いたときに、とても優秀な魔道具士だって聞いたんだ。それに、ぶっきらぼうだけど、面倒見のいい、優しい人だって」
一瞬だけ、視線がこちらの観察に滑った。試すような、見定めるような目だ。
「面倒見のいい、優しい人」そんな評価を人から下された覚えはない。人違いじゃないかと思ったが、彼はちゃんとこの店を訪れている。ジャックのことかとも思ったが、彼にもその評価は当てはまらない。
噂などそんなものかと、ルルシュカはアランの言葉に耳を傾ける。
「僕は君の元で働いてみたい。そうしたら、君に指輪を譲るよ」
彼の言葉は“提案”というより、“こちらを誘導するための台本”のようにすら思えた。まるで――用意していた台詞のような。彼のおっとりとした口調が、それを助長させるようだった。
「魔道具士になるには、膨大な魔力が必要になる。……それなのに、魔力すらない君を私は雇うの?」
魔力が基準に満たない者は、魔道具士になれない。アランはその枠外だ。
あえて冷たく返したが、アランは怯む様子もなかった。
「確かに。でもさ、君にとっても、損な話じゃないんじゃないかな。お使いや掃除に料理。――それに、ルルシュカのその髪も、僕なら、綺麗に結ってあげられる」
まったく大したスキルでもないそれを、さも自慢げに話すアランは、こちらを観察するように言った。
無造作に括られた髪。まとっている黒のローブには、ほつれや色褪せがあり、年季が感じられる。彼が言いたいのは、ルルシュカの生活能力の低さだろう。
そのどこか自信に満ちた姿に、ルルシュカは彼の父親の面影が重なり、思わず苦笑した。
――どうして、今さら……。
ルルシュカには、果たさねばならない使命が二つあった。
セントリオの指輪を探すこと。そして、何があっても生きること。
指輪が見つかった今、ようやくひとつの使命から解放されるはずだった。あとは静かに、余生を過ごせばいいだけ。……そのはずだった。それなのに、アランを雇うなんて、これまで考えたこともなかった未来が、いま目の前に差し出されている。
(指輪は返して欲しい……でも、彼を傍に置くことだけは、どうしても避けたい)
アランは知らない。ルルシュカが、彼の人生を狂わせた張本人だということを。だが、言わなければ彼は知らないままでいられる。それが本当に良いことなのかは、わからない。けれど――少なくとも今は、ルルシュカには関係のないことだ。わざわざ考える必要もない。
「……私では、決められない」
トムに助けを求めるように視線を向けると、彼は呆れたように目を細めた。だがすぐに、体を伸ばしてこちらへと近寄ってくれる。
「少し待っててくれる?」
アランが小さく頷いたのを確認し、ルルシュカはトムを抱き上げ、作業部屋の奥へと向かった。
背後で扉が静かに閉まる。その音に、張り詰めていたものがぷつりと切れた。足元がふらつき、壁にもたれかかる。するりと、トムが腕から消えた。
肺の奥深くから、長く重たい息を吐く。
「……なにが、どうなってるんだろう」
声に出すと、喉の奥が熱くなった。指輪が見つかった。それだけで本来は十分だったのに。それを持っていたのが、よりによってあの子だなんて。
震える指先を、胸元でぎゅっと握りしめた。
「……息子、か……。それに、……」
なぜジョシュリーの名が出たのか、彼はどこまで知っているのか――わからない。
しゃがみ込み、頼もしい相棒と目線を合わせる。
「……トム、私はどうしたらいい?」
「んなの知るかよ。自分で考えて決めろ。……とはいえ、まさかあいつが指輪を持ってたなんてな」
長年連れ添ってきた彼は、いつだってルルシュカの意思を尊重してくれる。
だが、トムにとっては所詮他人事だ。
(どうしたらいいか、わからないから聞いてるのに……)
アランに対して特別な感情などない――はずだった。
それなのに、なぜこんなにも胸がざわつくのか。自分の感情なのに、どうしてもこの“動揺”の正体がわからない。アランという存在が、どこか脅威に感じられた。
トムは何も決めてくれない。
小さくため息を吐くと、ルルシュカは順序立てて考え始めた。
――指輪の回収が最優先。それだけは間違いない。
そのためには、アランを雇うしかない。彼の状況からして、他の手段では納得させられそうにない。
雇って、生活できるだけの魔力を戻す。そうすれば、彼は指輪に固執する必要がなくなるはず。そして、この店から出て行ってもらえばいい。
それで終わり。二度と関わらなくて済む。
(……一ヶ月もあれば、十分でしょ)
魔力を使えるようになるには、そのくらいで足りる。それが正しいかは分からないが、目的は果たされる。いまはそれ以外の案も浮かばない。アランを近くに置くのは、なんだか良くない気がする。だが――背に腹は代えられない。
(冷たく接すれば、あっちだって居座ろうなんて思わないはず。一ヶ月だけ我慢すれば、また全部元通りになる)
「……あの子を雇おうと思う」
決意を固めてトムへと説明した。だが、トムは返事もせず、ただ静かにルルシュカの顔を見つめていた。まるでなにかを問いかけてくるようで、ルルシュカの中にあった決意がぐらりと揺らぐ。
自分で決めた、そう思っていたはずなのに――。実際は、アランの提案に流されただけだったのではないか。
「まぁ、ルルがそう決めたんなら、俺はそれでいいけどよ。あいつ、多分“辞める”って言わねぇと思うぞ?」
トムはぼそりと呟いた。
「試用期間を設ける。期限が来れば追い出せるし、給与も最低賃金にする。養護院育ちの求人と同じ扱いだよ」
「じゃあもし、あいつに――絆されたら?」
トムの問いに、ルルシュカは短く鼻で笑った。
「それはありえないよ」
その瞳は空を映すように虚ろで、声の調子は変わらない。
心なんて、動かされるものか。
最初からそんなもの、自分にはないのだから――。
「……俺は、その間どうすりゃいいんだよ」
「それは……」
アランの前では黙っていてほしい。
けれど、そう言っておきながら、自分自身が黙っていられる自信はなかった。
「今まで通りでいいよ。……猫が話すなんて、普通なら人に言わない」
「そりゃそうか」
「トムがいるんだから、上手く行くよね」
いつもなら肯定してくれるトムが、今日は黙ったままスンと目を細めた。
不安を感じながら、相談とも言えないやりとりを終えたルルシュカは足早に作業部屋へ戻る。背後にトムの気配を感じながら。
部屋に戻ると、アランが不安げな顔でこちらを見ていた。
「お待たせ。……雇用条件を伝えるよ。試用期間は一ヶ月。給与は養護院出身者向けの最低ライン。こっちは遊びでやってるわけじゃない。不良債権を抱える余裕はないからね。肝心の指輪の返却の件は、――また後で詳しく伝えたい。どう?」
ただ、指輪を回収したい。その一心だけで、合理的な理由を“装って”並べ立てた。仕事は日々をやり過ごすための手段でしかない。そこに熱意などありはしなかった。アランが難色を示せば、話はそれまでだったが、どうだろうか……。
だが――アランは小さく息を吸い直してから、笑って答えた。
「一ヶ月……。分かったよ。僕、頑張るから。これからよろしくね!」
どこか頼りなく、それでいてまっすぐな瞳。彼の両親とは――まるで違っていた。
(この子は、この子だ。そりゃ、違うに決まってる……)
「ねぇ、……明日から来てもいい?」
「……まぁ、いいんじゃない」
「あとさ、住むところって、……あったりするかな?」
「……物置にしてる部屋があるから、屋根裏を片付ければ住めるかな」
どうせ、いずれはここに来る。なら、早い方がいい。
アランの思惑がこれだけかはまだわからない。監視する意味でも、傍に置いておいたほうが都合がいい。
……本音を言えば、傍に置きたくなんてなかった。でも、もう決めたのだ。あとのことはどうでもいい。
「ありがとう。ルルシュカがいい人でよかったよ」
それに、ルルシュカは自嘲気味に笑った。視線を外した先にいたトムがこちらを見上げていたが、なにを考えているかはわからなかった。
「君の暮らす養護院って、どのエリアにあるの? ……それと、今日はこのあと何か予定ある?」
「ノルヴァ地区だよ。……今日は特に用事もないし、そのまま帰るつもりだけど。どうして?」
ルルシュカは小さく息を吐くと、引き出しからなにかを手にするとアランへ差し出した。
「これを貸してあげる」
細くて目立たないシンプルな指輪。彼の指には、すでにいくつか指輪がはまっている。そんな指に、またひとつ増えるのがなんだか妙に可笑しくて、ふっと頬が緩んだ。
「……これ、なに?」
「その指輪をして、開くドアならなんでもいいから、ドアを三回ノックする。そうすると、そっちのドアに繋がる」
指さした先には、アランの背後――そこには白木のドアがある。
「……これも魔道具なの?」
「そうだよ。ドアが特殊な魔道具なんだ。帰りはそのドアを使うといいよ」
いつの間にかソファに移動していたトム。器用に頬杖をついていた彼の尻尾が、ゆらりと揺れた。
「ありがとう。これからよろしくね、ルル」
アランが自然に口にしたその愛称に思わずたじろいだ。――その言葉が胸に突き刺さった。
ドアを開けたアランの向こう側には、ノルヴァ地区の七番通りの裏路地が広がっている。見慣れた風景だったのか、アランは一瞬動きを止め、それから笑顔で振り返った。
「すごい……! 僕の住んでるエリアだ。ありがとう!」
頬を赤らめて、アランは手を振りながら店を出ていった。その姿を見送りながら、ルルシュカは上手く笑えないでいた。
静まり返った作業部屋に、ドアベルの音がひときわ寂しげに響いている。まるで、自分の気持ちを映しているみたいだ。ルルシュカは、アランが出て行ったドアをぼんやりと見つめていた。
「ここに住まわせてやるなんて、優しいじゃねーか」
「……別に、優しさから言ったわけじゃないよ」
その声はどこか言い訳めいていた。本当はただ、気になって仕方がないだけかもしれない。だが、考えるだけ無駄だ。ルルシュカは肩の力を抜くと、椅子に腰掛けた。
「お前のその選択が、今後どうなってくんだろうな」
(選択なんて……結局、私は選んですらない……)
「どうにもならないよ。一ヶ月後にはお別れだ」
そう信じていた。
だが、その時はまだ知らなかった。
切り捨てたはずの過去が、違う名を持って戻ってくることを。そして、その渦中にいるのが、あの少年だということも――。