冷蔵庫マンション
私もこのマンションで暮らして長い。
新入りを温かく迎えてやるのも、年長者としての務めだ。
最上階の隅っこから、私は下の階に声を掛けた。
「おい、そろそろご主人が帰ってくる時間だな」
「はい、その筈ですね」
横に置かれたウスターソースが返事をした。彼も私の次くらいに、ここで暮らす月日が長い。彼がここに来てから外に出たのは、ご主人がお好み焼きをつくったときの二回だけらしく、中身は半分ほど残って、それ以来、ずっと二段目の奥、私の真下あたりで寝っ転がり続けている。
「まさか一日もここにいるとは……」
それと関係なく、一番下の左ポケットで、コーラが切なそうに呟いた。
彼は昨夜ここにやってきたのだが、三割ほど飲み残されて、もうすっかり炭酸が抜けていた。炭酸が含まれていない私に、その喪失感は推し量れない。彼に表情はなくても、酷く落ち込んだ雰囲気は醸し出している。
「今日こそは、鍋でも作ってくれねーかなー」
また一方で、野菜室では、横たわった人参がしなびた感じで呟く。彼はといえば、もうここにきて一週間が経つ。二個入りの袋にいた片割れのもう一本は、やってきた当日にここを出ていったというのに。
「あっ、足音」
私と同じ階に住まうマヨネーズが、足音に気づいた。彼はこのマンションの中でも人気者で、真ん中の手に取りやすいところに置かれている。二日に一回は必ず出番がある。惣菜サラダによく掛けられているらしい。
その声を皮切りに、みんなが緊張した雰囲気を醸し出した。
さっきのコーラと同様、みんな食品だから動かす体も顔も持たないけれど、こういうふうに雰囲気を醸し出すことで、ある程度の感情は読み取り合えるのだ。
そうして彼の聞き耳通り、足音はだんだん大きくなり、近づいてきて、マンションの扉がガバリと開いた。前からも後ろからも、眩しい光に照らされる。
「あ゛ー、つかれた……」
スーツ姿のご主人が、今日も私たちを覗き込んだ。私たちは一斉に黙り込んだ。ご主人は女性である。世間一般と比べたら、少々ガサツな方だから、我々のマンションの並び順は結構ごちゃごちゃしている。キムチのパックの上にゼリー飲料が乗っていたり、片栗粉の袋の上にケチャップが乗っかっていたりする。
ガサガサ、ゴソゴソ。
床に置いたビニール袋を、ご主人乱雑にまさぐる。我々にとっても、緊張の一瞬だ。新入りの顔ぶれによって、今日出ていくメンバーの想像もある程度つく。全員が声を発さないよう気をつけながら、固唾を呑んだ。
まず入ってきたのは──卵だった。
「わ、あたらしいこたち」
マンションの住人全員がぎくりとした。
マンションの二段目左、十個入りパックの中でひとつだけ残っていた卵が、ぼそっと呟いたのだ。しかし、あまりにもか細い呟きだったようで、ご主人の耳には届いていないようだった。
そのまま、ご主人は残りひとつのパックを持ち上げ、未開封の十個入りを下に置いた。二段積みになる形である。ご主人はがさつだが、どうしようもないほどではなかった。これで、残りひとつのやつも、今日か明日にでも出ていくことができるだろう。
合計11個となった卵たちは、さすがにもう声を発することはないけれど、仲間と会えてうれしいのか、互いにうきうきとした雰囲気を出していて、微笑ましかった。
間髪入れず、次の顔ぶれがやってくる。
入ってきたのは──ビール。
おお、今日は飲む日かと、私やウスターソースなど、古株の住人は同じことを考えた。ご主人がアルコールを飲む日は不定期である。
そして、みんなが僅かに顔をしかめた──ような雰囲気を出した。
ここの住人だけでなく、大方の食品類は、アルコールのことを良く思っていないだろう。特に、ビールのことは。
ほら、それみろ、あの顔。
ビールはすました顔して、コーラの隣の空いたところに収まった。一番手に取りやすい、手前側で、さも当然という顔をしている。とても余裕があって、鼻につく。
彼は、我々のことを気にするような雰囲気も見せない。『自分はこのあとすぐ出ていくから、挨拶する義理もございませんので』という佇まいでいる。隣り合ったコーラが、露骨に嫌悪感を放っているのだけれど、それも完全に無視されていた。
次にやってきた納豆は、見た目に反してくせのない奴らだ。
少なくとも三パック入りのうち一つは三から四日、ここに残るわけだから、短い間ですがよろしくお願いします的な、やんわりとした挨拶の雰囲気を浮かべつつ、二段目の手に取りやすい位置に収まった。好印象極まりない。よい礼儀のできた子たちである。ビールは見習ってほしい。
さて、それはそれとして緊張感は高まってきた。
卵、ビール、納豆と続き、まだ本日の夕食のメインが見えてこないからである。彼らは何かと万能すぎて、ヒントにならない。
だから次あたりには全貌が見えるだろう……と言うところで、野菜室にて孤独にご主人を見上げていた人参が、あっ、といいそうな驚きを浮かべた。
鶏もも肉が入ってきたのである。パック入り200g。いったん彼は卵の横に置かれる。まさか本物の親子だったということはなかろうけど、鶏肉も、卵たちもなんだか嬉しそうな雰囲気を浮かべた。
そして次に続いたのは──玉ねぎ三個入りネットと、パックいりしいたけ。
しいたけが目に入ったとき、みんなが確信を持った。
おそらくは本日の夕食は……鍋。
急に、密度が増える野菜室。玉ねぎと、パック入りシイタケを入れるため、脇に雑に転がされる人参。彼の様子はといえば、まんざらでもなさそうだった。玉ねぎやシイタケも、納豆と同じような、物腰柔らかい雰囲気を浮かべていたから。人参はようやくここに来た時のような、みずみずしい雰囲気を取り戻しつつあった。
そしてまた主人が屈む。袋の音はとても軽そうになっていた。
最後に入ってきたのは、カップ入りの、小さなパフェであった。
おお、と住人たちはどよめいた──雰囲気を出す。
ご主人にしては珍しいことだった。印象だけで言えば、ご主人はそう甘党じゃない。
仕事で良いことがあったのか、はたまた悪いことがあったのか。主人の表情の疲れ具合を見るに、おそらく後者だと思われる。
パフェは、二段目の真ん中を陣取った。一番手に取りやすい場所だ。流石の好待遇である。彼女はおしゃまなすまし顔を浮かべているが、そこから受ける印象はビールとまるで違った。鼻にはつかず、むしろ見惚れる。
まるでお姫様のようだった。
私が以前ここで見たことのあるスーパー製の格安パフェとは違い、ラベルのデザインから、上に乗ったカット苺のみずみずしさまで、全てが上品であったからだ。同じビニール袋に入っていたことは間違いないから、おそらく、何かのフェアでスーパーにやってきた、外様の子だろう。
それからふぅ、とご主人が息を吐いて、ビニール袋をゴミ箱に捨てる。これで今日の新入りは終わりらしい。ようやく扉が閉められる……と思ったところで、ご主人は左ポケットに手を伸ばした。
コーラが、連れていかれた。
コーラ含めて、元からの住人全員がびっくりした。しかし、すぐ状況を理解したコーラは、ビールに対して、まさしく見下ろす格好で、勝ち誇ったような雰囲気を浮かべた。
ビールは全く気にせず、すんと澄ました風を装っていたが、内心、面白くなさそうに思っているのは雰囲気でわかった。このタイミングでビールを呑むようなご主人も、世間には多くいるらしいからだろう。
そうして、残り3割くらいだったコーラは、一息に飲み干された。
ご主人が、「ぷはぁ」と美味しそうに息を吐いてから、扉を閉めた。
いつものことだが、私たちは別れの言葉を送り合えない。だから静かに見送られ、見送り合うしかないのだ。お別れだ、コーラ。さらば、さらば。
**
ご主人がルーティーン通り、買い物を冷蔵庫に直してから、風呂に向かったところで、私たちはようやくまた話し出すことができた。
卵と鶏肉たちは、やはりすぐ打ち解けたらしい。
「こんにちは」
「「「「「「「「「「こんにちは」」」」」」」」」」
「こんにちはぁ。いややっぱり、他人とは思えない安心感があるねぇ。まぁ僕ら、血がつながっているわけでもないけどねぇ」
まぁ中々、ブラックなジョークが鶏肉から飛んでいることだけど。
「いやー、玉ねぎさんたちが見えたとき、ほんと安心したっすわ。流石にこれは鍋でしょ。俺短いから、流石に使い切ると思うし」
「良かったっすねえ。俺達は流石にひとつしか使われないと思うけど、やっぱスーパーで他の人参さんたちとも仲良くさせてもらってたんで。一緒に使ってもらえそうで嬉しいです」
「俺達も、人参さん、玉ねぎさんたちとようやく近づけて嬉しいっす。やっぱコーナーが離れてるじゃないっすか。お二方たちが一番売れてくところ、見てたんで」
「へへ」
「はは」
野菜室組も、若々しい口ぶりで、和気あいあいとしている。結構なことだ。
それと反対に、ぎこちない雰囲気が流れているのは、左ポケット。
「こ、こんにちは……よ、よろしくね……?」
「……」
2Lのお茶が声を掛けているのに、まったく反応しないビール。はぁ、本当に。そういうところが、ダメなのだ。
そして予想通り、一番の盛り上がりを見せるのは、パフェを取りまくその周囲だった。
「こんにちはパフェさん。僕マヨネーズ。短い間だろうけどよろしくね!」
「ごきげんよう。マヨネーズさん。こちらこそよろしくお願いしますわ」
「ねーねー、パフェさんって僕らのスーパーで売られてたの? どこ出身?」
偶然隣り合ったサケフレークがずかずかと聞く。馴れ馴れしいなと思いつつも、私含め、周りの全員が興味津々であった。
「えぇ、スーパーの特設コーナーにて販売されていましたわ。けれど、私が作られたのはフォン・ド・シュレという近隣の製菓店になります。出張販売という形で、ご主人様にも手を取っていただけたのです」
ははぁ、と一般市販品であるお馴染みのメンツは、揃って感嘆する。なんとかシュレなど、我が食品人生で聞いたこともない名前だ。さぞ立派な店なのだろう。食品としての格の違いを感じた。きっと今夜中に、自分へのご褒美としてご主人に美味しく頂かれるのだろう……。
うむ、はやく頂かれるから偉いとは思わないが、やはりもう三か月もここに残り続ける私としては、忸怩たる思いの一つや二つ、抱かないことはなかった。
「ところで、ここでいちばん在住歴の長い方はどなた?」
そこで、自分に呼び声がかかるものだから、びっくりした。一斉に、周りの注意も私に向く。怯む様子は、長居のプライドの手前、見せられなかった。
「はい。私ですが……」
「まぁ。あなたでしたか。なるほど確かに、どのご主人様にも、長く使われる方ですわね。私も安心しました。なんなら、私たちは縁深いものですしね」
私は照れて、上手く言葉が出なかった。
「はぁ……。ところで、どういった御用で……」
「それはもちろん、ご挨拶のためですわ! 私どもも、生菓子として一番おいしい当日中に召し上がっていただけることを祈っておりますが……風の噂では、手を付けるのを忘れられ、消費期限が過ぎてしまう仲間もいると聞いています。どのような運命であれ、ここでいっときを過ごすのですから、まずは年長様にご挨拶を、と」
「あ、ありがとう……」
「……」
「……」
「また何か、お伺いすることがあるかもしれません。そのときは、何卒よろしくお願いしますわ!」
私はとても買いかぶられてしまったようで、まったく委縮してしまった。だから彼女は一度にっこり笑ったような雰囲気を浮かべた後、すぐまた別の住人へ声を掛けて回った。
主人が風呂から上がり、夕飯を食べ、デザートを頂くまでには、まだ十分時間があるだろう。きっと彼女の律儀な心遣いは、無駄ではなかった。
私はそれを最上段の一番隅で眺めながら、ため息をつきたい気分だった。
本音を言えば、私だって早く使い切って頂きたかった。このマンションで年長ぶって、威厳ぶるのも悪くはなかったが、やはり食品の本懐は達せられていない。主人はなかなかの和食派で、それでも私と和食の相性も悪く無かろうに、すっかり忘れた風に、私を使ってはくれない。
ウスターソースなどは私を敬ってくれているが、マヨネーズなどは、内心、長い間使い切られない私を侮っているだろうことが分かっていた。話さずとも、雰囲気でわかる。
ああ、私の残りも、あとちょっとなのに。後何か一食作ってもらえるだけで、使い切れるのに。
そんな風に自分自身の中でだけ鬱屈した気持ちを抱えるうち、私はある秘密を抱えてしまった。
誰にも知られたくない秘密だ。
私はもう、使われないのも、使われるのも苦痛になってしまった。
**
パフェがやってきた日から、一週間ほどたった、朝。
いつものことながら、マンションの中のメンバーは随分と顔ぶれが変わった。
あの日はやっぱり鍋であった。
人参をはじめ、残っていた卵ひとつも〆の雑炊用に出て行ったから、彼らの取り残され具合を眺めていた古株組としては、嬉しい気持ちもあった。
勿論、当然ながらビールも、パフェも、その日のうちに出て行った。ご主人が眠りにつく一時間前、きっちり美味しく頂かれたようである。素直に良かったと思った。
パフェの心配は杞憂に終わったことになるけれど、それでも住民全員が彼女と過ごした数時間を快く覚えていた。一方で、ビールなどは一言も発さず、当然という顔をして出て行った。だからそういうところが、ダメなのである。
そして昨夜、新顔としてベーコンがやってきた。
これは! と言う顔をしたのは、私よりも先に、ウスターソースの方だった。マンションの中に入ってきたのは、ベーコンだけであったが、その日、ご主人がパンとパスタを買っており、冷蔵庫の上に置いたのを見た。
これはようやく、ご主人に洋食の気分が芽生えたことを意味していた。
扉が閉まって、気さくなベーコンから、いの一番に「よろしくお願いします!」とあいさつを貰った後、囁くようにウスターソースが声を掛けてきた。
「やりましたねバターさん。これはとうとう使い切られる日が来ましたよ!」
うんうんと、私は感慨深く、頷いているような雰囲気を出した。
後輩がここまで、自分事のように感動してくれているのだから、私も雰囲気を合わせないわけにはいかなかった。
しかし私は、内心一物の不安を抱えていた。
翌朝──といっても、午前11時ぐらいの、ほとんど昼前。
寝ぼけ眼、胸元の緩いシャツだけを着たご主人が、私とベーコンと卵二つくらいを、合せて持ちだしていった。
それが、長きを共にした冷蔵庫の住人達との、別れの瞬間だった。
やっぱり、言葉は発せなかった。
それでも、ウスターソースは感動の雰囲気を浮かべてくれたし、あのマヨネーズも、一礼するような、真面目な雰囲気を見せてくれた。
嬉しくもあり、切なくもあった。結局私は秘密を打ち明けることのないまま、彼らと別れることになった。
それでも、最年長だったものとしての意地だ、晴れ晴れとした雰囲気を、気張って、浮かべてみせた。
さらば、さらば。
キッチンに出て、コンロの隣に置かれる。私は緊張してきた。卵とベーコンは、少し離れたところに置かれたようだった。それは私にとって幸いだった。
二口コンロの片方には、寸胴鍋。どうやら、すでにパスタが茹でられているようだった。
なるほど、カルボナーラか。
コンロにフライパンが置かれ、いよいよ、私の出番がやってくる。
さあ……腹は括った。
なるようになれ。
私の蓋が開けられた。
「あ、カビ」
私は、ご主人の声がこの体に突き刺さる。
あと合計20グラムもないような体。その端っこの一部に、私は不覚にも、カビを生やしてしまっていた。
鬱屈とした感情を抱き続けていた私にも、一縷の責任があったかもしれない。しかし、カビが生えたことを感じ取ったのはここ二週間前くらいのことだった。
それまでにご主人に洋食気分が来てくれていればと、運命を恨まずにはいられなかった。
ご主人の動きが止まる。
さあ、食品として最大の恥は晒した。後はなるようになるがいい。例え捨てられようとも、一番の仲であったウスターソースの前でバレていないだけ、きっと幸運なのだ。
私は目を瞑るような気分になった。ご主人の手が再び動き出すのを感じた。
その指の先が、ケースの中の私に直に触れた。
私は時が止まったように感じた。
軽く持ち上げられる。
私は絶望と一緒に、覚悟を決めた。
──しかし。
「まぁ、やきゃあいいか」
気だるげそうに呟いたご主人は、爪の先で私のかびた部分を含めた欠片をほじりとり、捨てた。
残った私を、フライパンの上に置いた。
私は、幾分かの私の意識が切り取られるのを感じながら、茫然としていた。
状況を冷静に把握する前に、ピッ、という音がする。コンロの火がつけられたのだ。
私は熱を感じた。体の底から、湧き上がるような熱を。
そして、私の末端が、液化しはじめた。私の表面が、溶け、体の縁に滴っていく。私の周囲で、私が泡立ち始める。
まるで滂沱の涙を流しているかのような気分になった。
焦げるような熱と一緒に、私は生涯に感謝した。
ありがとう、ありがとう。
形がどうあれ、使い切ってもらえるなら、本望です。
そうして、私はただこの熱すぎる鉄板の上に、全身を投げだすように、薄く広がっていくのだった……。
「あ、やべ。牛乳あったっけ」
──あれ。
そういって、強火のまま、冷蔵庫に戻っていくご主人。
……あれ。
不安になってきた。