初恋の墓標
これが恋だったと知ったのは、その人を失った瞬間だった。
近衛騎士であった父に連れられ皇帝の住まう城に連れて行かれたのは、5歳になる少し前。
招き入れられたのは真っ白な宮殿だった。よく手入れされ色とりどりの花を咲かせている庭園に囲まれいるそこは、この世のものとは思えないほど美しく世界の中心のように思えた。
きっとここが皇帝の住まう場所なのだと高揚した気分でカイゼルはその白亜の宮殿に見惚れた。
そこで引き合わされたのは、まるで絵画から現れたような美しい女性だった。ミルク色の肌に輝く髪と目の色は父や母、周りにいる人々とはまるで違う。
そして、その人の腕に抱かれた自分より少し小柄な男の子にも目を奪われた。こちらを不安そうに見つめる赤い瞳にはうっすらと涙が滲んでおり、胸の奥がギュッと苦しくなるほど愛らしい。
髪や目の色は違っても二人の顔立ちはどことなく似ていたから、母子であることはすぐにわかった。
宮殿に住まう天使のような母子はその日からカイゼルの全てになった。
父に連れられ毎日のように白亜の宮殿を訪れ、男の子と過ごすようになったカイゼルは彼と無二の親友になった。父にはこの子を守るようにと何度も言われた。カイゼルはそんな当たり前のことを言われなくてもわかっていると父に胸を張った。
男の子が怪我をしないように泣かないように健やかであるように。
何より、あの人の美しい顔が悲しみに沈まないように。
それはカイゼルにとって何より大切な使命。
ある日、宮殿の中にある庭園でカイゼルと少年は追いかけっこをしていた。
男の子が少しでも楽しめるようにと、腰高の樹木がまるで迷路のように複雑に植え込まれた庭園は格好の遊び場だったのだ。
カイゼルが本気を出してしまえば、男の子はすぐに捕まえることができた。だが、手抜きをして適当に追いかければ男の子は「ずるい」といってバラ色の頬を膨らまし涙を浮かべるだろう。しかし手を抜きすぎれば逆に「ばかにするな」と怒り出すに決まっていた。
だからカイゼルはほんの少しだけ手を抜いて、本気で取り掛かるよりちょっぴり時間をかけて男の子を捕まえ、すぐに逃がす。
そんな遊びを繰り返して気が付いた時に二人ども泥だらけだった。怒られるかもとこわごわ宮殿に戻れば、美しい人は少しだけ眉をひそめたが怒ることはなかった。
それどころかミルクのように白い手で男の子とカイゼルの頭撫でてくれ、顔の汚れをぬぐってくれた。
その柔らく温かい感触にカイゼルは胸の奥がほわほわとくすぐったくなって、落ち着かない。もっと撫でてほしいのに逃げだしたくなる。
「カイゼル、いつもありがとうね」
「い、いいえ!」
「本当にこの子はやんちゃで……あなたが一緒に遊んでくれて助かるわ」
「ぼく……俺も、ここで遊ぶのが好きです」
「そう」
嬉しそうな笑顔に胸の奥がギュッとなる。
「母上ずるい! カイゼルは僕のともだちだ!」
男の子が頬を膨らましてカイゼルにしがみついてきた。その小さな温もりもまた、カイゼルにとってかけがえのないもので。
二人の傍にいたい。ずっとこの笑顔を見ていた。
月日が流れ、カイゼルは少しだけ成長した。
そして物事の道理というものを理解できるようになった。
宮殿だと思っていたこの場所はただの離宮であることにもようやく気が付いた。
美しい人は様々な事情から祖国を失い離宮にとらわれているお姫様だということも知った。
男の子はずいぶん成長したが、やはりカイゼルより小さいままだった。
美しい人にそっくりだった顔立ちは、日に日に少し違う誰かの面影を強くしているように感じられた。
まだあどけない顔立ちの中でらんらんと光る赤い瞳が、この国で何より尊い血統を示す証拠であることだってもう知っている。
カイゼルはそのことを少しだけ切なく思う日もあったが、男の子が自分にとっての唯一無二の友人であるこという事実には何の影響もしなかった。
男の子には二人の兄がいた。
どちらも別の場所に住んでいるため、めったに男の子に会うことはない。
まれに訪ねてくることもあったが、彼らは優しく男の子に接してくれる落ち着いた存在で、そんな二人に素直に懐いている男の子の笑顔がカイゼルはとても好きだった。
「俺はいつか兄上たちのために働く人間になるんだ」
男の子はいつもそう語っていた。
それが自分の使命で誇りだと言わんばかりの横顔に、カイゼルは幼いながらも男の子の持つ輝きに心を奪われる。
「では、私はずっと傍にいてそれを支えます」
それは約束でもなんでもなく確信だった。たとえ男の子が今の立場を失っても、姿かたちを変えたとしてもカイゼルはきっとこの子の傍を離れない。
あの美しい人とこの少年をずっと守り支えるのだ、と。
そう誓ったはずなのに。
「母上!!!」
泣き叫ぶ少年の声が自分の悲鳴でないのが不思議でならなかった。
細い体はぐったりと力なく少年の腕に沈んで動く様子はない。
真っ白なドレスは彼女が吐き出した血で赤く染まってしまっている。
「誰か! 誰か助けてくれ!」
少年の呼びかけにカイゼルはようやく体を動かすことができた。
周囲を見渡せば、お茶会の最中だというのに誰もが冷たい視線で彼女と少年を見つめている。誰も動かず、ただじっと傍観している。
その異常さにカイゼルが感じたのは恐怖よりも怒りだった。
年端のいかぬ少年と、求められ少年を産むしかなかった彼女に何の罪があったというのだろうか。
カイゼルは踵を返し、この場所に入室を許されず扉の前で控えている父を呼びに向かった。
幼い自分には何の力もないことが歯がゆくてたまらなかった。
扉に向かうカイゼルを止めようとする者もいたが、カイゼルは足を止めなかった。大人に殴り飛ばされてもそれを跳ねのけ扉を開け叫んだ。
「父上! 姫様が!!!」
顔色を変えた父が兵士たちの制止を振り切り入室した時、彼女の体と少年の体は引き離されようとしていた。
見たこともない服を着た恐ろしい顔をした男たちが少年をどこかに連れて行こうとしているのがわかった。支えを亡くした彼女の体が床に沈む。不格好に倒れた体からはひどく嫌な音がした。
「やめろぉぉ!!」
カイゼルは床を蹴り、少年を捕らえていた男たちに殴りかかった。
だが所詮は子供。大人の男には敵わない。だが、時間を稼ぐことはできた。カイゼルが作り出したわずかな時間の間に、父が己の部下を指揮し少年と彼女を回収したのだ。
文字通り、異様な空気に包まれた場所から逃げ出し、カイゼルたちは白い離宮に戻ってくることができた。
「母上……母上……」
清められ自室のベッドに横たわる彼女の横で泣きじゃくる少年の姿に、カイゼルも一緒になって泣きたくてたまらなかった。
彼女がもう二度と笑うことも自分を撫でてくれることもないことを、苦しいほどに理解してしまっていたから。
「どうしてだ……どうしてなんだ……! 俺は、俺は皇位など望んでいないのに!!」
悲痛な少年の声が胸を刺す。
「兄上たちが亡くなったからと言って、どうして俺が皇位を狙うと思うんだ? 俺は、ここで母上と……カイゼルたちと静かに暮らしていければそれでよかったのに……」
赤い瞳から涙を流す少年の顔に滲むのは怒りと憤りだ。
「どうして……どうしてなんだ!!」
カイゼルも同じ気持ちだった。
ほんの数か月前までは平和だと信じていたこの白い離宮でさえ、もうカイゼルたちを守ってはくれない。
メイドが減り、兵士が増え、笑顔が消えた。
ほんの少しの油断が命取りになるからと、カイゼルもこの離宮で寝泊まりしていた。
なのに。
「あいつが……あいつが母上を!!」
絞り出される言葉に滲む怨嗟に、カイゼルは咄嗟に少年の口を覆っていた。
「いけません殿下。姫様が聞いています」
「……!」
少年の気持ちは痛いほどわかる。カイゼルだって許されるならば、この蛮行の犯人を八つ裂きにしてやりたい。地獄の果てまで追い詰めて生きていることを後悔させてやりたかった。
だが、そんな思いを抱いていることを彼女に聞かせたくはなかった。
これ以上、この美しい人を汚したくなかった。
少年にも染まってほしくなかった。
そんな思いが通じたのだろう。
カイゼルを見上げる少年の瞳には新たな涙が浮かび上がる。
宝石のように美しい涙が溢れ、カイゼルの手を濡らした。
「カイゼル……!」
幼いころと同じようにしがみついてくる身体を抱きしめ、カイゼルは少年と共に嘆き涙で頬を濡らすことしかできなかった。
眠ってしまった少年を自室に届けた後、カイゼルは再び彼女の眠る部屋に足を向けていた。
許されないことだとは理解していたが、どうしても一人でその死を悼みたかったのだ。
だが、部屋の中には先客がいた。
見上げるほどの長身にたくましい背中。少年と同じ色の髪をした、精悍な顔立ちの男性が彼女の傍にじっと座っていた。
眠るように横たわる美しい彼女を見つめる赤い瞳からは、少年と同じ美しい涙がとめどなくなく溢れていた。
カイゼルは部屋の入り口から動くことができず、二人をただじっと見つめていた。
そのうちに男性はおもむろに彼女の体を抱き上げた。
まるで宝物を扱うようにいとおしそうに腕の中に抱き込み、青白い頬や額に何度も口づけを落とす。
「愛している」
切なさにまみれた愛の言葉に、カイゼルの胸が引き裂かれそうな痛みを訴える。
男性はそのまま彼女の体をどこかに運んで行ってしまった。
入口の他に、隠し扉と奥への通路が彼女の部屋にはあったのだ。
消えていくその背中を見送るのは父だった。
深く頭を下げる父の表情もまた、痛みをこらえるように歪んでいた。
カイゼルは悟った。
二度と彼女の顔を見ることは叶わないのだろうと。
名を呼ぶことも許されない。
ああ、これは恋だったのだとカイゼルは己の心をようやく思い知ることができた。
敗者となり、現実に打ちのめされたカイゼルは再び少年の部屋に戻ってきた。
目元を腫らし、幼子のように体を丸めるその寝顔だけは彼女の面影しかない。
「殿下のことは私が必ずお守りしますから」
これから先、何があろうとも守るから。
どんな地獄を転がる日が来ても離れはしない。
愛する人と出会い健やかに生きてほしい。
そのためならばどんなことだってすると、カイゼルは己と初恋に誓った。
「かいぜる、だっこして」
小さな手がカイゼルのズボンを引っ張る。
ミルクのように白く小さな手はほんの少しの力を込めただけでも壊れてしまいそうだ。
「また逃げ出してきたのですか?」
「だってべんきょうきらい」
「お母上たちのところへは?」
「おとうさまもおかあさまも、いそがしいからあそんでくれないのよ」
舌足らずな言葉使いは、幼いころの彼によく似ている。
カイゼルは目元の皺を深くしながら、その小さな体を抱き上げた。
腕の中にすっぽりと収まるぽってりとした重みに、自然と口元がほころんでしまうがわかる。
カイゼルの新しい主はこの小さな天使だった。
その瞳はどうしたことか父親とも母親とも違う色。
切ないほどに懐かしい色に、父となった彼が滂沱したことをカイゼルは知っている。
父母の色を受け継がなかったことが、どれほどの幸運でありキセキであることかをこの子が知るのはずっと先だろう。
「かいぜる、ずっとだっこしてて」
「ええ。あなたが望むかぎりずっと」
まるで失った恋を取り戻したかのように、カイゼルは幸せな香りのする小さな体を強く抱きしめた。