橋の上
今夜の満月はずっと雲に隠れているつもりらしかった。男は雲の薄い部分から微かに漏れ出すおとなしい光に目をやりながら暗い道を歩いていた。
「ここにくるの久しぶりだなぁ」
俺はそう呟きながら辺りを見渡す。
水の流れる音、風で木が揺れている。目の前には大きな橋。
橋の中央まで行って下を覗いてみる。この橋の下には幾つもの渦潮があり、この南海橋の見どころの一つである。
そしてこの場所では毎年数人が亡くなっている。ここはいわゆる自殺の名所だ。
どうしてこんなことになっちまったんだろうな。
手すりの上に乗りながら考える。
「よいしょ、っと」
ようやく手すりに立った俺は予想以上の高さに恐怖を感じつつも覚悟を決めて足を踏み出そうとしたその時。
「こんばんは」
「うわぁ!!?」
突然の声に驚いて変な声が出る、と同時に足が手すりから離れてしまった。体勢を立て直そうとして手をバタバタとするも、両足が手すりに戻ることはなく、そのまま体は何もない空間へ向かう。
落ちる!!
俺はぎゅっと目を瞑った。
「おっと」
謎の声がもう一度聞こえたと同時に俺の体は空気の圧に押されるような感じがして水平方向に移動していた。
何が起きたのかわからないまま手すりの内側に尻もちをつく。
「イタタタタ」
尻をさすりながら声のした方を見るとそこには
美少女がいた。
「 ………天使だ」
俺は反射的につぶやいた。
すると美少女は表情を変えずにこう言った
「私は天使ではない。神だ。」
いつの間にか出てきていた満月に照らされながら彼女は言った。
さっきまで暗く不気味だった夜の海が月あかりで神秘的に輝いていた。
「…か、み?」
驚いて思考がろくにできない俺を見て次の言葉を期待できそうにないと感じたのか仏頂面の少女が先に口を開いた。
「お前に頼みがある」
冷ややかとも取れる淡々とした感じで発せられる声はさながらAIのスピーカーのようだ。
「か、神様が俺に何を頼みたいんですか?」
ようやく動いてきた口に安堵しつつ、冷静な思考をできるように心を落ち着かせる。
「私はこの世の魂の管理を行う神だ。お前は先ほど自ら命を断とうとしていただろう?その知らせを受けてこうしてやってきたのだ。」
「……えーとつまり…自殺するのは正当な死に方じゃないから魂の管理に支障が出てしまう…とかで俺を止めにきたってことですか?」
少女は軽く鼻で笑った。
「ふん。そんなことでわざわざ来るわけないだろう。自殺で死ぬ者など毎年何人でもおるわ」
そんなこと言っちゃっていいんだ。
「時間がないから手短に話す。この世界とは違う、異世界で危機が迫っているのだ。お前にはそちらの世界に転生して危機から人々を救ってほしい。」
え?異世界?
自分の部屋にあるいくつものライトノベル小説が頭に浮かぶ。神様の登場に加えて転生だなんて。 これは夢なのか、いや、さっき痛みがあったから夢ではないか。危機?俺が救えるのか?どうやって救えというのか? などといろいろと考えていると少女は痺れを切らしたようだった。どうやら本当に時間がないらしい。
「私が人間の世界にいられるのには時間に限りがある。だから今すぐ決めてくれ。異世界に行き人々を救ってくれるか。ここから飛び降りれば私が異世界に転生させてやる」
「…ちなみに、それ断ったらどうなるんですか?」
少女は今までの仏頂面から呆れたような顔になった。
「このままさっきの自殺の続きをするか、帰るかだな。自殺しないのであれば当然私と会った記憶は消す。」
そこからは何を考えていたかあまり覚えていない。橋の手すりによじ登って立つ。手すりから体が離れた瞬間、若干の後悔。しかし今度は戻される感覚も無く、俺はそのまま飛び降りたのだった。
橋の上から渦潮を見ながら神はつぶやく。
「まだ返事を聞いていなかったのに。飛び降りたということは承諾したということでいいのだろうか…
…にしてもあの人間、ほとんど説明もなしに飛び降りるなんて馬鹿なのか?」
男の思いもよらない行動に自分の人選ミスを心配する神なのであった。
ここから始まるのは異世界に転生した人間が世界を救う物語。異世界についての予備知識なしで転生した男の未来はまだ神でさえ知らない。