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石と誰かの物語

サファイヤのつぶやき

作者: 河 美子

石と誰かの物語です。

 まだ荷物を整理する気になれない。

 妻が消えたあの日から二か月。

 私の定年を祝った二日後のことだった。


 「あなた、折角定年になったのだから旅行でもしましょうよ」

「そうだな、北海道でも行くか」

「ハワイにしたいわ」

「パスポートもないが」

「いいじゃないの。年金生活になる前に一度だけ行きましょうよ」

「わかった。ちょっと旅行のチラシでも見てみるか」

「今はネットよ。任せて」

 妻は共稼ぎだったが、私より二歳下だから二年前に退職していた。これといって得意なことがある妻ではなかったが家の中が明るいことには感謝していた。話好きで飲むことが好きで、友だちも多く、私よりずっと社交的だった。会社で嫌なことがあっても家に帰ると忘れるほどだった。

 二人の子どもにも恵まれ、今は県外で所帯も持ち孫も生まれた。

 大金はないが、そこそこ恵まれた生活だったと今になって思う。

 そんなハワイ旅行を計画していた頃、二階のパソコンルームで大きな音がした。私は別に気にしなかった。いつもつまずいたり、物を落としたり、にぎやかな妻だったから。

 ピンポーン。

 また、宅配でも来たのか。玄関のチャイムが鳴る。私が受け取る前に見られては困るのか、いつも駆け足で玄関にやって来る妻が来ない。仕方なしに代わりに受け取る。やたらと重い。宅配業者も苦笑いするほどだ。

「おーい、母さん。ダンベルでも買ったのか、すごい重さだぞ」

 返事がない。

 部屋を閉め切っているのか。階段を上がる。

 そこに飛び込んできたのは妻の足。転んだのか。声を掛けるが妻は眠っているかのようで倒れている。どうやって救急車を呼んだのか覚えていない。息子たちにケータイで知らせたのも覚えていない。パソコンの画面は熟年ワイ旅行。

 心停止になっている妻の体に救命士が覆いかぶさるかのようにマッサージをし、さらに電気ショックを与えるが、妻の体はぐったりとして反応がない。

「起きろよ、しっかりしろ」

 叫ぶ私の声はやがて泣き声に代わった。

 息子たちが駆け付けた時には、白い布が顔にかけてある。長男は妻の体を揺さぶり、二男は入り口から足がすくんで入れなくなっていた。孫を抱いた嫁たちは泣き、口々に「母さん」と呼びかける。

 定年を祝ったパーティーを家族でしたばかりだったから、誰も信じられなかった。この私でさえも。

 突然の心筋梗塞。具合が悪いなんて話は聞いたこともなかったのに。加奈、ひどいよ。仕事もなくなっている今、どうやって暮らしていこう。

 息子たちは一人になった私を心配して家に来いよと言ってくれたが、息子たちにもそれぞれ生活があるのだからここで甘えるわけにもいかない。しかも私はまだ六十五歳、老いるってほどではないよ。家族葬とはいっても、妻も働いていたからたくさんの弔問客が訪れた。みんなの泣く姿に、彼女が愛されていたことに感謝した。私が死んでもこれほど悲しんでくれる人はそういないと思う。

「片付けはゆっくりするから、お前たちは帰りなさい。仕事もあるし」

 息子たちには母の形見は夏休みにでも来てから探しなさいと話した。

 

 単身赴任もしたことがある私は、食事の支度もそう苦ではない。家事もそこそこできる。だが、広い家でもないのに、妻がいないとこんなにも広いのかと感じるほど空間ばかりで空しい。妻がぶら下げたままの上着。化粧台には使った口紅、コンパクトがある。小引き出しには通帳や保険証書。そんな中に小さな箱があった。開けると、懐かしい婚約指輪。金がなくって指輪も虫眼鏡がいるほど小さなサファイヤ。それでも妻は喜んでいた。銀婚式に改めてもう少し大きい指輪を買ったが、彼女はこの婚約指輪を気に入っているとよくはめていた。

 そんなことをふと思い出したら涙がこぼれて、いつの間にか声をあげて泣いてしまった。澄ました顔の遺影ではなく、彼女の写真がケータイにいっぱい残っていた。孫を抱く姿、ふざけて私に抱きついたり、息子たちにはさまれて喜んでいる顔。

「加奈、戻ってこいよ」

 涙は枯れることがないのか、私はしつこく泣いた。息子たちに見られることもないと思えばいつまでも泣けた。嫁さんたちにも知られない。

 言葉にしないで何十年。

「愛しているよ」

 本当に愛していたんだ。君無しでは生きていけない。ふざけて言うだけだった『愛してる』の言葉。名前を呼ばずになってもう三十年以上。母さんじゃないわと言った日もあったが、君も私を父さんと呼んでいたよ。

「山下加奈さん、もう一度生まれ変わったら、一緒になってくれよ」

 遺影がふと笑った気がした。


 それにしてもあのダンボールの箱、開けて見た。

 やっぱりダンベル。

 私にもと手首や足首につける一キロの重り。二人で八キロ。重いはずだ。検診も必ず受けていた君にこんな早い死は似合わないよ。

 窓を開けると、君が植えたパンジーが咲いている。

「くそ、また涙が出てきた」

 指輪をダンベルの上に置くと、お供え物のまんじゅうを頬張った。


「お前の好きな栗饅頭だぞ、一人で食べちゃうぞ」



 「お父さん、残しておいて、私の栗饅頭」


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