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それではお楽しみ下さい。
彪太郎の部屋の丸い格子窓にそよ風が吹き抜けた。地球柄の風鈴が涼やかな音を鳴らしながら揺れている。その風流な工芸品に描かれた朱色の日本列島が一際目を引いていた。
『今から数十年前、日本に飛脚の黒彪と呼ばれる一人のマラソンランナーがいた』
彪太郎は『超人アスリート列伝』を読みながら木造の階段をギシギシと音を立てて登っていく。書籍が少年の顔を覆っていて、黒いツンツン頭は見えるがその表情は窺えない。半袖短パン姿の至る所には泥が跳ねたような汚れが目立っていた。
「なになに・・・・・・古くより伝わる武術を用いた独特の走りで幾多の勝利を収め、日本のマラソン界に明るい希望をもたらした最速の男、飛脚の黒彪」
彪太郎は自室の前に着くと紫陽花が描かれた襖を片手間に開いた。風鈴がまた涼やかな音で鳴る。そのまま六畳間の畳を踏み締めながら学習机に向かった。
学習机の棚には黒装束の忍者や鎧兜の侍、三度笠の修行僧のフィギュアが飾られている。そして机の上には『ひまり小学校・持久走大会』のプリント用紙が無造作に広げられていた。
「しかし、彼は・・・・・・連勝中にも関わらずある日忽然と姿を消し去り、その行方は謎のまま。飛脚の黒彪の名は、伝説となっていった」
学習机で超人アスリート列伝を読む彪太郎は、次に開いたページに目が止まる。そこには気高き野生の黒彪を背景に黄色いスカーフを腕に巻いた好青年ランナーの写真が掲載されていた。
「へぇ・・・・・・黒彪って、動物なんだ。僕の名前と同じ漢字だ」
彪太郎はフタエでパッチリした瞳を輝かせながら、泥で汚れた口元をニヤリと上げた。
すると一階のリビングから割烹着姿のママが出てきて、
「彪太郎~、外から帰ったら、ちゃんと・・・・・・まっ!」
玄関に泥だらけの運動靴が脱ぎ散らかされているのを見て驚いた。それからドタバタと慌ただしい足音を立てて、子供部屋の襖を勢いよく開ける。
「彪太郎!」
「あ、母ちゃん! ねぇ、ねぇ、飛脚って、何? サムライ!?」
本を熱心に読んでいた彪太郎がママの声に振り向いて訊ねる。
「ヒキャク? あ! もう・・・・・・こんなに汚してぇ。どこ行ってたのよ!?」
「ヘヘヘヘ・・・・・・それはヒミツ。それよりさ!」
「秘密じゃ、ありません!」
ママが息子の頬を両手でむんぎゅッと摘まむ。
「あたたた…・・・か、かぁちゃん!」
「早くお風呂場に行きなさい。飛脚の事は、パパが詳しく教えてくれるわよ」
「あ、あーい・・・・・・」
ひまり小学校の校舎裏にある小高い山には、緑が茂る林道があった。その林の間を小さな黒い影が駆け抜けていた。それは樹木の枝へ高々と飛び上がり、木々の間に差し込む夕暮れに照らされる。まるで黒猫のようなシルエットだ。
「ええ? 飛脚?」
「そう。飛脚って、脚に羽根が生えるの?」
郵便屋さんの制服を着た小太りのパパ、牛夫がキレイさっぱり寝間着姿になった彪太郎に質問されていた。今は夕食時、家族三人で食卓を囲んでいる。今夜はカレーのようだ。
彪太郎は飛脚の漢字と脚に羽が生えたメルヘンチックな黒彪を頭上にイメージした。そんな息子の想像力に、牛夫は笑って答える。
「ハハハハ・・・・・・そうじゃないよ。飛脚は、昔の郵便屋さんの事。つまり、パパの先輩さ」
「ええ!? 飛脚は郵便屋さんなの!?」
想像とは違ったパパの回答に、彪太郎は口をあんぐりとして驚いた。
すると牛夫は彪太郎と共有するように想像しながら、日本地図を広げて地図上に三度笠の飛脚を登場させた。飛脚が関西と関東の間の往復線に沿って走っている。
「昔の郵便屋さんはね、関西と関東の間、東海道五十三次を走って手紙や貨物を届けたのさ」
「そんな遠くまで、走って!?」
飛脚の身体能力の高さに驚く彪太郎。牛夫は自分がイメージしている飛脚のキャラクターの動きに合わせて、元気いっぱいと言わんばかりに両腕で力こぶを作る。
「そうさ。もの凄く足腰が強くて、片道でも約500㎞ある東海道五十三次を一ヶ月に三度も往復する飛脚もいたんだ」
「わぁ・・・・・・凄いね! 父ちゃんの先輩。カッコイイ!」
牛夫の想像するのと同じものが彪太郎にも伝わったのか、少年の瞳がキラキラと輝く。
「もちろんだとも! 歩美さん、このカレー、凄くオウシイよ」
「まぁ、やだ。牛夫さんったらぁ・・・・・・」
息子の疑問に答えた牛夫は、愛妻へ夫としても気遣いを忘れない。低いダンディーな声で洒落て歩美の料理を誉めた。牛夫と歩美は、いまだに新婚かと疑われる程、夫婦仲が良好なのだ。
一家団欒の後、夜もすっかり更けていた。自室に戻った彪太郎は布団に包まり、
「よし、僕も飛脚みたいに頑張るぞぉ」
と、呟きながらそっと瞳を閉じた。