前編
「お前は今日から社史編纂室に移ってもらう」
28歳の若手社員・若井啓介は課長からこう言い渡された。
あくびをしつつ、寝癖の混じった髪をいじりながら、まるで他人事のように聞き返す。
「社史編纂室ってなんすか?」
およそ上司に対する口の利き方ではない。
「社史を編纂する部署……いわば閑職だよ」
「カンショク? なんすかそれ」
「お前のような役立たずがやる仕事ってことだ!」
株式会社オケイコ。
よく消える消しゴム「ケッシャー」や、グリップが指になじむ「ナジームペン」等を主力商品とし、中堅ながら業界でも確固たる地位を築いている文具メーカーである。
啓介は新卒でこの会社に入社でき、営業部に配属になったのだが、意欲ない・態度悪い・反省しない、の3点セットが揃っており、このたび社史編纂室送りとなった。
さっそく荷物をまとめ、3階奥にある社史編纂室へと向かう。
電気が通ってないわけでもないのに、社史編纂室の周辺は妙に薄暗かった。
啓介がドアを開けると、先客がいた。狭い部屋の中に二つあるデスクのうち、一つに座っている。
「うわっ!?」
いたのは、啓介よりだいぶ年上の男だった。やや肥えているが、髪は薄く、どことなく存在感も薄い。
「やぁ、君もここ送りになったのかい」
「ええ、まあ」
「まだ若いのに……気の毒なことだよ」
「そうすかねえ」
啓介は色々と話を聞いてみた。
この中年男の名前は尾山次郎、50歳。
啓介と同じく新卒でオケイコに入社し、商品企画部に所属していたが、主任にすら遠く届かず未だに平社員。啓介と違い意欲はあるのだが、いわゆる無能な働き者タイプだった。ピントのずれた商品を企画しては、周囲から呆れられ続けていた。
そして、このたび社史編纂室に異動になってしまった。
「……で、ここってなんなんすか?」
「ここはねえ……」
社史編纂室――
文字通り、社史を編纂するための部署だが、現在ではその機能は果たしていない。
今の用途はいわば、使えない社員を隔離しておくための部署。出勤と退勤以外すべきことはなく、ここに配属された社員は一日をここでぼけーっと過ごすことになる。
ちなみに、ここに誰かが送られるのはかなり久しぶりのことらしい。
これを聞いた啓介は……
「ヒャッホウ!」
喜んだ。
「な、なんで喜ぶんだい……?」
「だって働かずに金貰えるんでしょ? こんなサイコーな部署、他にないじゃないっすか!」
「えええ……」
「いやー、こういう部署ってマジであるんすねえ。てっきり都市伝説みたいなもんだと思ってましたよ。それにしても、ウチの会社もなかなか余裕あるっすよね。こんな部署用意できるなんて。リストラされるよか全然いいじゃないっすかぁ!」
「だけど給料は安いよ? 出世もできないし……」
「元々出世なんかしたくねえし、給料なんざ食えるだけもらえりゃそれでいいっす!」
笑う啓介と落ち込む次郎。二人は対照的であった。
***
社史編纂室所属になった二人だが、あまり自由に出歩くことは許されない。
一応「社史編纂」という業務を命じられた立場なので、好き勝手に行動すれば、職務怠慢でペナルティを与える口実ができてしまう。それが会社の狙いでもある。
28歳と50歳に共通の話題などなく、二人はそれぞれ別のことをしていた。
スマホ片手にゲームに興じる啓介。
社史編纂室内にある資料を黙々と読む次郎。
「尾山さん、ずっと資料読んでますね。面白いっすか?」
「ハハ……まあね」
「俺と一緒にソシャゲでもやりません?」
「私はそういうの疎くてね……」
「まあ、無理に誘わないすけど」
一日がこんな感じで終わる。
啓介は満足気だったが、次郎のテンションは日を追うごとに落ちていった。
***
2週間ほど経ったある日、啓介は相変わらずスマホに夢中。次郎はというと、紙を用意してペンを走らせていた。
次郎のやることに興味はないが、なんとなく聞いてしまう。
「なにやってんすか?」
「退職届を書いてるんだ」
「……は?」
さすがの啓介も驚いた。
「なんで……!?」
「一日ここで何もせず過ごし、捨扶持をもらう……こんな生活いたたまれないよ」
啓介には全く理解できない感情だった。一日何もせず過ごし金を貰える生活なんて最高じゃないか。こんな天国からみすみす離れようとするなんて。
「だからって辞めてどうすんです? あんた50歳でしょ? 再就職なんて無理ゲーでしょ。バイトだってあるかどうか……」
「いいんだ、それでも。ここで誰からも必要されない生活をしてるよりマシさ」
「はぁ」
次郎は着々とペンを進めていく。やがて書き上がったようで、かつての上司のところにでも持っていこうとする。
啓介としては放っておいてもよかった。むしろ、次郎が退職すれば社のお荷物が減るわけだから、自分はもっと社史編纂室にいられる……そんな考えすらよぎった。
だが――
「このままでいいんすか?」
「え?」
声をかけてしまった。次郎も意外だったようで、かなり驚いていた。
「このまま辞めたら……尾山さん、会社の思う壺じゃないっすか」
「そうかもしれない。だけど……」
「それに尾山さん、あんたまだ……社史を編纂してないでしょ」
「……」
編纂とは「書物にしてまとめる」という意味である。
たしかに次郎は資料を読んだだけで、なにも編纂していない。
「そういえば……そうだったね」
「そうっすよ!」
「よし、やってみるか、社史編纂を!」
ひとまず退職を思いとどまった次郎。
啓介はなぜこんなおせっかいをしたのか、自分でも分からなかった。
***
それから1週間後、ノートパソコンに向かいおぼつかない手つきで社史を編纂していた次郎が、大声を上げた。
「できた!」
「おわっ!?」
「ああ、驚かせてごめん」
「ビックリさせないで下さいよ~」
社史の編纂がひとまず終わったようだ。
さっそくプリントアウトする。
「結構なボリュームっすね」
「ウチもそれなりに歴史が長いからね」
スマホいじりに戻ろうとする啓介に、次郎が紙の束を手渡す。
「じゃあこれ」
「へ?」
「読んでくれよ」
「え、なんで俺なんです!?」
「そりゃあ、君だって社史編纂室に所属してるんだ。少しは仕事しないと」
「うげえ……」
社史を編纂させたのは自分という負い目もあるし、仕方なく受け取る啓介。さっさと流し読みしちゃおう、と目を通し始める。
すると――
「へえ、文章読みやすいっすね。これでなんで無能扱いされたんです?」
「よく言われたものさ。『お前の企画書は読みやすいが、企画がクソ』ってね」
啓介は、読みやすい文体で次々とクソ企画を提出する次郎の姿をおぼろげながら想像した。文章も酷ければ指摘も出来るしネタにもなるが、なまじ文章が出来ているだけあって、そういう扱いもできない。
厄介者扱いされ、冷や飯を食わされるようになったのも分かる気がした。
熱意だけは本物なので、配置転換もされなかったのだろう。まあ、ついに社史編纂室送りにされたわけだが。
そんな雑談も交え、社史を読み進めていく啓介。言葉を漏らす。
「社史って結構面白いっすね!」
「だろう? 私も自分の会社のことなど、さすがに基本データは把握してるけど、こんなにまじまじと読んだのは初めてだったから驚きの連続だったよ」
「俺なんて基本データすら把握してねえっす。会社の売上高とか知らないっすもん」
「そりゃダメだろ……」
「まあまあ。しかし、初代社長ってマジでパネェっすね。裸一貫から会社興して、奥さんに支えられて……この奥さんホントすごいっすね。借金抱えた旦那も見捨てず、励まし続けて。普通離婚するっすよ」
「うん、まさに良妻だよね」
「会社名のオケイコって、奥さんの恵子からとってたんすね。文具メーカーだし、てっきり習い事の“お稽古”からだと……」
「30年近く勤めてる私も知らなかったよ」
「ラブラブっすねえ……」
「私も結婚してみたかったよ」
「今からでも婚活したらどうっすか?」
「無茶だよ、今から結婚だなんて。君っぽく言うなら無理ゲーだよ」
「いやいやイケるでしょ! こないだ70過ぎの普通の爺さんが結婚したなんてニュース見ましたし」
「本当かい?」
若手社員とおっさん社員、二人は次第に仲良くなっていくのだった。
……
社史をだいたい読み終えた啓介。
「いやー……面白かったっす」
「そうかね」
「ケッシャー誕生秘話なんて、これだけで番組1、2時間ぐらい作れちゃうぐらいドラマチックっすよ」
「だよね。最高の素材選びに何年もかけたって……。ケッシャーの材料はまさに企業秘密だしね」
「何年も、か……」
「ん、どうした?」
啓介はため息をついた。
「いや、なんか、自分と比べると初代の社長さんはやっぱすげえなって。俺なんか、ここに入社して何年も経つのにずっとくすぶって、社史編纂室送りになって……」
「……」
「尾山さんだって、何十年も頑張ってきたからこそ、ここに送られたのが悔しかったんでしょう。だけど俺にはそういうのすらない……」
ふと我に返って、啓介はばつが悪そうにする。次郎は言った。
「君もそうやってブルーになることがあるんだな」
「ハハハ、まあ……」
「もしかして、君が仕事に身が入らなかったのも何か理由があるんじゃないのかい?」
「……聞いてもらえますか」
啓介は語り始めた。
大学時代、彼は就職先として、出版社や広告会社を志望していた。何かクリエイティブな職につきたかったからである。だが、これらの業界はやはり人気が高く門は狭い。ことごとく落ちてしまう。
どうにかオケイコに入ることができ――オケイコもなかなか入れない企業ではあるのだが、啓介は滑り止め企業に入ったというメンタルを拭い去ることができなかった。
仕事にやる気は出ず、そんな自分にも嫌になり、と負のスパイラルに嵌まり……自他ともに認めるダメ社員になってしまった。
「マジでクビにされないだけマシっす。ホント俺、社会人として失格っすよね……」
「ああ、失格だね」
次郎はバッサリと言った。
「希望した会社に入れなかったから、仕事につけなかったから、やる気が出ません、出しません。これをみんながやったら、社会は成り立たないよ。君は社会人失格だ」
いつにない厳しい口調に、何も言えない啓介。
「だがね、失格ってのはそこで終わりってわけじゃない。君はまだ若いんだ、私なんかよりずっと。失格なら……合格ラインに届くよう頑張ればいいだけの話だ」
「尾山さん……」
「君はクリエイティブな仕事をしたいと言ったね。だったら、この社史でやってみないか?」
「……どういうことです?」
「私は社史をまとめたが、ただまとめただけだ。これ以上のことはできない。なんかこう、社史をもっと面白おかしく描写して、みんなも楽しく読めるようにしたらどうだろう」
「……」
かなり突拍子もない提案だったが、啓介の中に小さな火が灯った。かつて抱き、そして挫折した夢がよみがえってきた。
「やります……俺、やりますよ! 尾山さん!」
「うん……君ならできる、若井君!」
ビルの片隅にある小さな部屋で、二人のダメ社員のエンジンがかかった瞬間だった。
***
それから、啓介は精力的に活動を始めた。
「初代社長の生き様って……やっぱり物語の主人公っぽいんですよねえ」
「確かにね」
「というわけで、初代社長を主人公にした小説みたいなもんを書いてみたいと思うんですけどどうでしょう?」
「いわゆる伝記みたいなものかい?」
「いえ……いっそ名前とエピソードだけ拝借して、ぶっ飛んだ改造してみたいんですよね」
ぶっ飛んだ改造、というものがどういうものか次郎には想像もつかなかったが、意欲的な啓介を見るのは嬉しかった。別に止める理由もない。
「面白そうじゃないか、やってみよう!」
「はいっ!」
……
しばらく経って、次郎が啓介の様子をうかがう。
「どうだい、調子は?」
「だいぶ設定は出来上がってきまして……」
パソコンの画面を見てみる。
すると――
初代社長は文具の神から世界を救うよう啓示を受ける。
鉛筆や消しゴムで悪魔や怪物と戦いつつ、経営学を身につけていく。
ヒロインはもちろん恵子夫人。超美人で巨乳。出会った当初はツンデレ。
――予想以上のぶっ飛び具合であった。
「どうですかね!?」
「うん……いいんじゃないかな」
「よーし、頑張ります!」
啓介はノリにノッていた。エンターキーもターンと勢いよく押す。
次郎は次郎で資料とにらめっこしながら、こんなエピソードもある、あんなエピソードもあった、と補助をする。
啓介はそのエピソードを踏襲しつつ、初代社長の冒険譚を描いていく。
一体どんなものが出来上がるのか……次郎は不安もあったが、それ以上に楽しみで仕方なかった。
***
ある日、啓介は悩んでいた。
「うーん……」
「どうしたのかね?」
啓介の創作は順調で、初代社長はついにオケイコを起業するところまでたどり着いた。
だが――
「絵が欲しいんですよね。初代社長らがどんな外見なのかが分からないと、テンションが上がらないっていうか……」
「絵……」
「ほら、主人公やヒロインの絵があった方が、小説だって盛り上がるじゃないですか」
ない方が想像力を掻き立てられる場合もあろうが、啓介のようなマンガ的な創作であれば、あった方が盛り上がることもあるだろう。
「だったら私が描こうか?」
「は?」
思いがけない返事が来た。
「君の物語はだいたい読んだし、とりあえず紙とペンで描いてみるよ」
「描いてみるよって、まさか浮世絵でも描くんですか?」
啓介の遠慮のないブラックジョークも気にせず、次郎はペンを走らせる。
程なくして、二人のキャラクターのラフ画が出来上がった。
「どうかな」
「……!」
啓介は驚いた。そこには絵柄が多少古臭くはあったが、やたらイケメンな初代社長とやたら美女な恵子夫人の姿があった。
「うま……。尾山さん、絵メチャクチャうめえじゃないですか!」
「これでも美大を目指したことがあるからね。文具メーカーに入ったのも、その名残でもあるんだ」
次郎の意外な特技が明らかになる。
「尾山さん、絵が上手いことを誰かにアピったりしました?」
「まさか! 破れた夢だし、とても恥ずかしくて……」
「いやいやいやいやいや! こんなすげえ特技、アピんなくてどうするんですか! 商品の企画は無理でも、パッケージのイラストとかでイケたんじゃないですか?」
「ハハ……どうだろうね」
「だけどおかげでこうして尾山さんに会えたわけですからね。尾山さんの奥ゆかしさに感謝ですよ」
次郎のイラストが加わったことで、啓介の創作意欲はさらに高まった。
初代社長の冒険記に改造された「社史」は順調に仕上がっていく。