愚か者の追憶
かび臭い塀。
冬でもないのに四方からはひんやりとした空気が漂ってくる。
その中にいるものは、石でできた壁を伝う水の音となにかが腐敗した臭いしか感じることはできない。陽の光はわずかに届くだけで、今が昼か夜かしかわからず今が何時であるかは運ばれてくる粗末な食事でしかわからない。
その建物の中、鉄格子がはめられた部屋の中には一人の男がいた。
手入れをしなくなった茶色の髪はぼさぼさで、垢にまみれた、ぼろぼろの端切れのようになった服を着た男は繋がれた鎖をぼんやりと眺めている。彼はなんで自分がこんなところにいるのだろうかという問いかけを、心の中で繰り返してきたが、いまだにその答えは見つかっていない。
そんな愚かな考えをしている男の耳に、日が昇ってから二回目の看守の足音が聞こえてきた。しかし、その足音は彼の部屋の前では止まらず、過ぎていくだけだった。男は茶色の制服を着た看守が自分の前を通っていくときに、自分に対して敬礼をしないことを咎めようとしたが、またそんなことをすれば看守から暴行を受けるだろうと思って、思いとどまった。
そのかわり、ではないが、看守の着ている服の茶色と、自分を断罪したものの髪の色と同じだということにはじめて気づいた男。いつもならば自分がどうしてここにいるのかというところで思考を停止してしまうが、その日はその先の思考に進めることができた。
そうだ。
私をこんな場所にぶち込んだのはあの女だ。
あの女は地味だから、私や妹が憎かったのか?
あの女は自分が一番になれなかったから、妹を捕らえたのか?
あの女は祖母に気に入られたのに父には嫌われたから、私を捕らえたのか?
くそったれと言いながら、石の床に唾を吐く男。
第一、妹は金髪で美しいが、姉は茶髪で地味な女だった。
それに多少学はなかったが、可愛げはあって、愛嬌のある妹に対して、姉は大臣たちと渡り合える度胸はあるが、愛嬌はまったくなかった。
あとは……そうだな。
私がすることに対してなにも妹は文句を言わないが、姉はことごとく文句を言ってきた。
そんな女など、地味な姿の私にとって邪魔でしかなかった。
だから……だから?
それが彼女を廃した理由にならないことに気づいてしまった男。
決して美しさを武器にしない。
むやみに人前で微笑まない。
大臣たちと渡り合う弁舌を持ち合わせても、それを得意なものとして見せない。
愛嬌がなくても常日頃から努力し、さまざまな知識を取り入れていた。
最先端の派閥争いの話や国内外の情勢だけではなく、流行りのドレスやお菓子などの情報も常日頃から持ち合わせていた。
それにそんな彼女の気を惹こうとして高価なものをプレゼントしても毎回怒り、決して受け取らなかったのは、いずれはこうなることを予期していたからだろうか。
そんなことはないはず……だ。
男はほぼ正解に近いところまで答えを導いたはずなのに、それを否定する。
王太子という虚栄の身分がそうさせているのだろうか。
だが、実際にはこんな場所にいさせられている。
どこでどう間違ったのだろうか。
男は迫りくる“その時”まで片時もその答えを見つけだすことはできないだろう。