博士の人類総ブラック企業化
「だからコーヒーをくれと言っているんだ」
「駄目ですよ。子供は大きくなるために牛乳を飲むものです」
「わたしは牛乳は嫌いなんだ」
「この機会に好きになってください」
「いいから寄越せ!」
強硬手段に出た少年の手を軽くいなしながら、結城は笑う。
「だから駄目ですって」
そこへ10才ほどの少女が近づいてきた。
「楽しそうね」
「遥子さんからも言ってください。コーヒーは駄目だって」
「コーヒーくらい許してあげなさいな。この人、拗ねて成長促進装置の中に飛び込んじゃうわよ」
「それは困りますねえ」
言いながら、結城はコーヒーを少年に手渡した。
「はいどうぞ、博士」
「ああ。これだ。これが飲みたかったんだよ。すまないな、遥子」
「どういたしまして。結城さんにもお礼を言って?」
「こいつは俺からコーヒーを取り上げようとしたんだぞ?」
「あなたを思って、でしょう?」
くすくすと遥子は笑う。年齢に合わない、どこか落ち着いた色気のある笑い方だった。
「すまんな、結城。だがコーヒーだけは勘弁してくれ。酒も煙草も我慢するから」
「分かりました。でもほどほどにお願いしますね」
「ああほどほどな、ほどほど」
ご機嫌な様子でコーヒーを楽しむ少年を、結城は嬉しそうに笑顔で見つめる。
そして遥子に席を譲ると、コーヒーを頼みにカウンターへと向かった。
通りは閑散としていた。
秋になって気温が下がってきたから、ではない。
人は少なくない人数が人工冬眠装置に入る事を選んで生活を始めた。
全員ではないし、時折起きてきて肉体のある生活を楽しんでもいる。
特に子供のいる家庭は今まで通りの生活を送っていた。
だが病気の人間や、働き盛りで一緒に暮らす家族のいない人間は、ネットの中で気楽に過ごす日々を選ぶ。
そしてたまに目を覚まして肉体のある暮らしを楽しむのだ。
先程まで近くのテーブルでコーヒーを飲んでいた男は、年齢からするときっと家族がいるのだろう。
世界は変わった。
これで全ての人が幸せになったとはいえない。
実際、日本以外の国では未だに以前のままの生活が行われている。
それが悪いとは結城は思わない。
だがそれでは彼が欲しいものは手に入らなかった。
彼が欲しかった世界。
速水博士のいる世界。
そのために、彼は人々にもっと真剣に生きて欲しかった。
もっと働いて、もっと遊んで、もっと貪欲になって、もっと作り出して欲しかった。
そしてそれは今、彼の目の前に存在している。
計画は成功した。
彼は今幸せだった。
彼の成功は今、速水博士の姿をとって、妻と2人で幸せそうに笑っている。
僕は、なんて幸せなんだろう。
その光景を眺める速水の後ろから、有川が声をかけてきた。
「結城博士、探しましたよ。先日のデータが揃ったので見てもらえますか」
「うん、すぐ行く。速水博士と遥子さんの荷物をお願いできるかな」
「分かりました。お2人は飲み物をお願いします」
有川はそう言って、荷物かごから買い物袋を取り上げる。子供用のブランドの服だ。
「気に入ったの見つかりました? 博士」
「子供の服だぞ、気に入ったも何もあるか。全部遥子に任せたよ」
憮然とする速水博士の隣で遥子がころころと笑う。
4人はゆっくりと歩き出した。
「わたしはお供でしたけど、結城さんがわたしの分も買ってくださったのよ」
「それは良かったですね」
「ええ、ほんとに。またすぐ寝てしまうのが勿体ないくらい」
遥子は博士と年齢を合わせるため、人工冬眠装置に入る事を決めていた。
先を歩く結城が振り向いて遥子に言う。
「寝てればあっという間ですよ。僕も半年くらい寝てたらしいですからね。でもちょっと寝て起きた、くらいの感覚でした」
「そうなの」
「起きたらこの洋服はそのまま着れますよ」
有川の言葉に遥子はいたずらっぽく笑う。
「そういう事じゃないのよ、有川さん。流行りというものがあるでしょう?」
「はあ、流行りですか」
「あなた本当に、そういうところ変わってないのねえ。随分センスが良くなったと思ったけど、奥様が頑張ってらっしゃるのかしら」
「はあ。うちの家内が用意したものを着てます」
「やっぱり」
照れて頭を掻いた有川を、遥子は目を大きく開いててからかうように見た。それに有川が笑う。釣られて速水博士も笑った。
ひとしきり笑いがおさまると、速水博士は前をゆっくり歩く結城の隣に並び、話しかけた。
「わたしは間違っていたな」
「何を仰るんですか」
「有川が結婚して父親になって、幸せそうにしている。遥子とわたしがこうして笑っている。みんな君のおかげだ。わたしはもっと世の中の人間が死ぬ気で働けばいいと、そんな事ばかり考えていた。わたしは間違っていたよ」
「そんな事はありません。博士がいなければ、日本はこんなふうにはならなかった。博士が望んだから変わったんですよ」
自重気味に速水博士は苦笑する。
「わたしが望んだ、か」
「ええ、そうです。あなたが望んだから僕はそれにそって世の中を変えました。博士は間違っていなかった。だから、今があるんです」
「だがわたしは人々に労働と負担を強制しようとした」
「今もみんな働いて負担していますよ。しかも喜んで。あなたは間違っていない。分かっているはずです、博士。間違っているかどうかなんて、短いスパンでは分からない。そして長いスパンで見れば、そんな事はどうでもいい」
そう。
あの実験の時だけを見れば、博士の考えは間違っている。
けれど今はどうだ。相当な人数が夜も昼もなく働き続けた結果、様々な技術が進歩した。
博士の望みが無ければ、結城は指一本だって動かさなかった。いや、そもそもの話、動かしたくても動かせなかったし、過去の事故の時点でとっくに死んでいた。
この先を考えれば、日本の国内需要は高まるが海外取引はどうしても減っている。それが原因で戦争だって起きかねない。
まだ表面に出ていない技術的な問題の結果、日本人は民族的に滅びへと向かうかもしれない。
災害や重大な事故が起きて、ネットから戻ってくる事ができずに、精神を保てなくなって消え去ってしまうかもしれない。
何が正解で何が間違いかなんてすぐに決まるものではないのだ。
「そうだな。わたしとした事が、少し感傷的になっているのかもしれん」
「秋ですからね。そういう事もありますよ」
「秋だからか、そうか」
ははは、と笑って博士は手に持っていたコーヒーを飲んだ。
「うまいな」
「また来ましょう」
「ああ。…次はケーキも食べたいな。何を食べてもうまい。何をしても楽しい。何を見ても美しいと思うんだ。なぜだろうな」
その感覚が、結城にはわかる気がした。
新しい体を手に入れた時、何もかもが素晴らしいと感じた。世界はまるで違って見えた。
体一つのことで、世界はこんなにも変わって見えるのかと驚き、感動し、そして泣きたくなった。
「…きっとそれが、人生というものなんですよ」
あなたが僕にくれた、本当の人生。
虚弱体質で、ベッドの上で1年のほとんどを寝て過ごしてきた僕の、本当の人生。
挙句に事故で死ぬところだった。
博士の人工冬眠装置は、交通事故で死ぬはずだった僕に、手術の準備が整うまでの時間を与えてくれた。
そしてこれも博士の考案した培養技術で作られた新しい内臓は、僕に健康な体を与えてくれた。
術後にめきめきと回復する体と、輝いて見える新しい世界。
それはあまりに素晴らしくて、美しくて、それまでの僕の何もかもを変えた。
だから僕はあなたに会いたかった。
「そうか、これが人生か」
「ええ」
くくくっ、と博士はいたずら小僧のような様子で笑う。
「なんだ、結城くん。君もだいぶ感傷的だな。秋だからか?」
「博士のが感染ったんですよ」
「そうか、そうだな、きっと」
そして空を見上げて静かに言った。
「人生は、素晴らしいな、結城くん」
「はい。はい、博士。人生は素晴らしいです」
世界は素晴らしい。
そして人生も。
僕はあなたにそれを教えてもらった。
だから僕はあなたに会いたいと思った。
あなたにお礼がしたいと思った。
ゆっくりと博士と並んで歩きながら、結城は胸にこみ上げる想いを噛みしめた。
秋の空は高く青く、透き通って美しい。
この想いを形にするために、人は詩や絵画という手段を手に入れたのかもしれない。
そんな事を感じながら、結城は博士たちとゆっくりと歩いた。
冷えた空気に挑むように、手の中のコーヒーが温もりを保って辺りに香りを漂わせていた。
ー完ー