ある男の午後
男は冷たくなってきた秋風を感じながら、熱いコーヒーを一口、口に含んだ。
通りに面したウッドデッキのテーブル席は、店内と違って人もまばらだ。
今日は天気もいいし暖かいが、風は少し冷たい。おそらくそのせいだろう。
仕事は今日は午前中だけで終わり、午後は自由な時間だ。
家に帰れば妻が昼食の支度をして子供達と待っている。
さすがに男が帰るまでには昼食は済ませているだろうが、出社日はいつも断りを入れない限り男の分も用意してくれている。
だがその前に、少しだけ一息入れようと思ったのだ。
時折、金色の並木に風が吹いて、枯れ葉がかさかさ音を立てる。
昔読んだ詩の一節が浮かんで、すぐに意識から消した。
美しい詩だが、こんな穏やかで満ち足りた日には似合わない。
大手チェーンのコーヒー店。慣れたインスタントとは違う味わいと香りに笑みが浮かぶ。
ほんの何年か前までは考えられない事だった。
派遣で朝から晩まで働き、休みもろくに無く、しかしもし休んでしまえば生活がままならない事さえある、そんな日々。
将来どころか明日の仕事の保証さえない。
家族どころか恋人さえできない、そんな日々。
ダメ押しは一人暮らしの母親が病気になった事だ。
連絡を受けて久々に帰った家はひどい有様だった。
自分ではどんどん何もできなくなっていくのを、母親は誰にも言わず、誰にも見せずに痩せ我慢をしていたのだ。できるだけ外出せず、人とも会わず。
限界だった事が周囲に知られたのは僥倖であったのかもしれない。
母の面倒を見るため男は田舎に戻った。
そのまま派遣の仕事を続けたところで先はない。であれば、自宅のある田舎に戻れたことはまだ救いだったのだろう。
それでも、ただ弱った母の面倒を見続ける生活はこたえた。
人の心はゆるゆると死んで行く。あまりにゆっくりに過ぎるため、腐って膿が広がって、死臭が漂うようになっても、それでも心はまだ死なない。
なかなか死ねないというのは不幸な事だと、男は限界がきたらすっぱり死のうと決めていた。
そんなある日。
テレビであるニュースをやっていた。
成人には1人月20万円、電子マネーが支給される事になったと。
男の家なら母と2人で40万。
耳を疑った。夢でも見ているのかと思った。
そして実際に40万が男の住民カードに入っているのを見たとき。
男は泣いた。
恥ずかしくはなかった。
男だけでなく、周囲の多くの人が泣いていたから。
あれから4年。
日本中が驚くほど変わった。ありとあらゆる事が。
電子マネーでの支給には理由があり、月が変わると残金は一旦クリアとなる。そして新たに20万が支給される。
この電子マネーは貯金ができないのだ。次の月には消えてしまう。
だから人々は消費をためらわなかった。
貯金したいならどうすればいいか?
現金を手に入れればいい。働いて稼ぐのだ。
毎日の生活に不安がなくなった国民は、無理に働くことをやめた。
適度に働き、適度に働く。人件費は高騰した。
電子マネーでは国内のものしか買えない。
大手のスーパーなどでは仕入れを現金で行い、販売は電子マネーとしたが、それにも限界があり、その分の税金も加算された。
税金も跳ね上がった。
だがそれで困ったのは大金を稼ぐものや資産を持つもので、大多数の一般市民は困らなかった。
特に農業などの生産業は優遇された。
政治家は一般市民の投票行動に気を使い、そのうえ投票の仕方まで変わった。
何もかもがほんのわずかの期間で変わっていった。
変化を起こした改革派の政治家や役人達を中心に、気味が悪いほどの速さで何もかもが。
陰謀論を語るもの、闇の権力を疑うもの、スピリチュアルの時代だと祝うもの、誰もが何処かに原因があると考えていた。
だが、そんな事は全てどうでもいい、と男は思う。
生活に余裕が出たあと、母親をヘルパーに任せ、男は町内会の催しに参加した。
回覧板をいつも届けてくれる近所のおばちゃん(と言っても、男も世間ではおじちゃんと呼ばれ出す年齢なのだが)が、紹介したい人がいるというので、期待半分、怖ろしさ半分だった。
おばちゃんが満面の笑みで引き合わせてくれたのは、小学校入学前からの幼馴染みだった。
結婚相手の暴力に悩んでいたが、電子マネーの支給で生活の不安が減り、思い切って離婚して実家に帰ってきたのだという。
「ちっちゃい子供が2人いて大変なんだけどね、昔からの知り合いでしょ? あんた達仲が良かったから。このさいどうかなあって思ってね」
お節介おばちゃんの目は確かだった。
男は幼馴染みと結婚し、家の事は彼女に任せて就職、テレワークとたまの出勤で現金を稼いでいる。
最近妊娠も分かった。前の旦那の子供も、男に懐いていて可愛らしい。
母は幼馴染みの作る料理が良かったのか、少しずつ体力を取り戻してきている。
もう少し状態が良くなれば、人工冬眠装置に入って働く事にしたいと言っていた。
男はまだ熱いコーヒーをもう一口飲んだ。
コーヒーを飲む余裕などなかった頃がほんの数年前だったなど、考えられないほど穏やかな日だった。
男の近くのテーブルでは、先ほどから小さな男の子と、父親と言うには少し若い男性が軽食を取っている。
男性は楽しそうに笑い声を上げ、男の子は何が気に入らないのか男性に向かって拳を振り上げ、細い腕で殴りかかっている。どうやらコーヒーを寄越せ、と言っているようだ。
男性は笑いながら首を振った。子供の甲高い声が男性の柔らかい笑い声と重なって秋の通りに響く。
金色の秋、豊かな秋。
こんな日々があるとは想像もしなかった。
あのテーブルの親子連れらしき2人もそうなのだろうか、と男は考える。
1人ではない。
みんな1人ではない。
より多くの誰かが幸せになれたのなら、これが誰の手の上であろうと構わない気がした。
そろそろ帰ろうと、男は笑みを浮かべながら席を立つ。
親子連れかと思っていた2人の席に、男の子より少し年上に見える少女が近づいてきた。
楽しげに話す3人の様子に、男は早く帰ろうとコートを羽織る。
自分にも帰りを待ってくれている家族がいるのだという事が、とても嬉しかった。