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人類の進化、と言われて、有川は眉をひそめた。

速水博士の専門は電子工学だ。

VRと関わるのはわかる。だがなぜそこに人類の進化などという言葉が出てくるのか。


いや、文明の進歩とか、人類の進歩ならいい。

今は見る影もないが、速水博士という人物はいくつもの分野でノーベル賞を取れる、周囲はそう確信していたほどの人物なのだ。だが人類の進化とは。


速水博士が企業側の人間たちと何事か話している側に有川は近づいた。

相変わらず目はうつろだが、言葉も態度もしっかりしていてまるで以前の博士に戻ったかのようだ。



「博士」


「ああ、有川くんか。君も手伝ってくれるのか?」


「ええ。ただ、今日どのような実験をするのか聞いていないのです」


「なんだ、説明していないのか」


「すみません」



 非難する様子でもなく、博士は結城にちらりと視線をやる。

 それを受けて結城は笑った。


 2人のその様子に、有川の胸に何かがわだかまる。いや、「何か」ではない。分かっている。それは嫉妬だ。



「それで、これは何なんだ、結城」


「ネットに精神をフルダイブさせる研究ですよ」



 フルダイブ型のVRゲームの研究はもうずっと進められている。


 だが広大なネット上どこへでも行けるアバターを用意し、さらにその中に精神を送り込むのは危険が伴う。

 ゲームのような閉鎖空間ではないのだ。何が起こるか分からない。



「どこまで進んでいるんだ?」


「ダイブには成功しました。今後はもっと大掛かりな事になるでしょうから、有川さんたちにもご協力いただこうかと」



 腹が立つ。


 この新入りの若造に、どうしようもなく腹が立つ。

 博士を10年以上放って置いたのは自分だが、その隣の席に当たり前のようにいる結城に腹が立ってしょうがなかった。


 確かにこの10年ほどは見ないようにしていたが、完全に彼の事を見放していたわけではない。

 博士の実験や研究を引き継ぎ、彼がいつか正気に戻ったときのため彼の研究室を守っていた。


 結婚もせず、恋人も作らず、寝る間も惜しんで時には研究室に泊まり込み。


 それなのに。


 結城が機械の説明をしている。

 その横で速水博士が頬を歪めた。笑っているのだ、と有川は気がついた。

 研究室の有川らをないがしろしにして、妻のために狂ったこの男が笑っている。彼らを見捨てておいて。


 この男さえ狂っていなければ。

 

 有川が近づくと、速水博士はうっそりと微笑んだまま彼を見た。



「ああ有川くん」


「博士…」



 あなたは。あなたは俺たちを。



「有川くん、やっと夢が叶うよ」



 博士のその言葉に、有川のいつのまにか握っていた拳から力が抜けた。



「夢、ですか?」


「ああ。人間には時間がなさ過ぎる」


「ええ…それはまあ、そうですね」



 もしもっと時間があれば、彼女を作って、デートをして、結婚して家庭を持って、そしたら子供だって。


 同級生達から次々届く結婚の報告。子供が生まれた報せ。


 だが彼には何もなかった。

 この研究室とアパートの部屋以外何も。

 実家に帰ったのはもういつだったか記憶にすらない。


 唐突に、以前の博士との会話が蘇った。


 研究ばっかりじゃつまらんぞ。

 たまには遊びに行け。

 友人や恋人を作れ。


 当時、まだ若かった有川はそれを笑って聞き流した。


 ああ博士。俺はもっとあなたと話がしたかった。

 胸に熱いものが込み上げてくる。


 だが。



「人間にはもっと働く時間が必要なんだ」


「は?」


「この研究が完成すれば、人間は肉体に戻らず働き続ける事ができるようになる。肉体に戻るのはごくたまにでいい。それ以外はずっと働き、研究し、考え続けていられる。そうすれば遥子の病気も治療方法を見つける事ができるはずなんだ!」



 ギラギラと輝く両の(まなこ)。歪んだ笑い。この男はもう完全に狂っている。

 有川の目から涙がこぼれた。



「……は……」


「何か言ったかね」


「あんたは間違ってる」



 有川の言葉に博士は無言だった。



「あんたは間違ってる! 前のあんたはそんなんじゃなかった! 俺が! 俺たちがついてった、憧れてたあんたはそんな奴じゃなかった!」



 いきなり怒鳴り出した有川に、それでも博士は無言だった。興味がなかったからだ。有川の主張にも、以前の自分にも、何もかもに興味がない。

 あるのはただ一つ、妻を救うことだけ。



「ちょっと有川さん、落ち着いて……」


「うるせえ! てめえもふざけんな! こんなモン……!」



 有川は結城の制止に逆上し、長テーブルの上の機械を1つ、払い落とした。

 室内に、落ちた機械が派手に壊れる音が響く。



「人間はモノじゃねえ! 機械みたいにずっと働き続けるのなんざ俺はごめんだ!」


「あ、有川、貴様ぁ……! ぐ、う……!」


「は、博士?」



 博士が有川に詰め寄ろうとして、突然胸を押さえてうずくまった。



「博士! 大丈夫ですか、博士!」



 結城が青ざめ、いつになく取り乱して博士の側へやってくる。



「医務室に連絡を! 救急車も!」


「え、なに……」


「早くしろ、このバカ!」



 バカ呼ばわりされても気がつかず、結城の勢いに押されて有川は室内の電話を取り上げ、医務室の内線ボタンを押した。



「博士、博士! 大丈夫ですか、今……、博士?」



 よろよろと博士は部屋の奥の機械へと向かっていく。



「わ、わたしは……まち、がって……いない……!」



 そこにはダイブテスト用の新型機械がある。先ほど有川が叩き落としたのは、古い型だ。説明用に置いてあったのだ。そして結城は、有川を決して新型の機械の側には寄らせなかった。


 結城にとって研究室の人間は、誰も彼もが速水博士の研究に巣食いながら、彼を見捨てた信頼できない者ばかりだったからだ。


 じりじりと博士は機械に近づいていく。そしてヘッドギアを手に取ろうとして失敗した。

 それを結城が代わりに手に取り、博士の手を掴む。



「わ、わたしは……」



 結城は博士がヘッドギアをかぶるのを手伝った。そして機械のスイッチを入れて行く。



「博士」



 最後のスイッチを入れる瞬間、もう時間がない事を知りながら結城は一瞬ためらった。


 速水博士の顔色は土気色に近い。この状況で成功するかどうかは賭けだった。



「必ず見つけます」



 そしてスイッチを入れる。ビクリ、と博士の体が大きく震えて、そしてその場に倒れた。


 速水幸寿、享年62歳。

 妻・遥子の治療の目処は立っていなかった。









 会議室での事は、事故として処理された。

 有川は、自虐の念から研究室を辞めようとしたが、結城はそれを許さなかった。



「あなたの言う『人間は機械ではない』というのも最もです。ですが、これは人が機械になる事ではなく、肉体という枷から解き放たれて、さらなる世界を求めるための進化なのです」



 有川は結城と何か言い合いをするつもりにはとてもなれなかった。



「手伝ってもらいますよ。あの機械は、まだ用意した閉鎖空間に繋がっていなかったんです。精神だけになった博士が見つかるまでは、あなたには嫌でも『機械のように』働いてもらいます」



 今まで周囲に見せていた顔が嘘のように、結城は冷たく言い放った。

 速水博士の研究室はその後、結城の研究室へと姿を変えていく。




 それからしばらくして、ネット上のあるサイトで1つの話題がしばしば取り上げられる事が増えた。

 あるホラーサイトに、「はやみ」と名乗るユーザーが現れて、肉体を捨てて精神だけとなる理論を他のユーザーに語り続けるのだという。


 新手の宗教か、頭のイカれたヤツかと誰もまともに相手にしない。

 そしてすぐに消えて、また数日すると同じ事を繰り返すのだ。



『休まずに働き続けられる。時間は無限に存在する。肉体など必要ない。人間は次の段階へ進化するのだ』と。











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