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博士の夢

 速水博士は間違いなく天才であった。


 多くの理論を提唱し、いくつかは自身でも研究しながらその実証に日々努めていた。

 彼の学問に対する純粋でまっすぐな姿勢に憧れて、研究室へとやってくる学生も多い。

 だが彼は変わってしまった。


 妻が病に倒れてしまってからだ。

 子はなく、夫婦2人の暮らしだったが、互いをこよなく愛している2人はそれで十分幸せだったのだろう。

 妻の病が不治のものである事、遠くない先にその命を奪ってしまうものだと知ったときから、博士は変わってしまった。どうにか妻を救えないかと様々な医療関係の本を読み漁った。

 だが彼は電子工学やプログラム、数字に関する事はともかく、医療や生命に関する事は全くの門外漢であった。


 そもそも研究には金がかかる。

 彼が妻を医療で救うのは不可能であった。


 だが、いよいよ病が妻の命を刈り取ろうというとき、彼はなんとか間に合った。

 人工冬眠、である。

 ほとんど不眠不休で、医療関係者や企業に協力を仰ぎ、権力者や資産家達の支援を受けて、彼はなんとかその研究を完成させた。そして彼の妻は、その被験者の第一号となった。


 速水博士はまちがいなく天才であったのだろう。


 彼はその後も狂ったように研究にのめり込んだ。

 その様子を、彼の助手達はそばにいながらに、心のどこかで目を逸らしていた。だが。



「先生は今日、何か口にしたかな」


「いや、今朝も食べなかったらしい。でも昨日の昼はなんとかスープを飲んでもらったと佐川が言っていた」



 有川は言って、ため息をついた。



「コーヒーと一緒に何か持って行ってみるよ。研究について話しながらなら、きっと食べてくれるから」



 そう言って柔らかく笑ったのは、結城だ。

 整った女性的な風貌の持ち主で、人当たりも良く、男にも女にも好かれる。大きな病院の末息子で、金にも困っていないらしい。


 海外でスキップを繰り返して某有名大学を卒業後、日本へ帰ってきてなぜかこの研究室にやってきた。

 以前ならともかく、ここ10数年ほどの速水博士の状況では、大学側も学生をこの研究室に送り込んだりはしない。

 現在のこの研究室は、古株の助手達が博士の研究を続けながら辛うじて回しているような有様だった。


 だから、有川は結城を初めに見たとき、どうせすぐにいなくなると思っていた。


 だが彼がここへやってきてそろそろ3年。

 献身的に速水博士の身の回りの世話までしてくれる彼に以前よりも気を許しながらも、なぜそこまで、と不思議にも感じていた。

 坊ちゃんの道楽にしては度が過ぎている、と。


 壊れてしまった彼に幻滅してしまった有川らは、博士から距離を置くようになって随分になる。

 最低限しか関わらないようにしていたため、博士の部屋も博士自身もどんどん荒れていったが、それでも目を背けていた。

 大学側から、なぜか人手が送られて来ていなければ、博士はとうに研究室の中で餓死なり凍死なりしていただろう。


 そんな中やってきたのが結城だった。


 博士を風呂に入れ、食事を取らせ、ときには散歩に連れ出している。

 彼が来てから、狂気に囚われたような様子はなりを潜めたが、それでもやはり博士は壊れているのだろう、研究室に連夜泊まり込み、寝食さえ忘れて論文を読み、メールを送り、パソコンに向かう。


 そして結城は研究などより博士を優先させて、今日も博士の面倒を見るのだ。


 トレイの上の皿に目玉焼きとソーセージ、サラダを盛り付けて、淹れたてのコーヒーのいい匂いをさせながら、結城は博士の部屋へと向かう。左手にはリンゴ、梨、バナナ、オレンジ、桃、何種類もの果物が入った籠が下げられている。

 有川が近づいていって代わりにドアをノックし開けてやると、にっこりと笑って「ありがとう」と言った。



「どういたしまして」



 と表情を作る事なく返すと、結城は気にした様子もなく部屋へと入っていく。


 あの男はなぜこんなところにいるのだろう、と有川はいつも思う。


 彼がいないとこの研究室は回らない。多分回らないだろう。

 彼が来る前、有川は大学側から見逃してもらっている、という空気を感じていた。

 なぜ見逃してくれているのかは分からない。そしてそれはいつまで続くのか、誰もが不安に思っていた。


 それが今はどうだ。


 見た目もだいぶマシになって、ごくたまにだが学会へ出席したり、新しい論文を発表したり、果ては他の研究者達と議論を戦わせたりもする。

 さすがに教授会にまでは参加したがらないが、それもどうしても必要となれば顔くらいは出す。


 学内での研究室の扱いが俄然好意的になってきた。

 博士の研究はそれでなくても重要なものが多いのだ。


 しばらくして、結城が博士と一緒に部屋を出てきた。

 以前なら考えられなかったこの光景も、ここ数年は当たり前のようになってきた。博士は相変わらずどこかうつろな目をしていたし、ほとんど口もきかなければ普通の状態では反応すらない。


 それでも、以前よりはずっとマシだ。

 誰もが、何も考える事なくこの光景を受け入れていた。誰もなし得なかった光景だ。だから、誰も何も言わなかった。博士が生きて、意志を持ってそこにいる、それが感じられるだけで十分だと、誰もがそう感じていたのかもしれない。



「出かけるのか」



 有川の質問に答えたのは結城だ。



「VRの会社の人が来るんだ。部屋を押さえてある」


「へえ」



 博士がここ数年ネットやバーチャルリアリティについて何か研究している事は知っていた。



「何か手伝うか?」



 だから、そう聞いたのは特に深い意味はなかった。


 たまたま、手が空いていたから。

 博士の研究に興味があったから。

 ただそれだけ。


 だが有川はこの時の判断を後悔することになる。


 会議室には、パソコンの他に見たことのない機械が持ち込まれていた。ここ数日、結城が研究室に顔も見せずにやっていたのはこれか、と有川は思い至った。



「一体何なんだ、これは」



 結城が博士と何か研究を進めていた事は知っていたが、ここまで形になっているとは知らなかった。彼が来てからまだ3年しか経っていない。そんな短い期間で何かを完成させる事ができるなど、有川には信じ難かった。

 結城は微笑んで答えた。



「人類の進化のための道具ですよ」







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