第九話 猫は九つの命を持っている
彼女は一人で座っていた。空が赤く色づき暮れる頃から、星がきらめく夜更けまで、彼女は家に帰ることはなかった。
時に本を読み、時に猫とおしゃべりをし、時に川の流れを眺める。
それが巳波ゆずの「いつも」だった。
——あの日、春樹に会うまでは
「よぉ、こんなとこで何やってるんだ?」
彼はいつものように話しかける。
肩に提げたバッグを地面に下ろし、彼女の隣に座った。
「見ればわかるでしょ? 猫と遊んでたのよ」
「まーーー」
そこにはいつかの猫がいた。巳波の手にある猫じゃらしで遊んでいる。
ゆらゆらと動く猫じゃらしに合わせて、猫パンチが飛んできた。
「にゃーにゃー」
「まーーー」
猫と会話する彼女に春樹が聞いた。
「なに話しているんだ?」
「あなたの事よ」
「まーーー」
猫が春樹を見上げる。まるまるとした可愛らしい瞳が彼を射貫いた。うるうると懇願するような目だ。
春樹は猫の可愛さにやられそうになった。
「可愛い! なんて言ってる?」
「とっとと猫缶買ってこいだって」
「こんな目して人をパシらせようとしてたの⁈」
「まーーー」
「焼きそばパン買って来いだって」
「食べちゃ駄目だろ……」
巳波の通訳で猫と話す。どうやら彼は格下に思われているようだった。
「俺も猫じゃらしで遊んでいいか?」
春樹が我慢できないと頼む。
巳波は揺らしていた手を止めて、快く猫じゃらしを渡した。
彼は貰った猫じゃらしを猫の目の前で振る。
「……」
猫は我関せずといった風に毛繕いをしている。
春樹は根気強く猫じゃらしを揺らした。
「まーーー」
猫は一声鳴くと巳波の膝の上に飛び乗る。体を丸めると小さくあくびをした。膝の上が気に入ったようで、彼女になでられるまま喉を鳴らしている。
「そういう日もあるわよ」
巳波が首をすくめ、春樹は肩を落とした。
彼は諦めて地面に手を付き、空を見上げる。十月の夕日は輝かしい。川に反射してオレンジ色の道が出来ていた。
「猫って命が九つあるって知ってるか?」
「馬鹿にしないで。海外の迷信でしょ」
「ああ。だけど、もし本当にそんなに命があったらどう使うのかなって」
「なに? センチメンタル?」
「ちげぇよ。ただ、気になっただけだ」
巳波は膝の上の猫をなでながら考える。しばらく二人とも口を開かなかった。
「命が九つあったら……。多分旅に出るわ。ここから遠く知らない場所に行ってみたい」
「それ命の数関係あるのか?」
「あるわよ。人の一生って一回しかないからみんな大切に、安全に、丁寧に使うんでしょ? 九個もあったら半分くらいは無駄に、危険に、いい加減に使うわ」
「そう考えるのか」
春樹は納得がいったように頷いた。
「他にも画家に挑戦してみたり、スパイをやってみたり、探検家になってみたりしたいわね」
「夢があって良いな」
「ええ。どれも無駄になったり、危険だったりする人生でしょ? 一度切りの人生で挑戦するのは怖いから……」
「……」
——怖いから
巳波らしくない台詞に春樹は息が詰まった。
冷たい風が吹き、二人は身を縮こませる。
「今年は冬が来るのが早いな」
「本当ね」
春樹はごまかすように話を逸らした。
彼の言葉に同意した巳波は寒さに身を震わせる。
「急に冷えるからコート忘れちゃって」
「風邪引くぞ」
春樹が自分のコートを彼女の肩に掛けた。
「いいの?」
「ああ、今日は走って帰るよ。走っているうちに暖まるだろ」
「……ありがと」
彼女はコートの前を閉じる。頬が火照っているのは暖かさのおかげだけではないだろう。
「まーーー」
静かにしていた猫が鳴いた。
「どうしたの?」
巳波が猫をなでる。灰色の毛並みは艶やかでさらさらしていた。
「まーーー!!」
「そう」
彼女は猫を持って春樹の目の前に掲げる。猫はみょーんと伸びた。
「またここに来て話そうだって」
「おう。また来るよ」
あくまで猫が言っていたと、そう巳波は言う。
だから春樹も猫の頭をなでて言った。
「あっ」
猫は彼女の手の中から飛び降りると、堤防の方へ歩いてく。
「まーーー!」
一度だけ振り向いて鳴くとそのまま行ってしまった。家に帰ったのだろう。
「俺たちも帰るか」
「そうね」
空は夜に染まり、川は白い月の光を反射していた。
だんだん話が進んでいきます。