第十話 巳波の告白
「よぉ、こんなとこで何やってるんだ?」
春樹が聞いた。
10月25日午後4時半。日が沈むまでの数時間。川は流れに黄金色の輝きを乗せてゆく。
少女が一人川岸に座っていた。
制服に白いコートを着て、スカートから伸びる足にはタイツをはいている。ショートカットが冷たい風に揺れ、静かな光をたたえた眼が春樹の方へ振り返った。
巳波は彼を待っていた。
「今日は何もやっていないわ。ただ、川を見ていただけ」
「楽しいか? それ」
「まぁまぁね」
春樹が彼女の隣に腰を下ろす。二人は並んで川を見つめた。
「これ、返すね」
巳波が折りたたまれたコートを差し出す。黒い大きなコートで、春樹が先日貸した物だった。
「遅くなって悪かったわ。洗ってあるから」
「おぉ、ありがと」
受け取ったコートからはかすかに洗剤の匂いがする。あるいは巳波の匂いなのだろうか。
「別にわざわざ洗ってもらわなくても良かったのに」
早速、コートを羽織りボタンを閉めた。すぐに暖まるわけではないが、風が避けられるだけで大分違う。
「私が着たコートを洗わずに着て、私に包まれてる〜みたいな事したかったんでしょうけど、私がそんな事を許すわけないでしょ。変態」
「人を勝手に変態にするな! 言いがかりだ!」
「あら? そうだった? 先入観って怖いわね。コートの匂いを嗅いでいたから、そんなところだと思ったのだけれど」
「うっ……」
見透かされていた春樹は言葉に詰まる。
「とにかく、確かに返して貰った」
「ええ」
コートの襟を寄せて彼が言う。巳波が頷いた。
冷たい風が吹いて川に波紋が出来る。赤色の葉が数枚、波に揺れて流れていった。虫の鳴き声が高まる。
二人は再び黙って川を見つめた。
「感謝しているわ」
突然巳波が言った。
春樹はその言葉に驚いて、視線を向ける。彼女は川を見つめていた。
「私……親と上手くいってなくてね。なるべく家に居たくなかったの」
押し殺したようなその表情に彼は何も言えない。
「初めはいろいろなお店に行って時間を潰していたんだけど、すぐ飽きちゃって、だからここで川の流れを見てた」
巳波の言葉に従い、春樹は川に視線を戻す。
日が暮れようとしている。太陽の最後の輝きが川を燃やしていた。
「川を見てると、辛いこととか悲しいこととか全部流れていくような気がして、少し楽になるのよ」
「……」
彼は川を見ながら巳波の言葉を考えていた。
時折見せる寂しげな表情は、辛いことや悲しいことと一緒に、楽しいことまでこの川に流してしまったからではないか。
そんな考えが頭に浮かぶ。
教室での彼女は独りぼっちで、笑わない。ただ静かに淡々と授業を受ける姿が格好いい。クールなキャラだと皆に思われていた。
「でも、あなたが来てからは違ったわ」
巳波の言葉に春樹は思考の海から引き戻された。
「川は感傷を流す場所じゃ無くなった。私と話してくれてありがとう」
「……俺だってお前と話すのが楽しいから話してるんだ。気にすんな」
「そ、じゃあ気にするのは止めるわ」
「おい」
あっけらかんと言い放った彼女に突っ込む。肩の力が抜けて、途端10月の寒さが身を包んだ。
「誕生日おめでとう。これ、誕生日プレゼントよ」
巳波が小さな紙袋を差し出す。
「ありがとう。よく知ってたな」
「自分で言ったじゃない」
「そうだったか?」
春樹は素直にプレゼントを受け取った。
袋からは柔らかさと硬さが同時に伝わってくる。一つはペンで、もう一つはなんだろうか。
「開けて良いか?」
「どうぞ」
テープを剥がして袋を破かないように開ける。
中から出てきたのは青色の万年筆とつるつるとしたさわり心地のハンカチだった。
「インクの色は黒よ。あと、ハンカチは青色の無地にしてみたんだけど、気に入ってくれた?」
「ああ、凄く嬉しい。ありがとう」
もう既に日は暮れている。空は快晴で星の輝きがよく見えた。息が白い。
彼は広げたハンカチを月明かりに照らした。艶のある青色が銀色の光を反射する。
「綺麗な色だ」
「当然でしょ」
巳波が微笑んだ。その表情に教室の彼女の面影はない。
「因みに、まだプレゼントはあるのよ」
春樹が驚いて巳波を見つめる。
巳波も春樹を見つめ返した。
「好きよ。付き合いましょう」
巳波の声が響く。春樹はその言葉の響きを受け取った。
月が川に浮かんでいる。月の色が溶けるように、川は青く銀色に輝いていた。
二人だけの川原には流れの音が奏でられている。
「俺も好きだ」
春樹が言った。