人間怖い
「私は人間が怖いかな」
大学構内の喫茶店。怖いものってある? という僕の問いかけに、幼なじみのまどかがそう答えた。絶対嘘じゃん、と僕が笑いながら指摘すると、まどかは本当だってとムキになって反論してくる。じゃあ、具体的にどこが怖いのか教えてよ。僕は面白半分に促した。
「子供って本当に怖いよね。こっちの言うことなんて一切聞かないで、すぐに泣いちゃうし。そのくせ妙に大人びたことを知ってて、時々、びっくりするぐらいに背伸びしたセリフなんか言ったりするしさ」とまどかが言う。
僕は高校時代に一度だけ手伝いに呼ばれて参加したボランティアのことを思い出す。まどかは高校時代、校外のボランティア団体に所属していて、休日にはよく保育ボランティアへ行っていた。まどかと一緒に保育園の門をくぐり園内に入ると、まどかを見つけた園児たちが嬉しそうに駆け寄ってくる。「はいはい、後で後で」と満更でもない顔で園児たちと戯れていると、一人の男の子の手が別の男の子の目に当たり、その子が大きな声で泣き始める。
「あーよしよし、痛かったね」
まどかが笑いながらその子に駆け寄り、その小さな身体を抱き上げてあげる。だけど男の子は、抱き上げられた途端に泣くのをやめ、ぎゅっと唇をかみしめて強く涙をこらえだした。泣いていいんだよとまどかが話しかけると、男の子は「大好きなまどかちゃんの前で、そんなかっこ悪いことしたくない」と嗚咽混じりの声で答える。僕とまどかが顔を見合わせる。男の子のセリフがあんまりにも可愛らしくて、僕たちは二人で笑いあった。それにつられて周りの子達もわけがわからないまま楽しげに笑い出し、胸に抱かれたその男の子もいつのまにか、涙を浮かべながら一緒に笑っていた。
「友達って本当に怖いよね。ただ一緒にいる時間が長いだけの関係なのに、耳が痛くなる本音を遠慮なく指摘してくるし。大喧嘩して、もう絶交だとか言ってくるくせに、数日経ったらごめんねってあっちから謝ってくるしさ」と彼女が言う。
まどかには、僕と同じくらい長い付き合いになる、綾という親友がいる。綾とまどかはいつも一緒につるんでいて、高校時代には二人とも同じダンス部に入っていた。しかし、そのダンス部である日、まどかが当時の部長と部内の取り決めに関して激しく衝突してしまったことがあった。話を聞く限りだと、部長にも確かに至らないところはあるけれど、まどかはまどかでちょっとやりすぎなところもあった。それでもまどかは元々の負けん気の強さが災いして自分の非を一切認めようとせず、部活内での立場も悪くなっていった。しまいにはそのまま部活をやめようとしていたまどかに対して、親友の綾が部長と和解するように強く説得した。
「私は間違ったことは言ってない。それなのに、どうして謝らなきゃならないわけ?」
引くに引けなくなっていたまどかがかみつくようにこう言ったらしい。
「間違ったことは言ってなくても、そうやって意地はって、周りに壁を作ってる態度は絶対に間違ってる。そういうとこ、まどかの最低なとこだよ」
綾の言葉をきっかけに、部長との間の諍いなんか非じゃないくらいの大喧嘩が勃発して、元々の喧嘩相手だった部長までもが間に入るくらいにわけのわからないことになってしまった。でも、その後、お互いに同じタイミングで我に返って、こうしてやりあってるのが馬鹿馬鹿しくなったらしい。それから二人でお互いに非を認めて、そのままの流れで二人で部長に謝りに行った。
「まどかちゃんが謝るのはわかるけど、なんで綾ちゃんも謝るわけ?」
部長が笑いながら指摘すると、二人とも顔を見合わせ、どうしてだっけとお互いに聞きあったらしい。
「家族って本当に怖いよね。血がつながってるってだけで、ずっと関わり合わなくちゃいけないし。育った環境が一緒のはずなのに、考え方も性格も違って、何考えてるのかわかんないときがあるしさ」と彼女が言う。
まどかには三つ歳が離れた亜美ちゃんという妹がいる。亜美ちゃんは中学時代にいじめにあって長い間不登校になっていた。精神はずっと不安定で、家出をしたり、突然わめきだしたりと散々に荒れていたらしい。それでもまどかは妹と正面から向き合って、何度も何度もぶつかって、そうかと思えば仲良くなって、その繰り返し。だけど、最近になってようやく亜美ちゃんの気持ちも安定してきて、彼女は突然高卒認定試験のための勉強を始めた。そして、亜美ちゃんの試験日。車を出してよとまどかにお願いされた。亜美ちゃんを試験会場まで送って、その後、僕とまどかは近場の喫茶店で時間を潰した。まどかは試験に落ちるくらいで人生は変わらないしねと軽口を叩きながらも、いつもよりどこかせわしなかった。試験が終わって、亜美ちゃんを迎えに行って、いつものようにぶっきらぼうな表情のまま亜美ちゃんが会場から出てきて、僕の車に乗る。どうだったと尋ねるまどかに、亜美ちゃんが多分落ちたと目も合わさずに答える。重たく、気まずい空気が車内に流れた。だけど、励ましの言葉をかけようとしたまどかを制するように、亜美ちゃんがぽつりとつぶやいた。
「昔のままだったら、きっとこんな試験なんて受けようとも思わなかったし、一生懸命何かを頑張るってことは絶対になかったと思う。生きてても何の目標もなかったし、早く死んじゃいたいってずっと思ってた」
亜美ちゃんが窓の外を見ながら言葉を継ぐ。
「ありがとう。お姉ちゃん、ずっと私を見捨てないでいてくれて」
どういたしまてと少しだけおどけた口調で答えた後で、耐え切れなくなったまどかは口を押さえて泣き始めた。それを見た亜美ちゃんが顔を赤らめながら「大げさだよ」と笑って、それにつられて僕も笑って、狭い車の中で三人で笑い合った。結局その日の試験はダメだったけど、亜美ちゃんはめげずにもう一度試験を受けて、見事試験に合格した。来年には私たちがいる大学に受験したいんだってさと、まどかはどこか誇らしげな顔で教えてくれた。
「怖い怖いって言いながら、結局好きなんじゃん」
僕が指摘すると、そういうわけじゃないよと笑いながらまどかが言い返してくる。僕たちが座る窓際の席には昼下がりの日差しが穏やかに降り注ぎ、周囲からは同じ大学生の楽しげな会話が聞こえてきていた。
「じゃあ、改めて聞くけどさ。結局のところ、まどかは何が一番怖いわけ?」
「そうだなぁ」
彼女は少しだけ考え込んだ後で、じっと僕の目を覗き込みながらこう言った。
「今は一番、君が怖い」