長崎逃避行
城戸は、中本に呼ばれた。
「城戸君、長崎の諫早署から捜査依頼が来ている。諫早の、市布という駅で起きた殺人事件の被害者の身辺捜査の依頼だ」
中本は、一枚の書類を城戸に渡した。
城戸が、その書類に目を通している時、
「それに関して何だがね、気になる事があるんだ──」
と、中本が言った。すると、城戸は、すぐさま視線を書類から中本に移した。
「気になる事とは、何でしょうか?」
「この被害者の府川という男なんだがね、彼は、一億円入りのスーツケースを所持していたようだ」
「一億円入りのスーツケース?」
城戸は、無意識に声が大きくなった。
「ああ、そうだ。だが、あの宝石店の強盗との関連はまだ確認されたわけではないが──」
中本が、城戸を落ち着かせるような口ぶりで言った。
「取り敢えず、この府川という男の身辺捜査をすればいいわけですね?」
「ああ、そうだ。頼んだよ」
城戸は、捜査本部に戻り、そこに居た南条に指示を出した。
「南条君、この男の指紋と、例の白いミニバンのハンドルに付着していた指紋を照合してくれ」
次に、城戸は、川上を連れて、府川という男の自宅に向かった。
府川の自宅があるのは、江戸川区葛西である。
彼の住むマンションの管理人に警察手帳を示し、部屋を開けてもらった。
府川は、独身だが、部屋はかなりの広さがあった。
「さすが、あの戸田食品の社員の部屋ですね。大企業の社員ともなると、こんな生活なんですね」
川上もそう言った。
部屋はきれいに整理整頓されていて、特に不審な点もなく、彼の顔写真を何枚か押収するのみで捜索は終わった。
次に、管理人への聞き込みである。
「彼は、一週間前から長崎に居たようですね?」
川上が、手帳にペンを構えて尋ねる。
「ええ、そうです。先週から、府川さんは家に戻って来ませんでした」
中年で小太りの管理人は、そう答える。
「彼は、どんな理由で長崎へ向かったんでしょう?」
「府川さんは、長崎の出身です。里帰りだと思いますよ。でも──」
「でも、どうしました?」
「ここを出るとき、もしかしたら、当分帰ってこないかもしれないから、その時は宜しくお願いしますって言ってましたね──」
「その理由は、なんと仰っていましたか?」
「理由は教えてくれませんでした。人には言えないけど、東京には当分帰れないとしか言わないんです」
「府川さん、ここを出るとき、黒いスーツケース持ってましたよね?」
これは、城戸が質問した。
「ええ、持ってましたよ。そのスーツケースに、さらにボストンバッグまで持っていましたから。これは、もう本当に帰る気がないんだなって思いましたね」
管理人は、少し笑った。
「そのスーツケース、実は現金で一億円が入っていたのですが、彼がそんな大金を手に入れることに関して何か心当たりはありませんか?」
「一億円が入っていたんですか?」
管理人は、目を大きくして驚いたが、
「刑事さん、府川さんは、何たってあの戸田食品に勤めている方ですよ?稼ぎもいいみたいですから、おかしいこともないんじゃないですか?」
と、冷静に言った。
「府川さんに、恋人はいらっしゃらなかったんですか?」
川上が訊いたが、
「いいえ、居ないと思いますよ」
と、管理人が答えた。
「ありがとうございました。今日は、ここら辺で」
城戸達が、府川の部屋を去ろうとしたが、
「ああ、そう言えば、二日前ぐらいに戸田食品の方がいらっしゃってね。府川さんの行方を必死に探していたようでしたよ。まるで、刑事さんみたいに」
と、管理人が言い出した。
「ほう、それはまた、何故探していらしたんでしょう?」
城戸が、そう尋ねたが、
「いいえ、理由は言ってくれませんでした」
と、答えた。
城戸と南条は、戸田食品の本社へ向かうため、港区お台場へと向かった。
戸田食品は、日本の食品業界の第一線を行く大企業である。社長は、戸田英里子、女社長である。前社長の、彼女の夫が早くに事故死し、彼に代わって社長を務めるようになったらしい。
会社に行き、社長との面会を求めると、一時間ほど待つように受付で言われた。
一時間後、応接室で待っていると、社長の戸田が現れた。隣には、中年の男もいた。
「お待たせいたしました、社長の戸田でございます」
そう言って、彼女は礼をした。
「こちらこそ、お忙しいところにすいません」
城戸が言うと、戸田の隣の男が、
「副社長の木原です」
と言って、礼をした。
四人は、応接室のソファに腰掛けた。
「戸田食品の経理部に勤めている、府川勉さんが長崎県で殺害されました。そのことは、ご存知ですか?」
川上が、言った。
「ええ、知っています」
答えたのは、副社長の木原だった。
「私共の会社では、全力を挙げて府川さんを探していたんです──。でも、まさか殺されるとは思いませんでした」
今度は社長の戸田が、顔を俯かせながら言った。
「と、言いますと?」
城戸が、戸田の顔を覗き込むようにして質問した。
「府川さんは、会社のお金を横領していたんです。そして、彼はここ最近無断欠勤をしていまして、音信不通でした。なので、全力を挙げて探していたんです。もう殺されてしまったという事なので、近々記者会見を開いて発表するつもりでした」
顔を上げて、戸田が言った。
「まさか、あの府川さんが会社のお金を横領するなんて、信じられなかったのですが──」
木原がそう言った後、社長と副社長は、顔を見合わせる。
「でも、そういう証拠が出てきたから、彼はきっと横領したのよ」
戸田が、木原に言い聞かせるように言う。
「その横領の額は?」
城戸が、そんな二人に尋ねる。
「一億です」
「府川さんは、一億円入りのスーツケースを持って、彼の故郷である長崎に里帰りしていたようですが、その一億円が横領したお金でしょうか?」
これは、川上が尋ねた。
「さあ、それはわかりません。でも、里帰りと言うのは嘘だと思います。お金を横領して、逃げるつもりだったと思いますわ」
「府川さんは、何故横領なんかしたんでしょう?何か、お金に困っていることでもあったんですかね?」
城戸が、そう質問するが、
「さあ、わかりませんわ」
と、戸田が答える。
「経理部長に話を聴いたら、詳しいことがわかるかもしれませんよ」
副社長の木原が、そう口を挟んだ。
そこで、経理部長を呼んでもらい、話を聞くことにした。
現れたのは、経理部長の佐藤という長身の男だった。
社長と副社長は、どこかへ去ってしまった。
「府川さんが、会社の一億円を横領したというのは、本当でしょうか?」
城戸が、尋ねた。
「ええ、本当です」
「しかし、何故府川さんは一億円もの金を横領したんでしょう?何か、金に困っていたとか、トラブルがあったんですかね?」
「その辺りは、我々もわかりません」
「彼は、どうやら故郷の長崎へ逃げていたようですが、その時に一億円入りのスーツケースを所持してしましたが、それは横領したお金だと思いますか?」
「いえ、違うと思います」
佐藤は、淡々とそう言った。
「違う?何故、違うと思うんですか?」
「彼から一度、連絡があったんです。二、三週間前から府川さんは無断欠勤していたんですが、その直後に一度連絡があったんです」
「どんな内容でしたか?」
「会社の金を一億円横領して、それをもう使い込んでしまった。だから、どうすればいいか──。そう言ってきたんです」
「つまり府川さんは、会社から横領した一億円を既に使ってしまって、もう彼は所持していないはずだという事ですね?」
「ええ、そう言う事です」
佐藤は、肯いた。
「それであなたは、どうすればいいかと尋ねられて、何と仰ったんですか?」
すると、佐藤は、少し考えてから、
「いや、それは──」
と、言った。
「いや、それは?何です?」
佐藤は、ずっと黙っていた。
「佐藤さん、我々は、殺人事件の捜査で来ているんです。教えていただけないなら、警察署まで来ていただきますよ」
川上が、そう脅す様に言うと、
「わかりましたよ──」
佐藤は、悔しそうに言った。
「実は、私が、一億円を用意しろと指示を出したんです。そのせいで、彼は長崎へ逃げ、殺される羽目に──!」
彼は、自分を責める様に言った。
「落ち着いて、その話を詳しく教えていただけませんか?」
城戸が、言った。
「はい。一億円を用意しろと言ったのは、私というか、副社長なんです。府川君が会社の金を横領したことが判明して、社長は、彼を横領罪で告訴すると言い始めたんです。そうやって横領事件が世間に公になると、彼の上司である私もどうなるかわからない。ですから、副社長と相談して、社長に頭を下げ、大目に見る様に頼み込んだんです。そしたら社長は、あの府川が一億円を会社に返すならこの件は大目に見ると言ったんです。それで、私は社長の言うように一億円を会社に直ちに返すんだと強く言ったんです」
「府川さんは、どのようにして一億円を手に入れたんでしょう?」
川上が、佐藤に質問した。
「さあ、わかりません。別に、私が一億円を手に入れる手立てを指示したわけじゃありません。君の蒔いた種だから、自分でなんとか一億円を用意して、会社に返すんだ。私は、そう言いました」
佐藤は、顔を俯かせながらそう言った。
「府川さんが一億円を手に入れたことと、長崎へ逃げたことは関連があるんですか?」
「多分、あると思います。彼から一度連絡があって、その時、府川君は一億円の用意はできたが、ちょっと事情があって遠くへ逃げなければならなくなったというんです。きっと、何か人には言えないような方法で一億円を稼いだからそう言ったんだと思います。私が、あんなことを言ったばっかりに──!刑事さん、府川君が何かしでかしたとしても、どうか許してください!私が悪いんです」
佐藤は、そう強く城戸達に訴えた。