長崎本線市布駅
ちょうど西彼杵半島と長崎半島、島原半島の三つが集まる、大村湾の南東に、長崎県諫早市がある。福岡から長崎に最短距離で入るには、必ず通らなければならない都市である。
この諫早で、多良岳を避けるために有明海沿いを走っていた長崎本線と、大村湾に沿っていた大村線が合流する。
しかし、諫早駅から長崎の方へわずか二駅進んだ喜々津駅で、今度は長崎本線が旧線と新線に分岐する。
その長崎本線新線の市布駅のトイレで、男の刺殺死体が発見された。
国道三十四号線から、少し外れたところに市布駅はある。
一日の利用者は三百人弱の、静かな無人駅は、諫早署から駆け付けた警察車両で騒然としていた。
「腹部に二つの刺し傷があります」
諫早署捜査一課の木村刑事が、同じく五十嵐警部に言う。
「身元を示すものは?」
五十嵐がそう尋ねると、
「運転免許証と名刺がありました。殺されたのは、府川勉二十九歳。この男は、戸田食品の本社の人間で、経理部に在籍しているようですね」
木村が、名刺を見ながら言った。
「それで、住所は東京か?」
「ええ、東京ですね」
「それなら、警視庁に連絡だ」
五十嵐が、そう指示を出した。
すると彼は、近くに居た、鑑識の人間を捕まえて、
「死亡推定時刻は、いつですかね?」
と、尋ねた。
「大体、死後一時間くらいじゃないですかね」
今は、午前一一時だから、この府川という男は、大体午前一〇時頃に死んだことになる。
「しかし、戸田食品みたいな大企業の経理部の人間が、こんなところに何の用で来たのだろうか?」
五十嵐が、府川の死体を見つめながっら言った。
「警部、戸田食品の九州工場なら、確か大村市にあったはずです。そして、九州支社は長崎市内にありますよ」
木村が、言った。
「つまり、その間を鉄道を使って移動すれば、この市布駅を通るわけだな?」
「ええ、警部の言われるとおりです。しかし、長崎本線の旧線を使えば、話は別ですが──」
「まあ、そうだとしても、何故この市布駅で途中下車したかがわからんな」
「府川の死亡推定時刻は、午前十時頃ですよね?」
「ああ、今のところはな。市布駅の時刻表と照らし合わせてくれ」
「上りだと、九時五〇分発の諫早行き。下りは、一〇時六分発の長崎行きがあります」
「そのいづれかに乗っていた可能性があるな」
「しかし、市布駅は無人駅ですから、それを調べるのは難航しそうです」
木村が、厳しい顔で言った。
「まあ取り敢えず、周辺の聞き込みに取り掛かるぞ。何かわかる事があるかもしれん」
五十嵐は、仕切り直すようにそう言った。
すると、さっそく木村刑事が目撃者を捕まえた。
目撃者は、駅前で商店を営む老婆で、彼女は、駅の方へ歩いて行く府川を見たという。
「この人は、よく覚えているよ。サラリーマンの格好をして、一人で駅の方へ歩いて行ったから」
老婆は、木村にそう言う。
「それを見たのは、いつ頃ですか?」
「一〇時頃、店の前を通たっね」
「店の前を通ったという事は、列車から降りてきたというわけではないんですね?」
「ああ、列車は使ってないね。あっちの方から歩いてきたから」
老婆は、家の立ち並ぶ住宅地の方へ指を指して言った。
「列車でこれからどこかへ向かうんだろうと思ったんだがね。まさか殺されるなんて、可哀そうに──」
老婆は、最後にそう言った。
その目撃証言に基づいて、府川が歩いてきたとされる住宅地を重点的に聞き込んだ。
すると、今度は五十嵐が手柄を挙げた。
二日ほど前から府川を家に泊めていたという男を見つけたのだ。
その男の名前は、鈴木和夫。年齢は、府川と同じく二十九歳である。
「失礼ですが、府川さんとのご関係は?」
五十嵐が、鈴木に尋ねる。
「高校時代の同級生です」
「府川さんを家に泊めた経緯を説明して頂けますか?」
「ええ、いいですよ。一週間前ほどに、府川さんから電話があったんです。事情があって、東京から出なければならなくなった。そこで、私の家に泊めてくれ、と頼まれたんです」
「その、東京から出なければならなくなった理由と言うのは、何でしょう?」
すると、鈴木は困惑した顔で、
「私も気になって、質問してみたんですが、それは答えられないと言い張るんです。府川に何かあったんじゃないかとずっと心配だったんです」
と、言う。
「それで、府川さんの荷物なんかは、まだここに置いたままですよね?」
「ええ、そうですよ」
「少し、調べさせていただいても結構ですか?」
そう言うと、鈴木は、五十嵐を家の中に居れた。
鈴木と言う男は、まだ独身で独り暮らしをしていた。余っていた和室を、府川に使わせていたという。
五十嵐は、聞き込みを続けていた木村を呼び、鑑識にも来てもらって、府川が使っていた部屋を調べた。
その部屋に残っていたのは、府川が持ってきたというボストンバッグと黒いスーツケース。そして彼が使ったと思われる布団が、部屋の端に畳まれていた。
ボストンバッグを調べてみると、男物の下着と洋服が何着か入っていた。
木村が、黒いスーツケースを開けようと試みるが、開かなかった。
「警部、このスーツケース開きませんね」
木村が言うと、五十嵐は、スーツケースのある部分を指さして、
「ここにダイヤル式の鍵がある。それが掛けられているんだろう」
と、言った。
すると、彼は鈴木という男を呼んだ。
「鈴木さん、このスーツケースに何が入っているかご存知ですか?」
「いいえ、知りません。そのスーツケースなら、府川に絶対開けるなと念を押されてましたから」
「絶対に開けるなと言われたんですか」
五十嵐がそう言うと、
「警部、何が入っているか気になりますね」
と、木村が言った。
「署に持ち帰って、中を開けてみよう」
五十嵐が、木村にそう言った後、
「鈴木さん、あなたも念のために署へ同行して頂けますか?」
と、鈴木に言った。
「ええ、構いませんよ」
彼は、そう答えた。
諫早署に設置された捜査本部に着くと、スーツケースは木村に任せておいて、五十嵐は鈴木に話を聞いた。
「まず、府川さんが東京からやってきた二日前の話ですが、彼は長崎までどの交通機関を使ったかご存知ですか?」
「いえ、迎えは必要ないというので、家に居たのでわかりません。彼が言うには、飛行機で長崎空港まで来て、そこからここまではタクシーを使ったそうです」
「では、今日の話に代わりますが、最後に彼を見たのはいつですか?」
「九時半過ぎです。彼は、市布駅で人と会う約束があるというので、家を出ていったんです。それっきり帰って来ませんでした」
「その相手をご存じではありませんか?」
「さあ、わかりません」
「では、あなたのお家でしきりに誰かと電話していたとか、何か覚えていることはありませんかね?」
「それも、わかりません。彼と一緒に居たのは、食事の時ぐらいでしたから」
「ほう、それはまた何故です?」
五十嵐が尋ねた。鈴木は、絶え間なく質問をしてくる彼に、少し鬱陶しく思いながらも、
「彼は、東京から逃げるようにしてここに来たんです。逃げてきたという事は、何か人に言えないような事情があるに違いないと思って、あまり深入りすることはやめておいたんですよ」
と、答えた。
「では、彼を恨んでいるような人間を知りませんか?」
「さあ、知りませんね。当分会ってないので」
「高校卒業してから会われてないんですか?」
「そうです。彼は、優秀でしたからね。私は長崎の大学に進学しましたけど、彼は東京の大学に行きましたから」
鈴木は、府川を羨ましむように言った。
「では、彼に恋人がいたとかもご存じないですね?」
「ええ、知りませんね」
すると、木村が、
「警部、スーツケースの中身が判明しました」
と、五十嵐を呼んだ。
「ちょっと失礼」
五十嵐は、鈴木にそう言って、木村がいる方へ向かった。
「こんなものが入っていたんです」
木村が、そう言ってスーツケースの中身を五十嵐に見せた。
「おい!こんな大金が入っていたのか──」
彼は驚き、開いた口が塞ぐことができなかった。
「数えてみましたが、一億ありますよ」
そんな五十嵐に、木村が説明する。
「鈴木さん、このスーツケースに一億円の現金が入っていたことをご存知でしたか?」
五十嵐が、鈴木に尋ねる。
「い、一億円?知りませんでしたよ!さっき刑事さんにも言いましたが、開けるなと念を押されていましたから」
鈴木も、驚いた。
「この一億円、心当たりありませんか?」
五十嵐が訊いたが、
「知りませんよ。それは、彼が東京から持ってきたもので、私に何も関係ありません」
と、鈴木は言い張った。
彼は、そこで帰ってもらうことにした。
「あの鈴木という男、クロかもしれないな──」
五十嵐が、そう呟く。
「あの鈴木がですか?動機は、何なんです?」
「この一億円だよ。彼は、府川が一億円を持っていることに気付いたんだ。それを奪ってやろうと思って、自分が疑われない様にわざわざ市布駅まで連れて行き、誰か他人と会うように装って、あの鈴木が殺してしまったんだ。そして、あの一億円を自分のものにしようとしたわけだ」
「しかし、警部。あのスーツケースは鍵が掛かっていましたし、鈴木がその鍵を開けられたとは思えません」
木村が、反論する。
「鈴木が開けていなかったとしても、例えば、府川がスーツケースを開けていたところを覗き見して、中身の一億円を確認できることはあるかもしれない」
五十嵐が、ニヤッと笑って言った。