英雄の転職 ②
突如として港町に現れた魔獣クラーケンは逃げ惑う人々を追うのではなく、港に置かれていた魚の大量に入った籠に目をつけた。どうやらレクトの見立て通りクラーケンは極度の飢餓状態のようで、食べられるものであれば何でも構わないといったところなのだろう。
そんなクラーケンの前に、つい今しがた串焼き店の店主から依頼を受けたばかりのレクトが立ちはだかる。
「さて、害獣駆除といこうか」
相手が巨大な化け物であっても、レクトはかなり余裕のある態度だ。
レクトは背負った大剣を手にすると、それを両手で構えた。身の丈ほどもあり見たところ軽く数十キログラムはありそうな剣であるが、クラーケンに対する威嚇なのかレクトはそれを軽々と振ってみせる。
とはいえ、その程度ではクラーケンは怯まなかった。目の前のレクトを障害であると判断したのか、クラーケンは自身の10本の触腕の1本をレクトに向かって叩きつけるように振るう。
「危ない!」
「兄ちゃん!逃げろ!死ぬぞ!」
「きゃあぁぁ!!」
その光景を遠巻きに見ていた人々が、口々にレクトに向かって叫ぶ。中には悲鳴を上げる者もいたが、それでもレクトは微動だにしなかった。そして。
「邪魔だ」
レクトが大剣を一振りした次の瞬間、とんでもない太さをしたクラーケンの巨大な触腕が宙を舞った。切断された5メートルほどの触腕は、轟音を立てながらそのまま地面に落下する。
それまで心配そうに見ていた人々は、その一瞬の出来事を目の当たりにして呆然となっていた。
「い、今何した!?」
「あの大きな剣で…斬ったの?」
「速すぎて全然見えなかったぞ!?」
それまでパニックであった港は、とてつもない強さを持った謎の剣士の登場に騒然となった。だがその剣士の正体は、いつの間にか群衆の中に紛れていた串焼き店の店主によってすぐに明らかとなる。
「レクト!倒すならできるだけ港から離れた位置にしてくれ!港や船に被害が出たら困る!」
「あいよ!」
大きな声で注意を促す店主に返事をしつつ、レクトは大剣を構え直す。
当然のことながら店主の発した「レクト」という名前に対し、周囲の人々は様々な反応を見せていた。
「レクト?あの人が?」
「本当だ!レクトだ!あいつ、いつ帰ってきたんだ!?」
「あの魔王メトゥスを倒したっていう?彼なら大丈夫かしら?」
「はっはぁー!あいつがいるなら何も心配いらねえな!」
「いつもみたいにやっちまえ!レクト!」
ギャラリーの中にはレクトの事を知っている人とそうでない人が入り混じっているようで、困惑、安堵、応援といった様々な声が飛び交っている。
しかし、レクトにとってはどれも関係ない。今はただ、目の前にいる邪魔者を始末するだけだ。
「つーわけで、ぶっ飛べデカブツ!」
叫びながら、レクトは大剣を振り抜いた。それによって生じた衝撃波がクラーケンの胴体を直撃し、沖に向かって数十メートルほど飛んでいく。
間髪入れずにレクトはトドメを刺すべく、自ら吹き飛ばしたクラーケンを追って駆け出した。海の上を、である。
「か、海面を走ってるぞ!」
「できるの!?そんな事!?」
「え、英雄だからできる事なのか?」
物凄い水飛沫を上げながら海面を走るレクトを見て、人々は呆気にとられた様子である。
「すげえ!あれが英雄の力か!」
「頑張れ!クラーケンなんてやっつけろ!」
一方、そんな事を気にしない子供たちからはむしろ歓声が上がっていた。レクトの人となりを知らない子供たちからすれば、さしずめヒーローのように見えるのだろう。
様々な声を背中に受けて、海面から一気に跳躍したレクトは空中のクラーケンに向かって剣を振り下ろす。
「裁きの斬撃!!」
レクトの放った一撃は、クラーケンの巨体を文字通り一刀両断にする。真っ二つに斬り裂かれたクラーケンの残骸は、そのまま大きな水音を立てて海面に落下した。
一方のレクトは着水と同時に海面を駆け抜け、再び港へと戻ってくる。その間、わずか5秒ほどであった。
「よっ、と」
レクトは桟橋に着地するとすぐに大剣を地面に置き、自身の肩にかかっていた大剣を留めるためのベルトを外した。続いて、今度は水に濡れた茶色のロングコートを脱ぐ。
「剣の方は拭けばいいとして、このコートはもうダメかもな。古くなってたし、替え時かなぁ」
海水で濡れたコートを軽く振って水気を切りながら、レクトはぼやいた。
レクトの着ているコートはそれ自体は水を弾く素材でできているのだが、流石にあれだけ派手に水飛沫を浴びればびしょ濡れになるのは当然といえよう。
そんなレクトの元へ、クラーケンとの戦いを観ていたギャラリーが一斉に群がった。
「すごいわ!流石は英雄レクトね!」
「港を守ってくれてありがとよ!」
「相変わらず尋常じゃない戦闘力だな!」
「それにしてもレクト、一体いつ帰ってきたんだ?」
周囲の人々からは賞賛の声、御礼、質問など様々な声が上がっている。しかしレクトは面倒くさそうな顔をしながら、一番最後に質問をしてきた知り合いらしき漁師をつかまえてこう言った。
「礼や質問ならまた今度にしてくれ、俺はこれから用事がある。それと、騎士団への説明は任せたからな」
「説明?あぁ、なるほど」
漁師はレクトの言葉に首をかしげるが、すぐに納得したような表情になった。
見ると、向こうから甲冑を身につけた数人の男たちが走ってこちらへやって来ている。おそらく、港の近くに駐屯している騎士が、通報を聞きつけてやってきたのだろう。要するにレクトは、自分は状況説明をするのが面倒だからそっちは任せた、と言いたいのだ。
「じゃあな、頼んだぞ」
だが、それだけ言って立ち去ろうとしたレクトを、今度は子供たちが取り囲む。よく見るとつい先程、“元騎士のエリート”教師に見捨てられた子供たちのようだ。
「なんだガキども、何か用か?」
「あ、あの!レクト・マギステネル様ですよね!?」
「あぁ、そうだが」
先頭にいたやや興奮気味の少年の質問に、レクトは真顔のまま答えた。
ただ、レクト自身もこうやって子供に囲まれるのは初めてのことではない。強大なモンスターを倒したり、街や国を救う度に経験してきたことだ。もっとも、そういう時はいつも真っ先に子供たちのターゲットになるのはリーダーである勇者ルークスだったが。
「少し質問してもいいですか!?」
「別にいいが、なるべく手短に頼む」
レクトは面倒くさそうに答えるが、子供たちを邪険に扱うようなことはしなかった。大人たちからの質問に比べれば、子供の質問に答えることなど容易いことだと思ったのが一番の理由である。
こうして、子供たちとレクトとの質疑応答が始まった。
「どうやったらあなたみたいに強くなれますか!?」
「毎日欠かさず鍛錬しろ。才能だけで強くなれたら誰も苦労しねえ。あと勉強もサボるんじゃない」
「やっぱり、勉強も必要なんですか?」
「当たり前だ。戦闘においては力だけじゃなく知識も重要になる。無知な人間が戦場に出ても早死にするだけだ」
「薬学や化学はわかりますけど、数学が戦闘で何の役に立つんです?」
「騎士だって爆薬の効果範囲や船の移動速度を計算しないとは限らないだろ。俺も剣士だが、人生の中で複雑な計算が必要になった経験は5回ぐらいあるぞ」
「おぉ、なるほど!」
レクトは子供たちからの質問を次々に捌きながら、コートに付いた水滴を手で払っている。最初にことわった通り手短に答えてはいるものの、質問の答え自体はちゃんとしていたので子供たちからは次々に歓声が上がっていた。
そうやって一通りの質問が終わったところで、レクトは再びコートを着なおして大剣を背負う。
「じゃあなガキども。帰って鍛錬しろよ」
「「「はい!」」」
レクトは子供たちにそう言い残すと、串焼きの屋台へと戻る。
店主の方もいつの間にか先に屋台へ戻っていたようで、戦いを終えたレクトに向かって串に刺さった魚の塩焼きを差し出した。
「ご苦労さん、レクト。相変わらず常識外れの強さだな。とりあえず報酬の一部ってことでこいつでもどうだ?」
「あぁ、うん」
レクトは返事をしながら魚の塩焼きを受け取った。だが港が助かって機嫌の良い店主とは対照的に、レクトの方は何か考えこんでいるのか、心ここに在らずとでもいったような様子だ。
「どうした?何か気になることでもあったのか?」
いつになくレクトが考え込んでいる様子だったので、少し心配になったのか店主が尋ねた。レクトは少し黙った後、唐突な質問を店主に投げかける。
「なぁ、あんなのが名門校の教師なのか?元騎士のエリートだっていう割には、ビビって逃げ出したじゃねえかよ」
どうやらレクトは、先程クラーケンを前にして逃げ出した教師のことが気になっていたようだ。彼の行動そのものを非難しているというよりは、単純に呆れているのだろう。
しかし、今回の件に関しては相手が相手である。その教師をフォローするつもりなどはなかったが、店主はため息を吐きながらレクトの顔を見た。
「レクト。お前さん、自分を基準に考えるなよ?お前の強さは一般人からすれば規格外なんだからな?クラーケンみたいな化け物を目の前にして、正気でいられる人間の方が少数派だろうが」
「まぁ、それはそうなんだが」
レクトもその点に関しては一応の理解を示しているのか、店主の意見に反論はしなかった。だが焼き魚を一口かじった直後、レクトの口から唐突な発言が飛び出す。
「俺が言ってるのは、単なる強さの話だけじゃないがな」
「あん?どういうことだ?」
レクトの言っていることがわからない店主は、怪訝そうな顔をしながらレクトに尋ねた。だがレクトはその質問に答える代わりに、店主に背を向ける。
「ま、その話はまた今度な。ちょっとばかし急用ができた」
「お、おう…?」
急なレクトの対応に呆気にとられたのか、店主はやや困惑気味の声を漏らした。一方のレクトは背を向けたまま、店主に向かって軽く手を振る。
「あと、今日の約束のことは忘れんなよ。期限は1ヶ月以内で頼むぜ」
「おう、そっちは任せとけ。折角ならこっちもいい魚が入ったタイミングにしたいからよ」
「そうか、楽しみにしてるよ」
店主との一杯奢りの約束を再確認したところで、レクトはその場を立ち去る。そんな彼の視線の先には、遠くに見えるフォルティス王城があった。