リリアへの補習
その日の帰りのホームルーム。担任であるレクトが一通り明日の予定についての説明を終えると、今日はこれで解散となった…筈だったのだが。
「リリア、お前は残れ」
レクトから突然指名されたのは、朝のホームルームの時からずっとレクトに対し反抗的な態度を見せていたリリアであった。当然ながら、訳もわからずいきなり名指しで呼ばれたリリアは不満そうな様子だ。
「はあ!?イヤよ!どうしてあたしが残らなきゃなんないのよ!?」
リリアは即座に拒否したが、そんな事レクトが許す筈もない。リリアの言葉を聞いた瞬間、レクトからはとてつもない重圧と殺意が発せられた。
「いいから残れ。補習って言っただろうが」
「うっ!?」
目には見えないが、禍々しいオーラを纏ったようなレクトの一言にリリアは恐怖で足がすくんでしまった。
周りで見ていた他の生徒たちも内心恐怖を感じていたが、その一方で自分でなくて良かった、というどこか安堵したような表情も見せている。
「わ、わかったわよ。その代わり、さっさと終わらせなさいよ!」
こんな状況下で断れる筈もなく、リリアは渋々ながら受け入れた。嫌々であることは間違いないのだが、何となく断るともっと酷い目に遭いそうな気がしたのだ。
「それはお前次第だ」
レクトは軽く笑いながら答えた。だがその顔の裏には、とんでもない思惑が隠されていたのだった。
少しビビりながらも強気な態度を崩さぬリリアを連れてレクトが向かったのは、なぜか人里から少し離れた山奥であった。山自体はそれほど大きくはないが、危険なモンスターが出没することがあるので王国から許可された人間でないと立ち入ることすら禁じられている。
そんな訳で今現在、2人は深い森に囲まれた山道を歩いている。とはいえ元々リリア自身が未だにレクトが本物の英雄であると信じていないということもあり、当然の如く不満タラタラであった。
「なんであたしがこんな山奥まで足を運ばなきゃなんないのよ?」
リリアは文句を垂れたが、それもそのはず、かれこれ30分は山道を歩きっぱなしなのだ。疲れるというのもあるが、それ以上にリリアはこの状況自体が気に食わないのである。
「だから補習だってさっきから何度も言ってんだろ。課題こなしたらさっさと帰してやるからよ」
レクトの方もややいい加減な様子で答える。というのも、先程から既に何度もこのようなやり取りが繰り返されていたのだ。いい加減飽きたのだろう。不満そうな表情のまま、リリアはレクトに尋ねる。
「ねえ、課題って一体何なのよ?」
「あるモンスターと戦ってもらう」
レクトは即答するが、そんな回答でリリアが納得する筈もない。なぜなら、レクトの回答には答えるべき重要な部分が抜けていたからだ。溜まりに溜まったものが遂に爆発し、リリアは声を荒げる。
「だから!そのモンスターが何なのかってさっきから聞いてんのよ!!」
「すぐにわかる」
頑なに課題の内容を教えようとしないレクトに対し、リリアの不満は更に募る。しかしそれから間もなくして突然レクトが立ち止まり、木々の向こうを指差す。
「いたぞ。今回の課題はあいつだ」
そう言ってレクトが指差した先には、ライオンのような姿をした5メートルはあろうかという大きさのモンスターがいた。
こちらにはまだ気付いていないようだが、どう見てもその辺にいる野良モンスターとは格が違う。しかもよく見ると尻尾の先が蛇になっており、それを見たリリアの顔が一気に青ざめた。
「ちょっと!あれ、『キマイラ』じゃないの!?」
キマイラは魔族によって作り出された合成生物だ。非常に獰猛な性格で、視界に入った者には見境なく襲いかかる。単純な強さも半端ではなく、生半可な冒険者であれば巨大な爪の一撃だけで沈められてしまってもおかしくはない。
しかも、悪い情報はそれだけではなかった。追い討ちをかけるかのようにレクトからは更に驚愕の事実が告げられる。
「ただのキマイラじゃねえ。最上位種の『キングキマイラ』だ」
「冗談じゃないわよ!普通のキマイラでさえ、王国の騎士が数人がかりで討伐するような相手なのよ!?」
リリアの言うようにキマイラは普通、単独で相手をするようなモンスターではない。しかも最上位種となれば尚更だ。猛反発するリリアだが、目の前の男はそれを聞き入れるどころか薄ら笑いを浮かべながら挑発するような口調で返す。
「お前、確か最初の自己紹介で“あんたなんかに教えてもらうことなんてない”とか言ってたよな?それなら、キマイラとの戦い方だって教えなくても全く問題ないってことだ」
「あ、あれは言葉のアヤというか…!」
リリアは先程までの態度が嘘のように慌てふためいている。もっとも相手は手練れの冒険者の命でさえ易々と奪うような化物だ、怖くないという方がおかしい。
ところが、レクトは彼女のそんな様子を見た上で無情に言い放つ。
「とにかくあいつと戦ってこい。別に討ち取れなくてもいいから」
「イヤよ、絶対にイヤ!あたし帰るからね!」
キマイラに気付かれてしまう事など考える余裕もなく、リリアは大声で喚く。当たり前であろうが、断固として戦いたくないようだ。
そんな彼女を見て、レクトは冷めたような態度で溜め息をついた。
「あっ、そう」
このままではラチがあかないと判断したレクトは、近くにあったそこそこ大きめの石を拾い上げ、キングキマイラ目がけて結構な勢いで投げつけた。
石は見事なコントロールで頭部に命中し、キマイラもようやくこちらに気付く。当然であるが、石をぶつけられたことに対して怒り心頭で敵意むき出しである。
「ちょっと!何やってんのよ!バカじゃないのあんた!?」
やや冷静さを欠いた様子のリリアが文句を言いながら横を向くと、つい先程までそこにいた筈のレクトの姿が忽然と消えていた。戸惑うリリアに対し、頭上から声が聞こえてくる。
「さて、これで帰ることはできなくなったな?あいつ図体はデカいけど、馬並みに速いし」
リリアが近くにあった大木を見上げると、いつの間にか十数メートルほど上にある太い枝の上にレクトが立っていた。ほんの一瞬であの高さまで登ったのは驚異的ではあるが、リリアにとっては今はそんな事などどうでもよい。
そうこうしている間にもキマイラは徐々にリリアの方へとにじり寄り、距離を詰めてきている。本来ならば石を投げたレクト本人が狙われる筈なのだが、レクトの思惑通りキマイラはリリアが石を投げた張本人であると思い込んでいるようだ。
リリアは頭の中がパニックになりながらも、文字通り高みの見物を決め込んでいるレクトに向かって叫ぶ。
「こ、こんなことしてタダで済むと思ってるの!?あんた間違いなく校長先生から処罰されるわよ!」
リリアの言う通り普通に考えればこんな状況、厳重注意どころでは済まされないだろう。だがレクトから返ってきた答えは、彼女の予想を裏切るものであった。
「校長からは、“不測の事態が起こっても何とかできるのであれば構わない”と出発前に許可は取ってある」
それを聞いたリリアは絶句した。しかし、正面にいるキマイラは待ってはくれない。彼女を睨みつけながらゆっくりと歩み寄ってきている。
その様子を面白そうに見ていたレクトは、今日の補修に関する重要なキーワードを告げた。
「ヤバそうだと思ったら、“先生助けて”って言ってくれ。そうしたら助けてやる」
「絶対に言わないわよ!バカじゃないの!?」
レクトの申し出を、リリアは全力で拒否する。ただでさえこの男が英雄であると信用していないのに、その上こんなにも人を小馬鹿にしたような人間に助けを求めるなど、優等生である彼女のプライドが許す筈がない。
だがレクト自身もその答えは予想していたようで、依然薄ら笑いを浮かべたまま言葉を返す。
「そうか、じゃあ頑張ってくれ」
そう言い残すと、レクトは枝に腰をかけ、傍観するのかと思いきや懐から本を取り出して読み始めた。
1人残されたリリアは、改めてキングキマイラと対峙する。向こうは敵意こそ剥き出しだが、まだ数メートルは離れているこの距離であれば魔法で先制攻撃ができる。彼女は迷う間もなく魔法の詠唱を行った。
「なめるんじゃないわよ!ウインドカッター!!」
数枚の風の刃が、キマイラの顔面に直撃した。どうやら効果はあったようで、正面からモロに魔法を喰らったキマイラは、怯んで唸り声を上げた。
それに確かな手応えを感じたリリアは、木の上で読書中のレクトに向かって自慢げに叫ぶ。
「見た!?エセ英雄!私の魔法はそこらのダメ教師顔負けなのよ!」
「前向いた方がいいぞ」
彼女の方には目もくれず、レクトは本を読みながら忠告をする。リリアは自分の実力を認めようとしないレクトに対してイライラしながらも、キマイラの方に向き直る。だが、そこで彼女は言葉を失った。
「え…?」
驚くべきことに、先程自分が魔法を思い切り当てた筈のキマイラがすぐ目の前にいたのだ。決してダメージが入らなかったというわけではないが、それでも彼女の魔法ではキマイラの顔に軽い切り傷を負わせた程度であった。
「嘘!?」
頭が状況を理解する前に、キマイラに前脚で思い切り殴りつけられた。ただ一撃殴られただけだというのに身体のあちこちが軋み、悲鳴を上げる。
数メートルほど吹き飛ばされて木に激突すると、リリアの身体はそのままズルズルと地面に崩れ落ちた。
(ウソ…何で?あたしの魔法が効いてない?しかもたった一撃で?こんな?)
リリアはこれまでも訓練の中で何度かモンスターと戦ってきたが、こんなダメージを負ったのは初めてだった。というより、このキングキマイラはこれまで彼女が戦ってきたモンスターとは桁違いの強さであったのだ。
痛い。怖い。死にたくない。
そんな思いがリリアの頭の中を駆け巡る。朦朧としながらもレクトを見上げるが、レクトは相変わらずこちらには目もくれずに木の上で本を読んだままだ。
すぐさま逃げなければ確実に2撃目を喰らってしまうのは明白なのだが、体勢を立て直そうにも身体に力が入らない。先程の一撃で受けたダメージと恐怖心で、身体が思うように動かないのだ。
(うそ…わたし、死ぬの?こんなところで…?)
キマイラが段々と近づいてくる。立たなければ、逃げなければ、そうでないと確実に殺される。それでも、身体は言う事を聞かない。己の無力さを思い知り、なす術もない状況に、リリアの目からは自然と涙が溢れてきた。
(嫌、嫌、イヤ…!!)
眼前に迫ったキマイラが巨大な爪を振り下ろす。その極限状態の恐怖心が、遂に彼女に残された最後のプライドを打ち砕いた。
「先生、助けて!!!」
リリアは今日一番、いや、もしかしたら今まで生きてきた中で一番大きかったかもしれない程の叫び声を上げた。しかし振り下ろされたキマイラの爪は止まらない。もう駄目かと涙で霞んだ視界の前に、1つの影が飛び込んだ。
「え…?」
リリアの目の前には、木の上にいた筈のレクトが立っていた。信じ難い話ではあるがあの離れた位置から一瞬で彼女とキングキマイラの間に割り込み、振り下ろされた爪を大剣で受け止めたようだ。
キマイラはかなり興奮した様子で鼻息を荒くしているが、対照的にレクトは涼しい顔で笑いながら言った。
「ちゃんと言えたじゃん、“助けて”って」
ぽかんとしているリリアを尻目に、レクトはキマイラの顔面を蹴飛ばす。その一撃でキマイラの巨体は10メートルほど吹っ飛ばされ、地面に転がった。
レクトは仰向けになったキマイラの方を見ながら、リリアに対して本当の意味での“指導”を始める。
「1人で何でもかんでもできると思うなよ。戦場では思い上がりの激しい奴ほど早死にする。あと日常生活ならともかく、戦場ではつまらない意地なんて絶対に張るもんじゃない」
レクトなりの説教のつもりであったが、リリアの耳にはほとんど入っていなかった。とはいえ、それは決してレクトの話を聞き入れたくないということではない。単純に、目の前で起きていることがあまりにも壮絶過ぎて彼の言葉が頭に入ってこないのだ。
吹き飛ばされたキマイラはすぐに起き上がり、レクトに向かって巨大な咆哮を上げる。どうやら、レクトのことを完全に敵だと認識したようだ。助走を付け、猛烈な勢いでレクトに向かって突っ込んでくる。
「キマイラ種は魔法に対する耐性が強いからな。一番手っ取り早いのは…!」
レクトはキマイラに対しての戦い方を説明しながら、大剣を構える。突進してきたキマイラが自身の間合いに入った瞬間、レクトは目にも留まらぬスピードで大剣を振り抜いた。
「ヤツを上回る力で正面から真っ向勝負することだ」
血しぶきを上げながら、キマイラの首と胴体が離れる。呆然と見つめていたリリアの目の前には、たった今一撃の下に切り落とされたキングキマイラの首が転がり落ちた。
レクトは大剣を地面に突き刺し、ニッと笑いながらリリアに問う。
「どうだ、理解できたか?」
「う、うわあああぁぁぁん!!」
しかし緊張の糸が切れたのか、リリアは返事をするどころか大声で泣き出してしまった。戦闘が終わって静寂を取り戻した森の中に、彼女の泣き声がこだまする。
「…流石に刺激が強すぎたか」
大声で泣き喚く少女を前に、やりすぎたと少しだけ反省したレクトは頬をかいた。
その後、大きなダメージを負ったリリアはレクトが事前に用意しておいた回復薬によって治療を受けた。一体どこで調達したのか、市販品の薬とは比べ物にならないほどの効き目であり、数分経つ頃には痛みはほとんど無くなっていた。
帰り道では気まずさからか2人ともしばし無言であったが、ふとリリアの方から口を開く。
「あの…」
「ん?」
リリアは何か言いたい事があるようだが、まだ少し言葉に詰まっている。それでもようやく決心が付いたのか、やや恥ずかしそうな様子で目を伏せながら大声で言う。
「と…とりあえずあんたが本当に世界を救った英雄だってことはよくわかったわよ!レクト…先生」
気恥ずかしかったのか、最後の“先生”だけは少し小声であった。一番反抗的だったリリアがもう自分の名前を、しかも先生と付けて呼んだことにレクトは少し驚いたが、彼にとってはある意味予定通りとなった。
「お?素直に先生って呼ぶ気になったか」
「あ、あんなデタラメな強さ見せつけられたら誰だって逆らう気なくすわよ!それに、また反発したら今度は何されるかわかったもんじゃないし…」
茶化すように言うレクトに、リリアは再び猛反発する。もっともこれに関してはレクトの事をある程度信用した上での反発らしく、どうやら今回の一件は彼女の中ではそうとう堪えたようだ。
「なら、今後は俺の授業マジメに受けるな?」
「うるさいわね、わかってるわよ!」
リリアの返事はやや反抗的ではあったものの、その言葉に嘘偽りはなさそうであった。