英雄色を好む
時刻は既に午後の10時半をまわろうとしているところである。S組メンバーが泊まっている大部屋には既に人数分の布団が敷かれており、メンバーは皆寝巻き姿で就寝前に思い思いの時間を過ごしていた。
「…この場合は海上で上昇気流が発生し、それによって水分を多量に含んだ空気が…」
フィーネは自ら参考書を持ち込んだようで、修学旅行であることなどお構いなしに勉強している。とはいえフィーネが所構わず勉強をすることなど他のメンバーにとっては周知の事実なので、今更誰も何も言わない。
「あ、わたし終わりです」
「またアイリスかよ!」
「本当に引きが強いわね…」
アイリス、ベロニカ、エレナ、そしてサクラの4人は飛行船の中でやっていたものと同じカードゲームをしていた。といってもサクラは初心者なので、アイリスに手ほどきを受けながらゲームを進めている。
「な、なかなか難しいですね…」
「カードは出し渋らない方がいいですよ。あまり温存はせず、行けると思ったら迷わず出すのがベターですね」
ルール自体はそこまで難しいゲームではないのだが、地味に戦略性を問われるのと多少なり運に左右されるのがカードゲームというものである。その上、教えているアイリスの引きが異常なまでに強いのもあって、サクラは中々勝てていないようだ。
「お腹いっぱ〜い。もう食べられない〜」
「みっともないからお腹ぐらい隠しなさいよ」
肉と野菜でパンパンに膨れた腹を丸出しにしながらゴロゴロしているニナを見て、リリアが呆れたように言った。そのリリアは何をしているのかというと、なんと日記を付けている。どうやら彼女にとっては習慣的なものであるらしい。
そしてルーチェは、窓際の椅子に座りながらいつものように本を読んでいる。フィーネと同じく、彼女も場所が変わってもやることは変わらないといったところだろう。
そうやって皆が夜のひとときを過ごす中、とある人物によってその和やかな空気が破られることとなった。
「あっ!」
唐突に何かを思い出したのか、それまで熱心に勉強していたフィーネが急に大きな声を上げた。それによって、くつろいでいた皆の視線が一斉に声の主であるフィーネへと注がれる。
「何?一体どうしたのよ」
日記を書く手を止め、リリアが怪訝そうな顔をしながら尋ねた。当然だが、他のメンバーも何事かと言ったような様子でフィーネを見ている。
「明日の朝、何時に起きればいいのか先生に聞いてなかったわ!」
フィーネはかなり切羽詰まったような様子で答えた。ところが、焦るフィーネとは対照的にそれを聞いた他のメンバーの反応は割とあっさりしていた。
「別に必要ないんじゃない?普通に7時ぐらいまでに起きておけば先生も文句言わないでしょ」
「そうですね。特に何も言わなかったっていうことは、先生も具体的に指定する気は無かったんじゃないでしょうか?」
特に気にした様子もなく答えるリリアに、アイリスが更に同意する。しかし、変なところまで真面目なフィーネは頑として譲らなかった。
「ううん。私、先生に聞いてくる!」
そう言い残し、フィーネは寝巻き姿のまま部屋を飛び出していった。もっとも今この旅館に宿泊しているのは彼女たちと話に挙がったレクトだけなので、他の客に見られるという心配は無いのだが。
「ま、フィーネらしいといえばらしいけど」
「そうね。まあ聞きに行くっていっても隣の部屋だし、フィーネに任せておきましょう」
そう言って、ベロニカとエレナはカードゲームを再開する。しかしエレナが少し悩んでカードを出した直後、部屋の扉が再び開かれフィーネが姿を表した。時間に換算するとわずか十数秒である。
一応、目的地は隣の部屋なのでそこまで不思議なことではない。だがベロニカたちが「どうだった?」と聞く前に、フィーネが少し困惑した様子で口を開いた。
「レクト先生、いないんだけど」
フィーネのその言葉を聞いて、全員が顔を上げた。正直なところレクトが自分勝手かつ自由奔放なのは今更なのだが、こんな時間に何処へ行ったのだろう、ぐらいの疑問は全員に浮かんだ。
ここでふと、ベロニカがある事を思い出す。
「そういえばセンセイ、夜中に酒飲みながら風呂入るとか言ってたよな。だったら今は露天風呂にでもいるんじゃないか?」
「あぁ、確かに言ってたわね」
ベロニカの話を聞いて、フィーネも納得したような表情になった。
「じゃあ私、露天風呂に行ってみるわね」
そう言って、フィーネは再び部屋を出ようとする。だがそれを聞いて、それまでゴロゴロしていたニナがガバッと起き上がった。
「えっ、フィーネちゃん男湯に入るの!?」
先刻の女湯での一件もあってか、ニナは大層驚いている。とはいえ今はあの時のように緊急事態というわけでもないし、フィーネだって別にレクトの裸を見るのが目的というわけではない。
フィーネは少し顔を赤くしながら、怒鳴るように答える。
「心配しなくても、ちゃんと扉の外から声をかけるわよ!」
「あぁ、それなら安心だね!」
怒っているフィーネとは対照的に、ニナはあっけらかんした様子で再びごろんと床に寝転がった。
最早返す言葉もなく呆れたフィーネが部屋を出ようとすると、今度はカードゲームの途中であった筈のエレナが自分の手札を床に置き、すっくと立ち上がる。
「待って、私も行くわ」
「エレナさん?どうしたんです?」
急に立ち上がったエレナを見て、アイリスが尋ねた。ゲーム自体は相変わらずアイリスがぶっちぎりであったが、エレナは負けているからといった理由で勝負を投げ出すような人物ではないからだ。
「いくら高級な宿だとしても、もう時間も時間だし明かりは少なくなってる筈でしょ。フィーネ、暗いの苦手じゃない」
つまるところ、怖がりのフィーネが少し離れた場所にある露天風呂まで移動するのは心細いだろうから、自分もついて行こうという話である。しかし暗い所が苦手であるなど、そんな事を急に指摘されてフィーネも黙っている筈がない。
「こっ、怖くないまにょ!」
「思いっきり噛んでるわよ」
指摘されて動揺したのか豪快に言葉を噛んだフィーネを見て、エレナが冷静にツッコミを入れた。そんな2人のやり取りを横目にリリアは日記帳を閉じると、これまた先程のエレナと同じようにすっくと立ち上がる。
「あたしも付き合うわ。ちょうど手が空いたところだし」
どうやら、リリアも日記を書き終えたようである。担任であるレクトに時間を確認しにいくだけなのでわざわざ3人で行く必要も無いのだが、かといって別に大人数でも困るということは特にない。
結局、3人でレクトのいるであろう露天風呂へと向かうことになった。
明かり自体は灯ってはいるが、消灯時間ということなのであろう、やはり廊下は若干薄暗かった。その薄暗さにフィーネは少しビビりつつも、前を歩くエレナとリリアについて行く。
とはいえ露天風呂へは基本的に一本道ばかりであり、その上夕方に一度行っているので迷うことはない。そうやって3人が歩いていると、先頭を歩くエレナがあることに気付いた。
「あれ?あの部屋って確か夕食の時に行った宴会場よね?」
そう言って、エレナは自身の数メートル先にある部屋を指差す。確かに彼女の言う通り、1時間ほど前に食事をとった宴会場に間違いなかった。
「それがどうしたのよ?」
リリアがごく当たり前の反応を示す。今は宴会場には用がないので、当然といえば当然の反応だ。だが、エレナが言いたいのは部屋の中の事についてであった。
「ほら、明かりが点いてる。私たち以外に宿泊客はいない筈なのに」
「あ、本当ね」
エレナに言われて、フィーネも少し不思議そうな表情になる。だがリリアはあまり気にならないのか、手を腰に当てながら真顔で答えた。
「清掃中とかなんじゃないの?」
「こんな時間に?普通は午前中とかにするものじゃないかしら」
「うーん、そうねぇ…」
フィーネとしてはこんな夜遅くに部屋の清掃をするなど、少しおかしいと思ったのだろう。その意見にはリリアも一理あるといった反応を見せるが、答えを出すよりも先にエレナが更に別のことに気付いた。
「シッ!2人とも静かにして!何か聞こえるわ」
エレナに言われ、フィーネとリリアの2人は少し黙る。すると、宴会場の中から1人のものではない声が聞こえてきた。
「やっぱヤマトの女は色白でいいよなぁ。これって何も塗ってないよな?下はどうなってんの?ちょっと見せてくんね?」
「やん、もう!レクト様の助平〜!」
部屋の中から聞こえてきたのは、明らかに3人の知っている人物の声であった。しかももう1人の女性の台詞の中に、どう考えてもその人物の名前としか思えない言葉が含まれていた。
「この声、先生の声よね?」
「そうね。あとは女の人の声もしたわ」
フィーネの疑問に対し、エレナが即答する。当然だが、2人とも険しい表情を浮かべている。その理由は明白だ。
「あたし、嫌な予感しかしないんだけど」
「それは私も同じよ」
警戒しているリリアに、エレナが同意するように頷く。できればこのままスルーしたいところではあるが、何しろ今の目的はレクトに会いに行くことである。そのレクトが目の前の部屋の中にいるのであれば、部屋の中に入る他なかった。
「…開けるわね」
小さな声で呟きながら、フィーネは横開きの扉に手をかける。不安しか無いのは3人とも同じであるが、誰かが扉を開けなければ部屋の中には入れない。意を決して、フィーネは扉を開けた。
「失礼します。あの、レクト先せ…」
言いかけて、フィーネは固まった。確かに部屋の中には目的の人物がいたのだが、フィーネが固まってしまったのはその状況に原因があったからだ。
「ちょっと先生!何やってるんですか!?」
思わずフィーネは大声になった。というのも、部屋の中央にいたレクトは右手におそらく…というか間違いなく酒であろう液体の入った陶器の入れ物を持っていた。
そこまでは良いのだが(良くはないが)、なんと左側には着物のはだけた半裸の女性を抱き寄せており、左手は女性の着物の下半身に思いっきり突っ込まれている。しかも、突っ込みどころはそれだけではない。よく見るとレクトの周りには同じく着物の女性が全部で4人、もれなく全員が半裸である。1人に至っては大事な部分だけ隠しただけのほぼ全裸と言ってもいい。
一応、奥にはちゃんと着物を着て酒や料理を用意している別の女性…もとい旅館の従業員も立っているのだが。
「ん?」
フィーネの大声に気付いたのか、レクトは声のした扉の方を見た。無論、右手には酒の入った器が握られ、左手は女性の着物を弄ったままである。
「あれ、何やってんだお前ら?」
「それ今、私が質問したばっかりです!」
レクトは呑気に質問するが、当然の如くフィーネは怒り心頭だ。当たり前だが、潔癖なエレナに至ってはこんな事が目の前で繰り広げられて我慢できる筈もない。
「不潔です先生!わざわざヤマトにまで来てこんな事してるんですか!?」
セクハラというレベルを軽く超えているレクトに対し、激昂という表現がピッタリな様子でエレナが叫んだ。ところがそれを聞いたレクトは急に真面目な顔つきになると、諭すような口調で語り始める。
「愚か者。これはユウジョという歴としたヤマトの文化だぞ。フォルティスでいうところの娼婦に…」
「聞いてませんよ!!」
レクトの話を途中で遮るように、エレナが怒鳴り散らした。しかしレクトは反省の色など全く見せずに、右手に持った酒をぐいと一飲みする。そうして空になった器と女性の身体から手を離すと、レクトはゆっくりと立ち上がった。
「大体、お子様はもう寝る時間だぜ。というよりまず、こういう光景を見るのは教育上よろしくないな」
「その前にあんたは教育者でしょうが!」
どうにも締まらないレクトに対し、リリアからある種的確なツッコミが入る。が、それにもかかわらず上機嫌のまま近寄ってきたレクトを見てリリアは更に顔をしかめた。
「てゆーか、お酒くさっ!どんだけ飲んでんのよ!?」
近くにくると、明らかにレクトが酒を飲んでいることが臭いでわかった。もっともそれ自体は顔が赤くなっている時点で既にわかっていたのだが、かなり臭いがきついことから飲んでいる量も相当なようだ。
「大丈夫だ。今はまだ泥酔の一歩手前ぐらいだからよ」
「そういう問題じゃないです!!」
尚も呑気な様子で話し続けるレクトに、エレナが怒号を浴びせた。一方で当たり前のように反省の色を全く見せないレクトは、思い出したように3人に尋ねる。
「んで?話を戻すけど。俺になんか用があったんじゃないの?」
「…明日の朝、何時までに起きておけばいいですか?」
フィーネは怒りを抑えつつ、当初の目的であった事を質問した。それを聞いたレクトは「はーはー」と軽く呟くと、後ろで新しい酒の準備をしている従業員の方を向く。
「ねーちゃん、明日の朝メシの時間ってわかる?」
「7時半の予定ですわ」
「おー、さんきゅー♪」
陽気な様子で従業員に礼を言うと、レクトは改めてフィーネたちの方を見る。相変わらず酒臭いのはご愛嬌だ。
「じゃあ7時ね。7時までには起きとけよ。夜更かしして寝坊すんなよ?」
「あんたが一番心配よ!」
リリアが至極真っ当な返答をした。確かにこれだけ呑んでいれば、泥酔して翌日寝坊してしまうという結果が想像に難くない。
「だーいじょぶだって。このぐらいで寝坊なんかするかっての」
リリアの心配を他所にレクトはひらひらと手を振ると、部屋の中央へと戻っていく。そうかと思えば、今度は自身のすぐ近くにいた女性に後ろから抱きついた。
「スミレちゃん、つーかまーえた!美味しそ〜」
「やん、食べられちゃう〜」
「ホントに食べちゃっていーい?」
最早フィーネたち3人のことなど目に入っていないのか、レクトは完全にお遊びモード全開である。こんなのが魔王を倒して世界を救ったなど、心の底から否定したくなるような光景だ。
「私、生まれて初めて担任の先生を背後から刺してやろうかと思ったわ」
「やめときなさい、どうせ躱されるわ。気持ちはわかるけど」
らしくない強烈な皮肉を言うフィーネを、リリアがたしなめる。これ以上この場にいても怒りの感情しかこみ上げてこないので、3人はさっさと部屋に戻ることにした。
3人が部屋に戻ると、先程と同じようにカードゲームに没頭していたベロニカが顔を上げて出迎えた。
「おー、おかえり。やっぱりセンセイ露天風呂だった?」
「知らないわよ!」
エレナはやや乱暴に答えると、ずんずんと足音を立てながら自身の布団へと向かう。それを見たベロニカは、首をかしげながらフィーネの方を見た。
「なに?なんかあったの?」
「…後で話すわ」
怒っているエレナとは対照的に、フィーネはひどく疲れた様子である。誰がどう見ても何かとんでもない事があったのは容易に想像ができる。そんな中、部屋の奥から本に顔を向けたままのルーチェの声がした。
「大方、先生が女遊びでもしてたとかなんじゃないの?」
「…」
勘の鋭いルーチェの一言に、フィーネとリリアはただ黙っているだけであった。しかし、裏を返せば2人のその沈黙が全てを物語っていたといえよう。
結局、時刻が午後の11時をまわる前に全員は床についたのだった。
修学旅行編、ここまでで丁度折り返しとなります。
余談ですがアイリスたちがやっていたカードゲームに関してはどういったものかまでは細かく決めていませんが、トランプの大富豪やUNOのようなものだと思ってください。