おじさんはおいしい
三十路を超え四十が近くなると色んなことを経験する。
だからまあ、ちょっとやそっとのことでは驚かないし、大声を上げることなんてできるほどの若さはない。
だから。
「ええ……このタイミングで?」
風呂に入っていたところにいきなり傷だらけの化け物が現れても困惑するだけだ。
「どうすんだこれ、警察か?それともここで俺は死ぬのか?」
出入り口がふさがれてしまった以上俺にできることはない。
不思議なほど冷静なのはもう諦めているからだ、慌てふためいても何にもならないことの分別はつく。
これはどうにもならんやつだ。
「……動かない?」
目の前の化け物がうんともすんとも言わないものだから余裕が生まれてしまった。
「逃げれるか……?」
無理だ。余裕が生まれただけで状況は全く変わっていない、どう頑張っても出られないのは変わりない。
「やっぱ詰んでるな……」
ここはもう大人しく風呂に浸かっておくしかない。
「……おらっ」
せめてもの抵抗にお湯をかけてみる。
よく見たら超大型の犬のような姿だが湯が弱点だったりしないだろうか。
「うおう!?」
動いた。
びたんびたんのたうちまわってる。
キモいな。
「……な……い」
喋った。
何で理解できるのかは全く分からないが分かった。
「死にたく……ない……」
ダメだ。
これを言われてしまうと助けざるを得ない、死にゆくものをそのままにしておけない。貰い物の命で生きている俺は助けずにはいられない。
「……どうやったら良いんだ?何をしたらお前は助かる?」
全裸では出来ることは少ないだろうが。
「血……血が……足りない、寒い……さびしい……」
「分かった」
化け物の牙で手首を裂く、このサイズなら指先なんかじゃ足りないだろう。
「飲め」
寒いと言っていたな、シャワーで湯をかけてやろう。
残りはさびしいだったか。
「若いイケメンじゃなくて悪いな」
血で赤黒く染まった体に体を密着させ空いている手で頭を撫でる。家で飼っていた大型犬を思い出す。合わせて今までの思い出もたくさん。
「走馬灯か、本当に見るんだな……」
血が抜け出ていき寒気がすごい。ここで死ぬのか……誰かを助けて死ぬなら悪くない。これで、命を生ききることになるかな。
視界に靄がかかる、思考に霞が降りる。
自分の境界が分からなくなる。
「この恩は……決して忘れない……我が誇りにかけて報いてみせる」
何か声が聞こえた気がした……死ぬ間際の幻聴だろう。
そこからは暗闇だった。
落ちていくようでもあったし、昇っていくようでもあった。
微睡みの中のようにはっきりしない、だがある時に光が差した。太陽のような温かな光ではない、月のごとき鋭利な冷たい光だ。
続いて音だ。
何かを舐めるような音がする。
次は匂い。
ふわりと香るのは金木犀だろうか、いや別段花には詳しくないから別の花かもしれない。
最後は感触だった。
舐めるような音は実際に舐める音だった。俺の顔が舐められている。
一気に意識が覚醒した。
「なんだ!?」
大きい声が出た、存外若かったようだ。
「きゃん!?」
高い声、恐らく女性。声のした方を向く。
「あの……どちら様ですか?」
見たことのない人だった、というか人かどうかも怪しい。
体は人だ、だが顔は獣だった。正しくは人よりの獣顔と言ったほうがいい。
「マスク……ですか?」
心底驚いたような顔をしている、ように見える。
「っ!!!」
「あのっ……」
走って行ってしまった。
どうしたものか、ここがどこかも分からない。加えてあの獣顔だ。何が何だか分からない。分かることは俺がまだ生きていて、布団に寝かされているということだけである。
「困った……」
もしかしたら舐められていたのは味見かもしれない、踊り食いというのもありうる。
「逃げるか」
前の浴槽よりは手段を選べる、武家屋敷のような景色を見る限り庭を抜ければ外だろう。
やることが決まれば行動あるのみだ。
「はぁ……はぁ……久しぶりに走ると……ダメだな……息が……もたない」
普段の不摂生を嘆くばかりだ、だがあっさりと脱出できたは良いがますます意味が分からない。
「ここは……どこなんだ?」
長屋のような家々、そこらで遊ぶ子供達。圧倒的に違うのはその多様性。人種どころではない。
種が違う、進化の過程が違う、生まれた惑星が違う。
文化が違う、原理が違う、世界の法則が違う
そんなレベルの違いだった。
疑いようものない、ここは完膚なきまでに異世界だった。
「はは、あと20年若ければな……」
「ようおっさん、良い匂いさせてんじゃねえか。いくらだ、買ってやるよ」
話しかけられた、体格のいい若者。角が生えている。鬼だろうか。買ってやるとはなんのことだろう。
「私は別に物を売っているわけでは……」
「はあ?何言ってんだよ。お前を買うって言ってんだろうが、腕か足か血かそれか内臓しかねえだろ人間」
「はは……ご冗談を……」
「さてはおめえ……迷いだな。着てるもんが上等だから高級身売りかと思ったが……」
にやりと顔が歪む。
「こりゃあ当たりだなあ」
ぞくりと背筋が凍る、これは初めての感覚だ。食べられるという危険、普通ならありえないはずの危険を全身で察知していた。
「食べるならもっと若くて美しい者の方がいいのではないですか」
なんとか口を回す
「はぁ……分かってねえなあ。お嬢はそんなもんはとうに食い飽きたんだとよ、熟成されたもんが食いてぇんだと」
なんだこいつ、グルメなのか。違うなお嬢と呼ばれてるこいつのボスがグルメか。
そんなことはどうでもいい。このままでは食われる。
「し、しかし私は食べれる部位も少ないですし……」
「多いか少ないかを決めるのはお前じゃねえ、お嬢だ」
決定権までないときた、本格的に退路がない。逃げようにも恐らくすぐに捕まってしまう、なんとかならないか。
諦めるか……いやまだ早い。何か打開策があるはずだ。
「すまないが、そちらの人間は当家の預かりだ。こちらに渡してもらおうか」
見ると着物を着た綺麗な女性がそこに立っていた。
救いの手が差し伸べられた、のか?
危険かもしれないがそれでも今はすがるしかない。
「ああん?ウチがどこか分かって言ってんのか?」
「丑虎の姫君とは懇意にさせてもらっているが」
「なんだよ……お嬢の知り合いかよ……。そこのおっさんには首輪か何か付けておいた方がいいぜ。ある程度鼻がきく奴らなら気付くくらいには香ってるからな」
「お心遣い痛み入る、それではこれで」
「へいへい、下っ端は怖い大神に噛まれねえうちに逃げますわ」
助かった……のだろうか。
「こちらへ」
手を引かれていった先は飛び出してきた屋敷であった。これは死んだかもしれない。しかし助けられたのは事実だ、礼を言うのが筋だろう。
「ありがとうございましたって……あれ ?」
隣にいない?
そんなはずはない、玄関を開けた時には確かに……
「礼を言うのはこちらの方でございます」
「うわっ!?」
いつの間にか中にいる、全然分からなかった……
「どうぞこちらへ」
言われるがままについていくと客間らしき場所に通された。
「お座りください」
「あ、はい……」
向かいに女性が座る、そして深々と礼をした。
「この度は末の娘が大変ご迷惑をおかけしました」
「……?」
末の娘?全く心当たりがない。
「お分かりにならないのも当然だと思われます、説明の方をさせていただきたく思いますがよろしいですか?」
「お願いします」
「ありがとうございます、入りなさい」
女性が手を打つ。すると奥の襖が開くそこには土下座の体勢の人がいた。
「今そこにいるのが私の愚妹です、あなた様をこちらに引き込んだ張本人となります」