第1章第9話 修学旅行当日⑧
そう、この場のどこを探しても唯の姿だけはどこにもないのだ。
当然、彼女の声も聞こえては来ない。
大和と明日香の二人だけがここにいて、俺のことを心配してくれていたことが伺える。
彼女がこの場にいた痕跡はどこにもない。
「あ、あ~」
「そ、それは」
そして、この二人の反応だ。
大和も明日香もあからさまに口を噤んで、何やらもごもごとさせながら、言おうか言うまいかを悩んでいるようなそんな素振りだ。
「ど、どうしたの・・・。大和・・・明日香・・・。」
まるで縋り付くように問いかけてしまう。
二人からはそのことに触れられたくはなかったようなそんな風にも思えてしまう。
「ねぇ、なんで教えてくれないの!?ねぇ、唯ちゃんはどこ!?ねぇ、どこなの!!」
あまりにも不自然な二人の態度に思わず声を荒げてしまう。
しかし、その問いかけの台詞は案の定、女口調へと変換されているからなのだろうか。
どことなく、娘の安否を心配する奥さんのようなものになってしまうが、今はそれどころではない。
どうして、この場に一番いて欲しい存在である“彼女”の唯がここにいないのか、その理由が知りたくて仕方がなかったのだ。
沈黙が走る部屋の中。
まさか俺がそんなことで激高するとは思っていなかったのかもしれない。
大和と明日香はお互いの顔を見合わせ合うと、お互いの意思を確認するような頷きをし、こちらに視線を戻してくれた。
そして・・・。
「遥。落ち着いて聞いてくれよ。」
その声は静かに、本当に静かに落とされた。
こんな風に大和が静かな口調で話を始めることなんてめったにない。
その上、その表情は明日香もそうだが、どことなく暗さというか“可哀想な。”そんな印象を滲ませていた。
「わ、わかった・・・。」
そんな風にされては、こちらも気構えてしまうというもの。
一旦、さっきまでの焦燥感や不安を隅へと追いやって、次の言葉を待つ。
「あ、あのな・・・」
「うん・・・」
大和の口はどことなく重く、次の言葉を発するのに数秒の時間が過ぎ・・・。
「唯ちゃんはお前が女に変わった瞬間に、「この人が起きたら言っておいて。「私女の子とお付き合いする気ないから別れるからって。もう私に話しかけてこないで。」って。それだけ言い残してここから消えたんだ・・・」
「ちょ・・・。大和、そんなことまで言わなくたって・・・。」
ついに大和の口から紡がれた言葉。
その言葉におそらく同じ空間にいて聞いていたであろう明日香は明らかな焦りとここでもまた“可愛想“なそんな感じを深めていた。
「え、は、う、嘘でしょ・・・。」
そして、そんな大和の衝撃的な言葉に愕然としてしまう自分がいる。
大和は言葉を告げた後、すぐに俺の顔を見て、申し訳なさそうにした、
「え、いや、そんな・・・。」
しかし、俺にはまだそれを受け入れることが出来ない。
頭の中に『「この人が起きたら言っておいて。「私女の子とお付き合いする気ないから別れるからって。もう私に話しかけてこないで。」』という言葉がずっと繰り返し反芻されていく。
その声も聞き親しんだ唯の声に置き換えられて、脳内を犯していく。
「い、いや、う、うそ、え、うそ、いや・・・。あ、え・・・。」
その度に口の端から零れ出て行くのは、信じたくないという心の表れのような短い言葉の羅列。
女の子と付き合う気はない・・・。別れる・・・・・。私に話しかけてこないで・・・。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
「う、うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁんんんんんんんんんんんん!!!」
「え、はるくん!?!?!?!?」
「遥!?!?!?!?」
もう我慢することなんてできなかった。
女になってしまったことを知ったつい先ほどのショックよりも大きな悲しみ。苦しみが大和に言われた言葉の意味を理解した途端、とめどない感情の波になって心に襲い掛かってきた。
涙がどんどんと瞳の奥からあふれ出しては、頬を伝ってぽたぽたと床へ落ちていく。
雫が小さな水たまりを作っていく。
「なんで・・・。なんで私がこんな目に遭わなきゃいけないの!?なんでなんでなんで!!!私、なんか悪いことした!?こんなひどい目に遭うくらいに悪いことした!?ねぇ、誰か教えてよ!!ねぇ・・・。うっうっ・・・、ひ、どいよ・・・。うわぁぁぁぁぁぁぁ、なんでよぉ・・・。」
「は、遥!!」
「はる君・・・。」
悲しみを吐き出すように叫んでしまう俺に対して、大和はまたもや俺のことを抱き寄せた。
そして明日香もまた口に手を抑えながら、励まそうと背中を優しく摩ってくれる。
しかし・・・。
「く、苦しいよぉ・・・。なんでこんなにも苦しいの・・・。」
呼吸が次第に浅くなっていく。泣きすぎると人はこうも弱っていくのか。
普段通りに息を吸うことも吐くこともできずに過呼吸に陥っていく。
そして、それと共に感じてしまうズキンズキンと響いてくる心の痛む。まるでナイフで心臓を抉り取られているように心が未だ感じたことのないほどの痛みを放っていく。
「もうだめ・・・。」
悲しみのせいなのか、痛みのせいなのか、それとも過呼吸による酸欠が原因なのか、視界がどんどんと端から黒く塗りつぶされていく。
「大丈夫だ。遥。大丈夫だからな。俺たちがお前のことを一生支えていくからな。」
視界が黒くなっていく中、聞こえてきた大和のそんな声。
(なんでだよ・・・。なんでお前はこんなにも優しいんだよ・・・。なんで・・・。)
その言葉に少なからず安心感が芽生えてくる。
しかし・・・。
ブチッ
“頭の中で何かが切れた“そんな感じの音が聞こえ、意識が暗闇の中に引きずり込まれていく。
「え、遥!?お、おい!!」
そしてそんな変な感覚と共に体からは力が抜けていった。
もう体を動かそうという力がなく、ただただ大和の抱きしめる手を享受するかのように。まるで人形のようになっていく自身の体。
そんな俺の体を大和は優しく抱き留めながらも、叫び声のように名前を呼んでくる。
「大丈夫だ」って声を掛けて安心させてあげたいのに。
俺の心はそのまま暗い闇の中へと引きずり込まれるように溶けていった。