遠く遠い
「君に広島に行かないかという話が来てる」
嫌な予感は、課長に食事に誘われた時からあった。昔からこういうことには変に敏感なところがある。
「もちろん、君はうちに欠かせない人材になってくれているから、断る意志さえくれれば徹底的に抗議しよう」
課長はそういうけれど、企業において転勤を断ることなどほぼ不可能だ。嫌なら去るか? そう言われれば黙って頷くしかないだろう。
「少し時間をいただけないでしょうか」
私の言葉に課長の顔がほんの少し曇った。
あぁもう時間もないのか。
食事の終わり際に転勤の承諾を告げた。
久しぶりに足の進まない家路についた。
課長には送っていこうと何度も言われたが、かたくなに首を横に振った。冷たい風を浴びていなければ、高ぶりそうな気持ちを抑えられそうになかったから。
今の職場に未練がないといえば嘘だ。それでも、それだけならこんなにも足が重くなることもないだろう。
今はただあの子の顔だけが頭にあった。
4つ下の私の彼氏は来月から新入社員として、社会人の仲間入りする。
自分のことで精いっぱいのこんな時期に悩みを増やすのも、気が重くなる原因の一つだ。
気が付けば、もうアパートの前までついていた。自分の部屋に明かりがついていることがこんなにも苦しいなんて思ったのは、初めてだ。
「ただいま」
重い扉を精いっぱいの力で開けた。
「おかえりー」
成人した男性にしてはほんの少し高めの声。男性の平均身長より一回り小さいその体を、一生懸命背伸びして、私の隣に並び立とうとする姿は、失礼と分かっていても苦笑が漏れる。
そんなずいぶんかわいい彼はお風呂上りなのだろう、生乾きの髪を放置してソファの上でカップアイスをつついていた。
「髪、ちゃんと乾かしなさいよ」
私の忠告に生返事しか返ってこないのはいつものことだ。
ちらりと時計を見ると終電までもう1時間弱といったところだろう。どちらが飛び出していくにしても、電車が終わらないうちに済ませた方がいいだろう。
「ねぇ、話があるんだけど」
「なにぃ」
間延びした声は、アイスをつついたまま視線はテレビから動かない。
「別れましょう」
返事はない。ただ、黙々とアイスは口に運ばれていた。
「来月には転勤で広島に行かないといけないの。子供と遊んでる余裕がなくなると思うわ」
だから別れて。そう告げた。
普段敏感すぎるほど、子供というワードを嫌うくせに、この時ばかりは微動だにしない。
「学生の相手はもう疲れた?」
視線は固定されたまま、無機質な声が返ってきた。
「えぇ、そうね」
すごく嫌な女だ。でもそれでいい。この子にとって嫌な女になれたなら、私をあっという間に過去になれる。余計なおせっかいかもしれないけれど、最後の世話焼きだ。
足が震えているけれどバレていないだろうか。目頭が熱いけれど涙は流れていないだろうか。顔に力が入ってしまっているけど無表情でいられているだろうか。
大丈夫、私はきっと大丈夫。私は大人だから。失った虚無感も、傷つけた痛みも、耐えられる。
そうして、時々この子を思い出して悦に浸ろう。この子の青春を支えたのは私だと。
「僕も今日話があった」
震えている声は、あふれる何かを抑えているように感じられた。
もうその声を聴いただけで、頬が濡れる。
「ずっと言いたいことがあった」
傷つけることができた。そのことがひどくうれしい。それだけこの子が私を思っていてくれたのだから。
「ほんとは来年に、一年社会人出来たら、言うつもりだった」
「やめて」
聞きたくないと首を振る。楽な道は私が示した道だ。
心をそばになんてきれいごとだ。遠く離れた心を確認する術なんてない。だから人は近くにいるべきだ。想いあうならばなおさら。
「僕はまだ世間知らずな子供だけど」
互いの目が届かなければ、うれしい時も悲しい時も、そばにいられない。想えば想うほど、相手の負担を考えてしまうから。
「何も用意もできてない。考えだって甘いのかもしれない」
こちらを振り向いた彼は目にいっぱいのプライドがたまっていた。こぼしてなるものかと、必死にこらえる姿に、私の頬を伝うしずくはとどまりそうにない。
「遠くに離れるけれど、互いの想いを形にできれば、それほど遠くになんてならないよ」
彼はそういって、儚げに微笑んだ。
かわいい彼の一生懸命な想いは今も私の左手で輝いている。