(3)
その時誰かが咳き込むような声が家の中に響いた。美紗緒が立ち上がった。
「実は母が風邪を引いて臥せっておりますの。もしよかったら会ってやっていただけますか?」
亜矢は美紗緒の誘いに抗うことができず、夢遊病者のような足取りで美紗緒の後について部屋を出た。
美紗緒は奥の和室に亜矢を招き入れた。
「どうぞ。お母様、お客様がお見えですのよ」
和室には布団が敷かれていて、掛け布団が人の形にこんもり盛り上がっている。
「ご病気のところにお邪魔してしまってすみません。お加減はいかがですか」
たずねてみたが返事はない。この部屋にも火の気はなく、師走の夜の冷気が体の芯まで沁みこんでくる。病人がいるのに、こんなに寒くて大丈夫なんだろうかと亜矢が気をもんでいると、美紗緒はマッチをすって、布団の脇に置かれたほやのある古いランプに火を点けた。ゆらゆらと揺れる炎に、亜矢の影がひょろ長く壁に写し出された。亜矢は布団に横たわった人物に目をやって、思わず息を呑んだ。
ぽっかりと開いた二つの穴。むき出しに並んだ歯。枕の上に乗っているのはまぎれもなく人間の頭蓋骨だった。
「こ、こ……れ……」
恐怖のあまり思うように言葉が出てこない。
「父が戦争に取られ男手がなくなって、私たちは食べ物を手に入れることもできず、母はとうとうこの通り、飢えて衰弱して亡くなりました。ちょうど戦争が終わったばかりで、みんな自分が生きていくのに必死で、私一人では母のお葬式をしてあげることもできませんでした」
後ずさりする亜矢の腕を、美紗緒の手ががっしりと捉えた。その手はひやりと冷たく硬く、血の通った人間のものではなかった。
「私は母の亡骸のかたわらで、朽ちていく母の姿を見つめ続けました。父も雄輔さんもついに戻ってはきませんでした。こんなことになるなら、たとえ捕えられて殺されてもいいから、あの時雄輔さんと二人で逃げればよかったと何百回も何千回も思いました。二人で一緒に死んでいれば思い残すことなど何もなかったのに」
ぎりぎりと歯噛みをするような音がして美紗緒の目尻が釣りあがった。
「ある夜、近所の身持ちの悪い男が、家に忍び込んできて、私に襲いかかりました。私は死に物狂いでその男の手から逃れ、井戸に身を投げました。身を守る手段がそれしかなかったのです。戦争のせいで平穏な生活も、愛する人も、なにもかも奪われて、どうしてこれほどひどい目に遭わなければならないのでしょう。私が一体どんな悪いことをしたというのでしょう」
美紗緒はその悪鬼のような顔を亜矢に近づけながらささやいた。
「でも雄輔さんは私に必ず帰ってくると約束してくれました。私はもう一度彼に会えるまでは、何が起こってもあのランプをともして、雄輔さんの帰りを待ち続けます。だからあたしのお願いを聞いてください。そうすれば、あなたの望みをかなえてあげますよ」
美紗緒の氷のような息が亜矢の頬にかかり、美紗緒の言葉がまるで蜘蛛の糸のように、亜矢の心と体をからめとった。亜矢は凍りついたような顔で美紗緒を見つめた。美紗緒の、仮面のように真っ白い顔の、血の色の唇がにっと笑った。そしてランプの灯がふっつりと消えた。