(2)
玄関の鍵は、鍵穴が錆びてでもいるのか、なかなか開かなかった。何度か力を入れてねじると、ぐきっという嫌な音がして、やっと開けることができた。玄関に入るとたたきがあり、靴脱ぎがあって廊下が長く伸びている。しかし室内は戸外よりも更に暗く、どこに何があるのかもわからないような有様だった。
「あの、こんばんは。大原さん」
闇に向かって何度か呼びかけてみたが、家の中はしんと静まり返っている。
「お邪魔します」
亜矢は小さな声で挨拶をすると靴を脱いで家に上がろうとした。
その時背後でしゅっと衣ずれの音がしたような気がして、亜矢は思わず振りかえった。しかし廊下に人の姿はない。玄関のすぐ脇の扉を開けて中に入ると、そこはあの出窓のある部屋だった。出窓の下に火の気のない暖炉があって、その隣りに古びた本棚があった。部屋の真ん中には白いカバーのかかった応接セットが置かれている。部屋の様子を見回していると、いきなり亜矢の視界でゆらりと光がうごめいた。驚いて振り向くと、開いたドアの前に、まるで日本人形のような色の白い若い女性が、あの蝶のランプをかざしながら立っていた。
長い髪を後ろでゆるく結び、袖と裾に真っ赤な椿が描かれた白い振袖姿。細面で、くっきりとした二重瞼の大きな瞳は夢二の絵から抜け出たようだ。亜矢は夢を見ているような心持ちがして、目をしばたかせた。
「あ、あの、私、勝手にお邪魔してしまって。実はお隣のおばあちゃんから、こちらのおうちの方がご病気かもしれないから、様子を見てきてほしいと頼まれて……ごめんなさい」
しどろもどろに言い訳をする亜矢に、女性は驚いた様子もなくにこやかに応えた。
「まあ、そうだったんですか。それはご親切に。お近くの方なのですか?」
「あっ、あたし、高坂亜矢と言います。この先の二丁目の角の家なんです」
「申し遅れました。大原美紗緒です。うちにお客様がいらしてくださるなんて、本当に久しぶりなんですよ」
そう言いながら、出窓にランプを置いた。
「私このランプいつも通りから見てたんです。すてきなランプですね」
そういう亜矢の言葉に、美紗緒はほほえみながら「どうぞ、おかけください」とソファーを勧めた。
出窓に置かれたランプの横には一人の若者の写真が飾られていた。白い制服と制帽姿の、精悍な顔立ちの青年だ。亜矢の視線に気づいたのか、美紗緒が口を開いた。
「そのお写真の方は伊東雄輔さんです」
「えっ、それじゃあ、もしかして伊東のおばあちゃんの……」
「ええ。わたしと雄輔さんは幼なじみで、まるで兄妹のようにして育ったんですよ。大きくなったら雄輔さんのお嫁さんになるのが私の子どもの頃からの夢でしたの」
美紗緒はそう言いながらはにかむように笑った。薄暗い中でも、その笑顔はまるで大輪の牡丹のようにあでやかだ。こんなに綺麗な人が近くにいるのに、一度も会ったことがなかったなんて。亜矢は狐につままれたような気持ちになった。
その亜矢の心を見透かしたように、美紗緒が言った。
「私も母も体が弱いものですから、ずっと雄輔さんのお母様のお世話になってばかりなんです」
「そうだったんですか」
「雄輔さんのお母様も、雄輔さんの帰りを、それは首を長くして待っておられるのですよ」
亜矢はもう一度写真に目をやった。白い制服姿の若者は、パイロットかなにかでもあるのだろうか。
「雄輔さんは、いつ帰ってこられるんですか?」
「分かりません」
「分からないって……」
「分からないけれど、雄輔さんは出征する前の夜に、私に約束してくれたんです。必ず、必ず生きて帰ってくるって」
―― シュッセイって何?生きて帰るって?
亜矢の頭の中がぐるぐると回り始めた。何かがおかしい。美紗緒というこの女性のたたずまいも、彼女の話も、この家の雰囲気も。