(1)
「ねえ。大学もう冬休みでしょう。帰ってこれないの?」
昨夜、久しぶりにつながった電話で亜矢は潤也に聞いた。
「バイト、休めないんだ。正月になったら、ちょっと帰ろうと思ってるけど……」
「じゃあ、クリスマスは?」
「う、うん。多分無理」
「そう……」
そこからは話が弾まなくなって、じきにさよならをしてしまった。潤也は秋口から大学の近くのコンビニでバイトを始めたと言って、電話の回数はぐんと減った。メールの返事も、来ないこともある。
たまに電話で話せても、学校とバイトで疲れているせいか声にどことなく張りがない。近くにいれば、顔を見て話をして、力づけることもできるのにと思うと、亜矢はもどかしい気持ちででいっぱいだった。
潤也との気まずい電話の翌日、亜矢はテニス部で仲が良くて、同じ大学に進学したのぞみを誘って、映画を観に行った。高校時代、潤也と付き合ったことを打ち明けたのは親友の日奈子だけで、部活の仲間には言わなかった。けれど潤也との関係が不安定になっている今、自分たちをよく知っている友達に話を聞いてもらいたかった。
映画が終わって、ミスドでお茶を飲んだ。
「亜矢、元気ないね。何かあったの」
「そうかなあ。あたし変かな」
「うん、いつもだったら、亜矢のほうが、おいしいスイーツ食べにいこうとかって、すっごく盛り上がるのに」
亜矢はのぞみの言葉にかすかに微笑んだが、すぐにうつむいた。大粒の涙が一粒、また一粒こぼれた。
「もう、亜矢ったら。どうしちゃったのよ」
亜矢はついにこらえきれなくなって、潤也のことを、これまでのいきさつを、泣き声で打ち明けた。
黙って亜矢の話を聞いていたのぞみは、亜矢がすべてを話し終わると、しばらく沈黙してから口を開いた。
「亜矢、怒らないで聞いてね。柴崎には、あんまり関わらないほうがいいよ」
「それどういう意味」
「亜矢はさ。高校の時、家が厳しかったから、夜の部活の打ち上げとか出なかったじゃん」
「うん」
「打ち上げって、カラオケとか行って、ほんとは禁止なんだけど、お酒とかも飲んじゃうんだよね」
亜矢はうなずいた。
「そうすると当然、誰と誰が付き合ってるとか、誰が好きとかいう話になるんだよ。その時分かったんだけど、柴崎って、結構付き合った子多いんだよね。でも、同じ子とはあんまり長く付き合わないらしいんだ」
亜矢の目が、驚きで大きく見開かれる。
「今までテニス部の子には手を出してないっていうか、みんなあいつのこと知ってるからね。だから亜矢の話聞いて、あたしすごくショックだったよ」
のそみと別れてバスに乗った亜矢の心の中に、様々な思いが渦巻いた。のぞみが、亜矢のことを気づかって、ことばを選びながら話していたのがわかる。それでも「手を出す」という言い方には、潤也の性癖がかいまみえた。
―― あたしとのことも遊びだったってこと。そんなはずない。だって、潤也と結ばれたのは、クリスマス・イブだったのよ。特別な日。だからあたしは、潤也にとっては特別な存在のはず
真剣なのだと思いたい。本気なのだと信じたい。けれど最近の潤也の態度は、よそよそしくて冷たい。
―― あたしだったら、美人でも可愛くもないし、何も知らないから、簡単にだませると思ったのかな。すぐに遠くに行ってしまうから、後くされもないって
潤也にとっては、ただの遊びだったのかと思うと、悔しくて、体中の血が逆流するようだ。自分の思いと、のぞみの話と、現実とが、ぶつかり合い、打消しあって、頭の中で際限もなくぐるぐると回る。
バスを降りて、家に向かって歩いているはずなのだけど、自分がどこを歩いているかもわからないほどに、足元はおぼつかない。ブーツの爪先から冷気が這い上がってくる。寒さのせいだけではなかった。一人きりでいることがどうしようもなく寂しくて心細くて、体も心も凍りついてしまいそうだ。潤也に力一杯抱きしめてほしい。ひと目だけでも会いたい。いいえ、潤也を誰にも渡したくはない。どんな手段を使っても自分だけのものにしてしまいたい。もしもその願いが永久にかなわないのなら、死んでしまったほうがましだ。
きりきりとひとり思い詰めながら、洋館の前に差しかかった亜矢の視線がふっと止まった。
―― ランプがない
洋館と伊東のおばあちゃんの家の周囲は門灯も消えていて、この一帯でもとりわけ暗い。それでもいつもなら闇の中に、ほんのりランプの灯りが見えるはずだ。それなのに今夜はすべてが漆黒の闇に沈みこんでいた。亜矢はその場に立ち尽くした。
―― どうしたんだろう。何かあったのかな
その時、隣りの家のガラス戸がガラガラと開いて、背中の曲がった小さな人影が現われた。その人影は前のめりな危なっかしい足取りで亜矢に近づいた。
「お嬢ちゃん、今お帰りかい?」
亜矢が黙ってうなずくと、伊東のおばあちゃんは言葉を続けた。
「実はお隣の大原さんの家が、今日は何度訪ねても返事がなくてねえ。もしかしたら奥さんか娘さんかどちらかがお体の具合でも悪いんじゃあなかろうかと気をもんでるんだけど、あたしも腰の具合が悪くてねえ。こうして立ってるのもやっとで」
老婆は腰を伸ばす仕草をしながら、顔をしかめる。
「まあ、そうなんですか」亜矢は反射的に答えた。
「それで、お嬢ちゃんに折り入ってお願いがあるんじゃが」
老婆はそう言いながら割烹着のポケットからごそごそと何かを取り出して、亜矢に差し出した。それは古びた銀色の鍵だった。
「厚かましいお願いじゃけど、これでちょっと大原さんのお宅に入って様子を見ては貰えんじゃろうか」
亜矢は伊東のおばあちゃんの、心配でたまらないといった様子に同情して、思わず「はい、分かりました」と返事をしていた。