(3)
亜矢は自分の部屋に戻って、絹子の言葉を思い返した。
――ママにランプのことを話してもどうせ信じないだろうな
絹子は一人娘の亜矢を可愛がっている。溺愛していると言ってもいいかもしれない。亜矢が大学生になった今も、一人で食事をするのが寂しいと言って亜矢の帰りを待っているので、亜矢は大学に入ったらやろうと思っていたアルバイトをあきらめて、近所の中学生の家庭教師をしていた。
もともと亜矢は県外の大学に進学するつもりでいた。しかし当然のことながら絹子の猛反対にあった。受験を控えた大事な時期に、家に帰ると毎日が修羅場で、亜矢は母親との連日の口論に疲れ果てて、結局家から通える市内の大学を受験した。そのことが今でも亜矢の心の中に重くわだかまっている。けれど亜矢が絹子に対して、心の通い合わないもやもやした気持ちを抱くようになったのは、それだけが原因ではなかった。
それはもっとずっと昔、まだ亜矢が幼かった頃のことだ。
今亜矢たちが暮らしている家は、祖母が生きていた時は古い日本家屋の一軒家だった。木製の雨戸や縁側や障子があって、庭にはたんぽぽやシロツメクサ、朝顔など四季折々の草花が咲いていた。
夏に赤い鳳仙花が咲くと亜矢は「おばあちゃん、まにゅきあして」と祖母にせがんだ。祖母は「亜矢ちゃんは、おしゃまさんだね」と笑いながら、花びらを揉んで亜矢の小さな爪を薄紅色に染めてくれた。 そのころ家にはウメという茶トラの猫もいて、一人っ子の亜矢にとってはいい遊び相手だった。もうかなりのおばあちゃん猫だったウメは、亜矢がちょっかいを出すと、眠たげに目を細めながらも相手になってくれた。
けれど亜矢が小学校二年生の時に大好きだった祖母が亡くなった。その二ヵ月後の嵐の夜に、ウメも出ていったきり行方がわからなくなった。亜矢は、祖母もウメもいなくなった縁側にひとり座りこんで、庭を見ながら寂しくてたまらず泣いた。
「ねえ、あなた。思い切ってこの家建て替えましょうよ」
母の絹子が父に向かってそう切り出したのは、祖母の死から半年ほど経った頃だった。
「この家もう二十年以上経ってるから、あちこちガタがきてて修理しなくちゃならないのよ。お台所やお風呂場は狭くて使い勝手が悪いし、第一家の中が暗くて陰気だわ。あなたは一日中お仕事で会社にいるから気にならないでしょうけど」
営業をしている父の泰三は、亜矢が起きている時間に帰宅することは稀だった。温和な性格の泰三は、家のことを全部妻にまかせきりにしていることもあって、絹子のすることには口出しをしない。 ちょうどその頃、町内でもぽつぽつと現代風の造りに建て替える家が出始めていた。建て替えの話はとんとんと決まり、亜矢たちは四ヶ月ほど小学校に近いマンションで仮住まいをしたあと、新築された洋風の家に移り住んだ。
けれど亜矢は生まれ育った自分の家が、壊れてなくなってしまうのが無性に悲しかった。桐箪笥や姫鏡台が置かれていた祖母の部屋。夏はすだれで日差しをさえぎり、風鈴が優しい音色を響かせていた縁側。そしてなによりもそこには祖母やウメと過ごしたたくさんの思い出があった。
「おうちがなくなったら、おばあちゃんがいるとこがなくなっちゃうよ」
そんな亜矢のささやかな抗議も、絹子には届かなかった。
「大丈夫よ。おばあちゃんはほら、お仏壇の中からちゃんと亜矢ちゃんのことを見ててくれてるわよ」
絹子の言葉に亜矢は「そうじゃない、そんなんじゃない」と心の中で叫んだが、幼すぎてそれ以上両親を説得できる言葉を持たなかった。
だから亜矢は、大人になった今でも、青々とした芝生と華やかにガーデニングされた庭や、広いリビングに明るい陽射しがあふれる自分の家を、どこか居心地悪く感じている。
前の家が壊された日は、雨が降っていた。亜矢は学校の帰りにこっそり家の近くまで行ってみた。そして、ブルドーザーが巨大な爪で、住み慣れた家の屋根や壁や家具を容赦なく壊していく様を、泣きながらじっと見つめていた。そうした幼い日の出来事のせいで、亜矢はよけいにあの古い洋館に魅かれるのかもしれなかった。
絹子は新築した家で、動物を飼うことを許してくれなかった。亜矢は二度ほど子猫を拾ってきて「おうちが汚れるから動物は駄目っていったでしょう」とその都度絹子に厳しく叱られた。そんな些細な日常の積み重ねの中で、亜矢はいつの頃からか自分の本当の気持ちを、母親に話す習慣を失くしていった。