(2)
「ねえ、高坂さんのお宅、最近奥さんも娘さんも全然見かけなくなったわねえ」
年が明けて一週間ほどたった頃、亜矢の家の向かいで、近所の主婦たち三人が立ち話をしていた。
「年の暮れに、ご主人があんなことになって、お気の毒にねえ」
そう言ったのは、三人の中では一番年長の谷川祐子だった。
「銀行のお仕事が忙しすぎたんじゃないの?心臓麻痺だったんでしょう。奥さんはショックで寝込んでしまわれて、結局お葬式にも出られなかったらしいし。それきり一回も顔を観てないのよねえ」
祐子のエアロビクス仲間の藤野宏美が答えた。
まだ注連飾りの飾られている家もある中で、亜矢の家の玄関には忌中の紙が貼られている。庭に面したリビングの窓にはこの季節にも関わらず、まるで外部からの視線をさえぎるように、よしずが立てられていた。
「年末から火事はあるし、なんだか慌しかったわよねえ」
そう言ったのは、亜矢の隣りの家に住む志水玲子だった。
「伊東のおばあちゃんは、自治会長さんのお世話で施設に入ったらしいわよ」と祐子が言うと「あらそう。よかったわね。火事のあと、ちょっと会ったけど、なんだかすっかりやつれて、もうあたしの顔もわからないみたいにぼんやりした感じだったから」と宏美が答えた。
「でも結局あの火事は、出火の原因も、亡くなった人の名前も分からなかったんでしょう。何だか薄気味の悪い話よねえ」と祐子が声を潜めた。
「だってあの家、年配の奥さんと娘さんが住んでたなんて、今でも信じられないわ。伊東のおばあちゃん以外、誰も会ったことがないなんて、そんなことってあるのかしら」
玲子の言葉に「その人たち幽霊だったりして」と宏美が冷やかした。一瞬玲子の顔に怯えに似た表情が走った。
実は玲子は、あの火事の夜、野次馬の足元に落ちていた一本の銀色の鍵を拾った。その鍵のことを誰にも言えないまま、持ち帰ってドレッサーの引き出しに入れてある。捨ててしまえばよいのだが、何となく捨ててはいけないような気がして仕舞ったままなのだ。その鍵のことが何故か無性に気にかかった。
「まさか。第一幽霊なら、火事になったって焼け死んじゃったりしないわよ」
祐子が陽気な声を上げた。
「ああ、それはそうよね」
三人の主婦たちの井戸端会議は、最後は笑い声になった。
電話のベルが鳴っている。
通りから響いてくる女性たちの笑い声を聞きながら、亜矢は受話器を取った。
「もしもし、高坂さんのお宅ですか?」
若い女性の声が響いた。
「はい」
「亜矢?ちょっと、亜矢。どうしちゃったのよ。携帯も通じないし……」
「どなた?」
「何言ってんのよ。あたしよ、日奈子。ねえ、潤ちゃんが死んじゃったの知ってるんでしょう」
「……」
「何で黙ってるのよ。一昨日バイクの事故で…。それで、潤ちゃん今日家に戻ってくるって。テニス部の子たちも行くってよ。亜矢も行くんでしょう。だったら一緒にお別れをしに行こうと思って」
電話の向こうは涙声になった。
「そう……」
「そうって。亜矢、あんた知らなかったの?潤ちゃんと付き合ってたんでしょう。先月電話で話した時、あんなに会いたがってたじゃない」
「彼とは……もう……別れたのよ」
「えっ、ちょっと別れたって、それ、どういうこと?もしもし、もしもし……」
それ以上は聞かず、亜矢は受話器を置いた。ソファーには、夜着にくるまれた一体の骸が横たわっている。ぽっかりと開いた二つの穴がじっと亜矢を見つめている。
―― 大丈夫よ、お母様。私たちはもうひもじさに苦しむこともなく、住む場所を失うこともなく、ここで静かに暮らしていけますよ
そして亜矢は窓のほうへ目をやった。日差しをさえぎった薄暗いガラスに浮かぶのは美紗緒の顔だ。窓辺には蝶の模様のランプが置かれている。日が暮れると、その小さなランプにオレンジ色の灯がともる。今日も、明日も、明後日も。愛しい人に会えるその日まで、私はここでランプを点して待ち続けるのだ。亜矢の、血の色をした唇にうっすらと笑みが浮かんでいた。 (了)




