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価値の定義  作者: 歌多琴
4/10

4

 彼とはとあるバーで知り合った。

 知り合ったといっても、その日以外に再度会うことはない。

 その日の私も夫の帰宅から逃げるように家を出て、ふらふらと街を彷徨い、見知らぬバーに足を運んだのである。

 そこは実にバーらしいバーだった。

 落ち着いた空気。流れる微かなBGM。人は少なく、一人で物思いに耽るには絶好の場所のように思えた。

 私はカウンターに座り、何か適当に果実系のカクテルを頼んだのである。

 それを少しずつ口に運び、ぼぅっとしていると、これは傍から見ると誰かから声をかけられるのを待っている女にしか見えないな、と自虐的に笑をこぼしたものである。


 それでもその独特の雰囲気に身を任せ、いつ帰れば問題ないかな、とくだらないことをずっと考えていた。

 と、どれくらい時間が経ったのだろう。おそらく一時間も経っていない。

 すっと一人の男性が私の隣の席に腰を下ろした。いや、隣というと間違いなく語弊がある。その人は私から席を一つ空けて座った。

 彼は何か私の知らないお酒をロックで頼むと、決まりきった動作のようにカバンから書籍を取り出した。

 どういった書籍だろうと気になった私は相手に不要な注意を与えないよう気をつけて、横目でそれを見る。

 それは経済の、もっと言うと株に関する書籍であった。

 それを目撃した私がどう思ったかと言うと、あぁこの人とは関わらないようにしよう、である。

 株。そう聞いてお金を連想しない人はいないだろう。彼は株でお金を稼ごうという人種に違いない。

 そういった人種を見て思うことと言ったら、嫌悪か、羨望か、そんなところだろう。

 私はまったくの前者であった。

 夫が金稼ぎに精を出していることに不快を感じているのに、さらにその稼ぎ方が夫に通じるというと、これはもう仕方がない。

 どうでもいいことだろうが、私の夫は銀行員なのだ。真面目。そして稼ぎも良い。誰だってそういう職業の方にはそういうイメージを抱くだろうし、イメージに漏れなかったのが私の夫だ。


 私の隣に座った男性は琥珀色の液体を口に含みながら、ペラペラと書籍をめくっている。

 ガラスと氷がぶつかるカランとした音がふとしたときに聞こえ、それとは関係ないリズムで紙が擦れる音が聞こえる。

 ハッキリ言って、それが私には不愉快でしかなかった。

 せっかく穏やかな雰囲気に身を任せていたというのに、隣から聞こえてくる音と言ったら何だ。

 適度に燃料を得つつ、金稼ぎに向かう足音にしか聞こえない。

 あぁこれはもうだめだ。店を出よう。

 そう私が妥協したときである。

 隣の男性はその書籍を閉じ、カバンに仕舞った。

 うわ、と私は思った。何かしてしまったかもしれない。知らぬ間に私は、見知らぬ男性へ嫌味を押し付けていたのかもしれない。

 そう思ったのだ。

 どうしたものかと少し困惑したが、その困惑は必要ないものであった。

 彼は株の書籍をカバンに仕舞うと、次は大きなノートを取り出しのだ。

 単なるノートなら先ほど勉強したことを何か記載するために取り出したのだろうと思うところだが、彼が取り出したのはノートとは呼べないモノだった。

 それはスケッチブックだ。

 現に表紙にそう書いてある。

 なにがしたいのだろう。私がそう思い、その思いのままに彼を見ていたことは、見られている側にも伝わったらしい。

 不意にスケッチブックを持つ彼と私の視線がぶつかった。

 途端私は焦ったのだが、彼はそうでもなかったらしく、ニコリと照れたような笑で小さく私に会釈をしたのだ。それに反射的に私も答えると、彼はそれだけで自分の世界へ戻る。


 驚き焦りはしたが、いつまでもジロジロと見ていられないと思った私は視線をカクテルへ戻した。濁ったイエローの液体がそこにはある。

 その後、彼は鉛筆を取り出し、そしてスケッチを始めたようだった。

 一体彼は何をしているのだろう。

 私は彼が気になって仕方がなかった。

 やっていることはもちろんスケッチだ。店内の様子を絵に書いているのだろう。

 しかし「なぜ?」という思いは湧くばかりだ。

 なぜ株の本を読み、そしてスケッチなのか。

 当初私は彼が私の夫同様金稼ぎが好きな人種だと測ったのだが、だからスケッチなんて動きをするのは変だ。

 私の夫なら絶対にそんなことはしない。だって夫は、趣味だ趣味だと休日に遊んでいる内容も、結局はどこか金稼ぎに繋げているのだ。スケッチなんて遊びに興じたりは絶対にしない。

 そう思ったところで、私は考えを改めた。何も株を勉強している人間すべてが夫のような人間ではないのだ。

 株で一儲けはしたいが、それでも趣味で絵を描くことくらいするのが当たり前だろう。

 そこで私はふぅっと心を落ち着かせた。

 彼は彼だし、夫は夫だ。

 これは少しだけ、奇妙なメガネを掛けるようになったのだな、と落ち着いた。と同時に溜息も出そうであった。


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