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私が彼、つまり今の夫と出会ったのは、27歳のときだった。
運命的な出会い。もしもそんなキラキラした始まりであったなら、先ほどのように結婚を鈍色に綴らなかったかもしれない。
私と彼の出会い方など、この世で最も現実的なものであった。見合である。
私はどこにでもある国公立の大学を、何の波乱もなく22歳で卒業し、その後地元の良くも悪くもない企業に就職した。特筆すべきことのない人生といっても良いだろう。
そんな私はと言うと、ハッキリ言って仕事を辞めてしまいたかったのである。そもそも働くことが大好きな人間ではなかった。しかし世間体というものを考えると、国公立の大学を出た後、就職しないわけにもいかなかったわけだ。
だから就職はした。けれどその後は寿退社などという、後腐れのない女性の特権で辞めてしまいたかったのだ。
しかし寿退社をするには相手が必要だ。それはもう、もちろんのことだろう。
肉体的にも、性格的にも、私はハンデキャップを持っているとは思っていない。だからこそ相手の心配はしていなかった。
けれど困ったことに、それ以前の問題があった。出会いのなさ、である。日々同じようなサイクルで過ごしていると、それも仕方がないだろう。
そんな閉鎖的な生活範囲の中での出会いとは、同じ会社の男性社員しかないわけだ。それは女性目線に限らず、男性から見ても同じなようで、入社してから私は何度かお付き合いの誘いを受けたことがある。そういう点でも、やはり私はそこそこ魅力のある女性なのだろう。
勘違いして欲しくないのは、私は事実を語っているだけだ。別に異様な自己愛を持っているわけではない。
が、私はことごとくそれを断った。深く考えず付き合ってみたら良かったかもと今でこそ思うが、当時の私は結婚を前提としてでしか男性を見れなかったのだから、これもまた仕方がないと理解してほしい。
断る理由は単純だ。単に同じ職場の人との結婚はありえないと考えていたためである。なぜありえないかと言うと、これは少々不快に思える理由かもしれないが、稼ぎの量がその理由の主だ。
いや、考えてみてほしい。夫と同じ職場だということは、それはつまり夫の稼ぎの限界を見ていることに繋がる。もっと言えば夫の将来も容易に想像できてしまうのだ。
それの何がいけないのか、と問われれば、答えるのはなかなかに難しい。
むしろ安心できる一因ではあるとは思う。それでも私が務めるその会社は良くも悪くもないのだ。言い方を変えるなら悪くはないが良いとは言えない会社だ。そこで務める私が言うのだ。これは間違いない。
結婚は人生の中でも理想を多少なりとも通したい選択であると思う。
ならば私が務める程度の会社以上を相手に臨むくらいは許されても良い。勝手ではあるが、私の一つの理想はそれだった。
それが祟ってかどうかはわからない。数年で寿退社を望んでいたわりに、私は良くも悪くもない会社で5年も働いていたのだから困ったものだ。
これは結婚することが決まった後、同期の社員から聞いた話だが、ただひたすら仕事をして、浮いた話も大して聞かない私という女性社員は、密かに仕事が好きな人間として見られていたそうだ。まだまだ仕事一筋。結婚など考えていない、そんな風。
それを聞いたとき、もちろん私は唖然としたものだ。
話を戻して、27歳になる頃には、私はいい加減本格的に結婚を考え始めていた。
それでも職場結婚は避けたかった私がそこでとった行動というのがお見合いだ。
まったくもって捻りがない。しかし27歳にもなると、もはや合コンなんて軽い男女の交流会には参加できるはずもないだろう。若い頃は職場結婚と同じくらい見合い結婚にも拒否感を抱いていたものだが、考え方とは年々移ろうもので、27歳の私はむしろ見合いの方が良い出会いがあるのかもしれないと考えていたものだ。
とりあえず両親に相談を持ちかけ準備を始めた。
見合いがどういうものか、本当に幸せな人には理解できないだろう。つまり経験などしたことがないだろうというひねくれだ。
数度の経験後、私は見合いに向いていないと自覚した。
私は私で結婚を望んでいるのだが、相手も相手で結婚を望んでいるわけで、偶然とも言える一つのチャンスをどうにかして掴みたいという、相手の心底の念がどうしたって見えてしまう。
その想いを私が嫌悪するのは、周りから見たら同族嫌悪に違いないと思うかもしれないが、少々待っていただきたい。
もしも見合いで出会ったその相手が、優良物件だったらどうするだろうか。
必死になってそのチャンスを掴みたいと思うだろう。
それを感じてしまうのだ。
ここでも私の女性としての一定レベルの魅力が足を引っ張ったのである。いや、そう言ってしまうとそれこそ過度な自己陶酔に聞こえてしまう。この場合足を引っ張るというより、相手からひどく手を引っ張られてしまうといった方が良いのかもしれない。結婚への道を、なかば強制的に引っ張って行こうとされるのだ。
そう思うと、本当にこの人で良いのかという疑問が通常以上に湧いてしまうわけで、仮にその人が本当に素晴らしい人であったとしても、仮に私が望む物件だとしても、二の足を踏んでしまう。
要するに見合いという手段を用いてもなお、私は結婚になかなか至れなかったという話だ。
とは言っても結婚を叶えることはできたのだ。
それはもちろん見合いという手段である。
そのときのことを思うと、今では小さな溜息をつきなくなる。
どうして私はその人を選んだのだろう。これならしつこいとも言えるアピールをしてくれた前の男性陣の誰かと結婚を妥協した方が良かったのではないか。私はそう思ってしまう。
しかしそれでも、その人との出会いは誰よりも印象に残っているのは、なんだかんだと文句を言いつつ、そこに運命を感じたからだろうか。
何度目の見合いだったろうか。
ちゃんとした回数は覚えていないが、絶対に100回目の見合いというわけではないし、10回も見合いはしていなかったと記憶しているので、きっと7、8人目の相手が彼だったのだろう。
前情報だけで、私が彼をどう思ったかというと、外見は悪くない。むしろ格好良い部類に間違いなく入ると思う。職業を考えると収入も良いはずだ。私なんかより断然良いだろう。そして職業柄、きっと彼は真面目な人間に違いない。
で、つまり私はこの人に対してどう思ったかというと、これは無理そうだ、ということだった。
なぜか。彼が持っている魅力は、それは良いものであったのだが、いかんせん彼は私より年下だったのだ。
なぜ、そんな年齢で見合いを?
それがなによりの疑問で、一番の否定材料であったことは間違いない。
きっと親に言われてしぶしぶ見合いをしているのだろう。
つまり私は彼から今まで男性に感じた必死さを感じられなかったのである。
今までその必死さを疎んできた私が言うのは馬鹿げているとは思うが、それでも結婚する気のない者が見合いをするなんて、それは一種の侮辱だろう。
が、そんな嫌悪を抱きながらも、私はその人と見合いをしたのである。年下との見合いなんて初めてだったので、ちょっとからかってやろうと思ったのだ。
君みたいな坊やと結婚はしないよ。もう少し人生経験を積んで出直してきな。
そう何気なく言ってやろうと思っていた。これではどちらが見合いを侮辱しているかわからない。
そして当日、私は彼と会ってみて、結局のところ彼を夫に選んだというのだから笑ってしまう。