静かに唄う日陰の透明
初夏の風がふわりと薙いだ。
窓から射しこむ陽光はすこし暖かい。空気に湿り気が混じりだしたから、そろそろ梅雨だろう。梅雨を越えればもう夏だ。うざったい季節がくる。
古書店を経営する僕の家にとって湿気は天敵だ。商品の本に虫が湧く。
本の虫はいつも湧いているけど、あいにくそいつは紙を食べたりはしない。あまりに読書に熱中して口の端で自分の髪を食べてるときがあるのは……まあ、黙っておく。
シャッター街と化したふるくさい商店街のちょうど真ん中あたりにある古書店『本田本店』が僕の家だ。居住スペースは二階と三階。一階は狭い古書店になっている。
いまは母と二人暮らしで、父はもう何年も単身赴任で海外へ行っている。父がなんの仕事をしてるのか息子の僕もよくわかっていない。
去年亡くなった爺ちゃんから受け継いだこの店はたいした収入源にはならないけれど、母は閉めようとはしなかった。爺ちゃんの残してくれた店に執着があるわけでも、この狭い商店街の古家が好きなわけでもなかろうに、なぜかこの店をずっと続けている。
おかげで僕もときどき店番をすることになっている。学校が終わればすぐに帰り、母が夕食の支度をするあいだはずっとここにいるのだ。
店内にいるのは常連客がひとりだけ。ただし買う気配はなく堂々と立ち読みしている。僕の帰宅と同じタイミングに来るので、もう二時間ほどだろうか。
今日も絶好調だな。
売り上げは収支グラフにしてみれば見事に綺麗な横一文字。客の数よりため息の数のほうが多くなる。
「やっほーコテツ。あいかわらず仏も避ける仏頂面だね」
カウンターに肘をついて座っていると、店に入ってきたのは高校の制服を着た少女。
快活な表情で、肌はすこしだけ日に焼けている。
本田コテツが僕の名だ。
「……お客様、当店にトイレはございません」
「ああそうなんですかすみません――じゃなくて!」
店から出ようとしてから振り返ってツッコミを入れた女子高生。
なんだ、違うのか。
「それで僕になにか用か……アイ」
この少女は村雨アイ。小学、中学ときて高校までも同じ腐れ縁というやつで、いまもクラスメイトだ。商店街の端にあるパン屋の娘。うちの母親とアイの両親が同級生だったってこともあり、家族ぐるみで仲がいい。
アイはカウンターのなかに遠慮なく入ってくると、僕のとなりにあったパイプ椅子を広げて勝手に座る。
「さっき部活してたら新しい都市伝説聞いたんだけどね、聞きたい? ねえ聞きたいでしょ?」
ひょい、とレジの横にある飴をつまんで食べるアイ。
その遠慮のない態度にも慣れたものだ。僕は表情を変えずに答える。
「べつに聞きたくない」
「じゃあ教えてあげるね!」
「耳鼻科いけ」
会話が成り立たん。
ま、昔からそういうやつなんだけど。
「それでね、友達から聞いたんだけど、この街のどこかに夏になっても暑くならない場所があるんだって。なんでもそこに住みついた幽霊が気温を下げてるらしいの」
「ああ僕の家にもあるぞ、一年中涼しい箱。うちの幽霊は、去年買い換えたな」
「それちがうわよ!」
ビシッと律義につっこむアイ。
新聞部に入っているアイは、都市伝説とかが好きなのだ。
あと、その真実を追求したがる。
「……で?」
「あ、うんそれでね、その不思議スポットを特集するから、コテツこんどあたしと一緒に肝試してよ。そろそろ夏だしちょうどいいし」
「夏の風物詩か。でも悪いがパスする」
「それをキャッチして返却する」
「なんだと? じゃあまたパスする」
「またキャッチして返す」
「ならスルーする」
「え? 『するする』って?」
「耳鼻科いけ」
「あ~よかった。ありがとうねコテツ!」
にっこりと笑ったアイ。
なにを言っても無駄なことはわかってるので、僕はため息を吐きだすのだった。
音 音 音 音 音
「ねえコテツ!」
学校は中間テストが終わり、とくにイベントもなく、ダラダラと日常が続いていく。
二年二組の僕のクラスは教室棟の二階にある。うちの学校はおもに教室棟、特別棟、設備職員棟の三つに分かれている。教室棟の一階から三階まではふつうの教室で、教室棟の四階には美術室などの特別室の一部、特別棟は四階まですべて図書室やLL教室などの特別室がある。
アイが所属する新聞部の活動部室は教室棟の四階なので、放課後はそのまま上にあがっていくと思いきや、教室をでたところで呼び止められた。
「なんだ?」
僕は友達に先に帰るように伝えて、アイに振り返る。
「あのねあのね、新しい噂聞いたんだけど、聞いてくれる?」
もちろん面倒なので嫌だ。
とはいえアイの「聞いてくれる?」には見えない「よね?」が付属している。うなずく意味もあまりない。黙っていると、アイは口早に語りだした。
「特別棟の四階に音楽室あるでしょ? そこに最近、ピアノの幽霊がでるんだって!」
「また幽霊か」
この街は幽霊が多いらしい。十六年住んでて見たことないけど。
「なんでもね、放課後、合唱部がそこで練習してるらしいんだけどさ、その練習後しばらくするとピアノが勝手に鳴りだすらしいの! 誰もいないはずの音楽室からピアノの音楽が流れてくるんだって!」
「そうか。そのピアノは生きてるんだな。じゃあ解決したから帰るぞ」
「まってまって帰っちゃだめ! てかピアノは生きてないよ! 生まれたときから死んでるよ!」
帰ろうとしたら鞄を掴まれた。
ちっ、誤魔化せなかったか。
「……それで、その噂が本当だとして、なんで僕を止めるんだよ」
「そりゃあ一緒に調査してもらおうと思って」
「ひとりでやれよ。僕は店番があるんだよ、帰らないと母さんが夕飯の支度できないんだよ」
「あ、だいじょうぶ! コテツのお母さんにはうちのパン好きなだけあげるって言ったら喜んで手伝わせろって!」
嬉しそうに携帯をちらつかせるアイ。
まったく……姑息な手段をとりやがって。
とはいえタダでパン貰い放題と考えればやぶさかじゃない。アイの家のパンはなかなかにうまいのだ。アイの母親の料理の腕が半端ないことは知っている。
「……僕、かぼちゃパンな」
「わかった。ママに言っとくね!」
交渉が成立してしまった。
まあいい。とにかく噂の真偽を確かめるだけでいいのだ。もうしばらくアイに付き合ってやるとしよう。
僕とアイは合唱部の練習が終わるまで教室に残った。
窓を開け放していると、合唱部のピアノと美しい声のハーモニーが教室棟から響いてくる。そういえばうちのクラスにも合唱部の子がいたなぁと思いながらぼんやり聞いていると、いつのまにか一時間ほど経っていて、気付けばピアノの音が聞こえなくなっていた。
「……そろそろ終わったかな?」
アイが窓から特別棟を眺める。特別棟は中庭をはさんで正面にあるので、窓とカーテンを閉められていても、電気が点いているかどうかくらいはわかる。
「あ、終わったみたいだよコテツ!」
教室棟の玄関から、ぞろぞろと合唱部員がでてくる。
とはいえたった六人。すべて女子。
それほど多くない部員数で毎日がんばってるのか。なんとなく応援したくなるなったけど、コンクールとかに出てるとかいう話は聞かない。
部員のひとりが鍵を職員棟に持っていった。どうやら鍵は職員室で管理してるらしい。
ってことはいま完全に音楽室は閉まってるってことだ。
誰も入れるはずがない。
「じゃあ行くよコテツ」
アイに手を引かれて、僕は教室棟から出るのだった。
特別棟は静かだった。
うちの吹奏楽部は、去年潰れたらしい。もともと部活動に力を入れてる学校じゃない。少子化で少なくなった生徒数、不景気で補助が弱くなった部費。このふたつが重なり合い、うちの吹奏楽部は部員がすこしずつ減り、そしてとうとう少人数になった吹奏楽部は生き残ることはできずに消えてしまったのだ。
音楽系の部活は合唱部のみ。
特別棟でいま活動しているのは、一階には茶道部・書道部・放送部・文芸部。
二階には生徒会室と図書室と調理室があるけど、いまは人がほとんどいない。
三階はLL教室と視聴覚室と被服室があるけど、こちらも誰もいない。
四階は階段手前から部活動などに使う機材置き場の部屋、その横はいつも土の匂いがする工芸室、その奥には音楽室と、一番奥の非常階段横には音楽準備室がある。
音楽室と音楽準備室はなかで繋がっているらしいけど、とにかくピアノがあるのはこの学校のなかで音楽室だけだ。
「……で、まだか?」
「わかんない」
僕とアイは、特別棟の一階の階段に座っていた。なんでも、三階より上にあがるとピアノは鳴らないらしい。
合唱部が帰って三十分もすると、他の部活動部員たちも帰り始めた。
聞こえてくるのはグラウンドからの運動部の声だけになる。
静寂に包まれた特別棟で、僕とアイが黙っていると――
~~♪
かすかに、ピアノの音が聞こえてきた。
とっさに階段のうえを見る。
「行くよコテツ!」
アイがおもむろに元気になり、僕の手を強くひいて階段を上り始める。
まさかと思いながら階段を駆け上がる。
けど、なぜか三階から階段をあがったところで音楽がぴたりと止まった。上から聞こえてきたかすかなピアノ曲が止まり、また静かになる。
「幽霊に逃げられちゃう!」
アイは猛ダッシュで階段を駆け、四階につくと全速力で音楽室の前に走り、窓から中を覗いた。
遅れて僕も到着する。
「ねえねえ! 見てみて!」
アイに指示されるとおりに僕も音楽室のなかを覗く。
……誰もいない。
そりゃあ鍵はかかっていて、電気はついてない部屋だ。ほんとうに誰もそこにいないのかは見た限りではわからない。
「……ここ、中から鍵は?」
「開けられないよ。外からでないと無理。鍵がなければ出られないし、入れない」
ためしに扉を開けてみようとしたけど、やはり施錠済み。
「ふぬぬぬ!」
アイが窓をあけようと奮闘してるけど、まったくもって無意味だ。
あるいは音楽準備室かも――と思ったけど、どうやらそちらも完璧に閉められていた。
「……ん?」
ただし、小さな子供ならなんとか入れそうな小窓が、準備室の扉についていた。
鍵はもともとない小窓。
とはいえ、高校生にはここから入るのは不可能だろう。たとえ小柄だとしても、タコみたいに体が柔らかくないと無理に違いない。
「やっぱり幽霊……?」
アイはじっと音楽室のなかを覗いていた。
幽霊なんてナンセンス。
どこにでもあるような音楽室の怪談だ。
「どうせ誰かの悪戯だって」
「そんなわけない! スクープのにおいがするもん!」
アイはそれから日が暮れるまで、ずっと音楽室の前に張りついていた。
翌日、僕はまたアイに引っ張られて放課後に残ることになった。
さすがに二日連続で晩飯にパンはどうかと思ったが、そこはぬかりのないアイだった。そもそもパン屋が定休日だったので、アイの母親が僕の家に遊びにきて晩飯をつくっているらしい。何回もいうがアイの母親の料理は絶品だ。アイの父親の話によるとむかしは料理がド下手だったらしいけど、死ぬほど料理を研究して、いまではレシピ本を出すくらいになっている。パン屋を始めたのは、祖母の家を壊した跡地に、自分ができる店を持ちたかったかららしい。
なるほど、その行動力はアイにもちゃんと遺伝してる。
「――練習は毎日一時間にしてるのよ。あまりやりすぎると喉を傷めるし、それに終わってからみんなで遊べるじゃない? だから、うちは毎日一時間の練習に決めてるの。まあわたしは遊びにいかずに、家に帰ってピアノとか弾いてばかりいるんだけどね」
アイと僕は部活が終わってから、合唱部の部長に話から話を聞いていた。ちゃんとオシャレな喫茶店で座って、いかにも新聞部の取材のような形で。
こういうところはしっかりしてんなぁ、とアイに感心しつつ、僕はぼんやりと部長の話を聞いていた。
「じゃあ合唱部のピアノは、部長さんが弾いてるんですか?」
「いまは『アムール川の波』って曲をみんなで練習してるんだけど、今回はわたしじゃなくて二年の徳永さんよ。ほら、あなたたちのクラスメイトの」
「ああ徳ちゃんが! そうなんだ!」
「いや慣れ慣れしく呼んでるけど、ほとんど話さないだろおまえ」
「うん!」
その徳永さんはかなり大人しい子で、いつもやかましいアイとは波長が合わなさそうだ。どうやら合唱部だったらしい。
部長は苦笑いして続ける。
「それで今回は、徳永さんも弾ける曲だったらしいの。徳永さんはその……あまり歌が得意じゃないから、今回は多数決で徳永さんにやってもらおうってことになって」
「徳ちゃん、音痴なんですか?」
ストレートに聞くアイ。
ちょっとは言葉を濁すってことを覚えろ。
「いいえ。音程取りは安定してるんだけど、あの子恥ずかしがり屋でね。声量が合わなくて」
「そうなんですか~。でも合唱ってピアノなくてもできますよね? アカペラとかあるじゃないですか。なのにどうしてわざわざピアノ使ってるんですか? もともと人数も少ないのに、ひとりそれでとられますよね?」
「お、おいアイ」
「いいんですよ彼氏さん」
ちょっと失礼な質問かと少し慌てたが、部長はにっこりとほほ笑んだ。
「ピアノというのはきちんと調律さえしていれば、誰が弾いても音程はブレません。みんなが音程を乱さないほどの歌唱力があればべつですが、わたしたちは人数も少なく、歌うのが好きな気持ちだけでやってる者がほとんどです。きちんとした音を出すためには、ピアノという道標があればわかりやすいのです」
「ほほぅ、そんな理由があったんですね~」
感心してメモをとるアイ。
僕はほっと息をつく。
「ただまあ、わたしがピアノ好きだからってのもあるんだけどね」
「なるほど、部長さんはピアノを愛でてる、と……」
「おいアイ、書き方に気をつけろ。……あ。あと部長さん、僕はこいつの彼氏じゃありませんからね?」
「あらまあ、こちらこそごめんなさい」
知ってたのだろうか、部長はにこりと笑って謝った。
意外と狐だな、このひと。
そのあとはどうでもいい雑談になったので、アイもメモをとることはなかった。アイと部長は意外と気が合ったのか、はたまた日が暮れるまで喋りつづけていた。
部長と別れてから家に帰るまでのあいだに、僕はアイに尋ねてみた。
「なにかわかったか?」
「うん。とりあえずピアノの大事さはわかったよ!」
「……おまえ、なんのために話聞いたんだよ」
「あれ? なんだっけ?」
「ピアノの幽霊だろ」
「ああっ! 忘れてた! あたしのバカ!」
ふつうの取材になっていたのでまさかとは思ったが、本気で忘れてたらしい。
珍しくアイが落ち込んで――
「まあいっか。またこんど聞こうっと」
二秒で復活した。
「……おまえってさ、めちゃくちゃ前向きだよな」
「え? そりゃ顔は前についてるけど……?」
「おまえが考える後ろ向きが気になるよ」
アイとともに家に帰ったときには、すでにアイの母親の料理はできていた。
僕の好物――中華料理だ。
そのあと仕事帰りのアイの父親も合流して、僕らは五人で夕食を囲んで食べた。
そのときに音楽室の怪談の話もすこししたけど、大人たちが懐かしそうに高校時代の話に花を咲かせることになったきっかけになるだけだった。
僕の母親が生徒会だったことを、そのとき初めて知ったりもして驚いた。
さすがに三日連続で店番をサボることはできず、その次の日はアイに付き合わずに家に帰った。
音 音 音 音 音
「――ってことがあったんだけどさ、ナナはどう思う?」
相変わらず、『本田本店』には閑古鳥が鳴いていた。
カウンターに座ってるのは僕ひとり。
僕の言葉に反応したのは、歴史書コーナーの棚の前でじっと立ち読みしている常連客。うちの高校のセーラ―服に身を包み、黒縁眼鏡をかけた前髪パッツンの小柄な少女。
毎日ここにいる、本の虫だ。
「……その話、詳しく聞かせて兄ちゃん」
本に目を落としたまま、少女――竜ヶ峰ナナが小さくつぶやいた。
ナナはもうひとりの腐れ縁。ナナとアイと僕は家族ぐるみで付き合いがある。
一歳年下で僕を兄のように慕ってくる後輩だ。
「詳しくって、どこを詳しく?」
「兄ちゃんが見たこと聞いたこと全部」
「え~めんどくさい」
ひととおり話したはずなのに、なんて欲張りな耳なんだろうか。
僕が嫌な顔をすると、ナナはぱたりと本を閉じた。
ナナは幼いころからここに通っていた。僕の爺ちゃんと仲がよくて、いつも孫のように可愛がっていた。そのおかげで僕や母とはよく話してたし、いっしょに夕食を一緒に食べていくこともある。爺ちゃんが亡くなってからもここに通ってくれている。純粋に本が好きなんだろう。
一冊も買うことなく、この店の本を読破するつもりのようだ。
商売あがったりだけど、まあナナなら家族みたいなものなので許せる。
「……どうしたナナ?」
でも、それほどまでに本好きのナナが、途中で本を閉じるなんてある意味事件だ。
これは天変地異の前触れか――と思っていたら、
「ぎゅっ」
カウンター越しに抱きしめられた。
「いいから話して。話さないと離さないからね」
「……ダジャレを言うために閉じるとは、相当あの本つまらなかったんだな」
「ダジャレじゃないもん。言語学的な小遊戯」
「あるいは親父ギャグともいう」
「……ちがうもん。それにあの本が悪いんじゃないの。私があの本の面白さを理解できなかったのが悪いんだもん」
唇を尖らせて、僕の肩に顔をうずめるナナ。
可愛いやつめ。くしゃくしゃと髪を撫でておいた。
「まあいい。じゃあ初めから教えるぞ?」
べつに、そのままナナに抱きしめられててもよかったんだけど……ってのはさすがに恥ずかしいから言わないでおく。
僕は最初からもういちど話した。
アイと一緒にみたこと聞いたこと、言い漏らしのないように十分ほど使ってすべて話し終えると、ようやくナナは体を離した。
すこしずり落ちてた眼鏡を戻しつつ、ナナがつぶやく。
「……アイさんに、それ以上は調べないように言ってあげて」
「え?」
僕が目を丸くすると、ナナはまた歴史書コーナーに戻っていった。
「なんかわかったのか?」
「……たぶんだけどね」
たぶんだけど。
ナナがそういうときは、たいてい当たってる。
歴史書をめくりだしたナナ。自分でわかっても僕にはわからない。さすがにここまで首を突っ込んだ以上、真実とやらがあるのなら知りたかった。
「なあ教えてくれよナナ」
「…………。」
無視された。
「教えてくれたら好きな本一冊やるぞ」
「……いい。ここで読めるから」
お、ちょっと心揺れたな。
「教えてくれたら好きな本二冊だ!」
「ここで読めることにはかわりないもん」
ちっ、同じ手は通じないらしい。
かくなるうえは。
「教えてくれなかったらいますぐ店を閉めるぞ」
「……それは、ヤだ」
歴史書はあとすこしだけページが残ってる。
ナナは本を持ったまま、僕をちらりと一瞥した。
「教えるよりも見たほうがわかりやすいと思う。……あしたの放課後、時間ある?」
「ああ。いまから母さんに言っておけば大丈夫だと思うけど」
「ならあしたの放課後はアイさんのところじゃなくて、私のとこにきてね」
「わかった」
なんかトゲがあった気がするけど、とにかく明日の予定は決まった。これでモヤモヤすることなく過ごせる。僕はカウンターのなかに積んであった古本を適当に手にとって、読み始めた。
しばらくするとナナは歴史書を読み終え、そのまま帰っていった。
今日の夕食はカレーのようだ。店のほうまで匂いが漂ってきた。
僕は日が暮れてから、店を閉めた。
僕らは高校生だ。
誰もがその毎日になにかを感じ、過ごしていく。
たとえばアイは常に周りのことにアンテナを立てている。周囲で起こってることをすぐに気にして、そのなかで興味がわいたことに全力を注ぐ。新聞部という部活でいろんなニュースを追いかけるのは、さぞかし楽しそうだ。
ナナはより面白い本を求めている。知識欲や好奇心を満たすだけでなく、読んだ内容から想像力を膨らませるのが楽しいようだ。世界に溢れるすべての本にはそれぞれ面白さがあり、もしそれを理解できなければ、自分の感性が弱いと嘆く。とても熱心に、彼女は本を読む。
僕はというと、平和を求める。
同じ生活、同じ日々。ただ目の前のことに必死で、アイやナナのように自分で熱中するようななにかを見つけていない。でも、それでも毎日楽しかったり、つまらなかったり、悲しかったり、うとましかったり、いろんなことを感じる。
誰にでもそういうものがある。
だから一生懸命になにかをしているやつを見ると、つい応援したくなる。
「そっと……覗いてみて」
ナナのいうとおり、僕はそうっと部屋のなかを窓から覗いた。
特別棟四階。
僕とナナは、誰もいなくなった特別棟へと来ていた。静寂のなか流れ出してきたピアノの音のもとへむかって、ナナの指示通り足音をたてないように(・・・・・・・・・・)ゆっくり忍び足で四階まで登ってきた。
誰もいない学校の階段ってのは思ったより足音を響かせることに気付いたのは、いまさらながらだった。
ピアノが聞こえてきたのは、一番奥の音楽室ではなく――一番手前の機材置き場。
そのなかにいたのは同じクラスの徳永さんだった。彼女は奥のほうに置いてある、大きなCDコンポに向き合って、そこから流れてくる音楽を真剣に聞いていた。
『アムール川の波』のピアノ曲。
合唱部の練習中の曲だ。
あまり大きな音で再生していない。自分がちゃんと聞きとれればいい、くらいの音量だ。
なるほど。階下で聞いてると、四階の一番おくからピアノが聞こえてくるように感じるわけだ。
その小さな曲に合わせて、彼女は口を開いたり閉じたりしていた。ときおり曲を止めては巻き戻し、それを繰り返す。
しばらくするとナナは僕の手を握って、小声で言った。
「……降りよう」
僕らはまた足音をたてないように、階下にもどった。
「そもそも前提が違ってたの」
特別棟の玄関から出ると、ナナが言った。
「この学校にはピアノは音楽室にしかない。ピアノの音だけがかすかに聞こえてきたら、誰だって音楽室から鳴ってると思うわ。でも、それが間違ってたの」
ナナは眼鏡をとって拭きながら、特別棟の四階の窓を見上げる。
明かりもなにもついていない機材置き場。
「……徳永ユリ子は、合唱部で透明部員と呼ばれてるらしいよ。私のクラスにも合唱部の子がいて、その子に聞いたんだけど、そもそも徳永ユリ子は合唱部なのにぜんぜん大きな声を出せなかったらしいの。性格の問題みたいだけどね」
そういえば、部長がそんなことを濁して言っていたっけ。
「彼女は、練習でもほとんど声が通らない。二年生なのにまるでいないような扱いを受けてたみたいよ。だけどそれはイジメでもなんでもなく、彼女自身の力が足りなくてそうさせただけ。それは彼女にもよくわかったんだろうね……ピアノという役割を与えられてようやく、ちゃんとみんなと歌いたいって気持ちに気付いたんだと思う。
だから彼女、ああすることにしたのね。練習が終わってから自主トレをするようになったの。でも、自分でピアノを弾きながらじゃ練習にならないから……だから機材置き場にあるCDコンポを借りたのね。曲を聞きながら歌う練習をするのために、あそこに籠った」
なるほど。
徳永自身は、音楽室のピアノの噂なんて知らないのだろう。
「誰もいなくなった特別棟で練習してるのは、彼女が恥ずかしがり屋だからだろうね。練習してるところを誰にも見られたくない……だから少しでも足音が聞こえてきたら音楽を止める。誰かがいれば静かに身を潜める。その臆病さもあいまって、音楽室にまつわる噂が流れる結果となった。そんなところだと思うよ」
「そういうことか」
べつに不思議なことでもなんでもない。
ただ大きな声が出せない恥ずかしがり屋の合唱部員が、練習していただけなら。
「……だからアイさんには、あまり詮索してほしくないの」
「なんでだ?」
僕が首をひねると、ナナは力なく笑った。
「あのひとはね、太陽みたいな人なの。いつも明るくて周りに元気をふりまいてくれる。誰にだって好かれるし、すごくいい人。……だけど、私や徳永ユリ子みたいなひとにとっては……ちょっと眩しすぎるから」
すこし悲しそうだった。
「徳永ユリ子はいま、変わろうとしてるわ。自分の殻を破って、ひとつ成長しようとしてるの。だからそっとしておいてほしいの。そっと見守っててほしいの。太陽が強く照らしちゃったら、月は顔を出せないでしょ?」
「……わかった」
短い高校生活だ。
誰かの成長を止めるなんて、僕にはできない。
あるいは僕も、徳永の成長を見たくなったのかもしれない。
たしかに徳永ユリ子は大人しい少女としてクラスで定着している。合唱部にいるなんてこと、言われなければ思い出さないくらいほど。目立つことのない、日陰の存在。
ナナも同じだ。
毎日僕の家へ本を読みに来る。ってことはつまり、他の友達と遊んだり出かけたりしてるわけじゃない。それに本の虫は、太陽に弱い。
ナナはアイが苦手だ。
昔からふたりが顔を合わせても、話すことはない。ナナの親もふくめて家族ぐるみで仲がいいにもかかわらず、だ。
相性は誰にだってある。
ナナはなまじ頭がいいから、それをわかってるのだろう。頭がいいぶん自分の限界を知っているのかもしれない。
「……じゃあ、帰ろ。兄ちゃん」
だから、ナナと似ている徳永が成長しようとするのなら、僕はそれを止めたくない。
成長したその姿を見てみたいと、思う。
「ああ」
僕はそのまえに、アイに連絡しておいた。
決して音楽室の噂には手を出さないこと。
理由はしばらくしたら話すこと。
こんど好きな本を一冊だけ買ってやるってこと。
「ねえ兄ちゃん」
「どうしたナナ」
「……こんどアイさんと会ったら、私たちが付き合ってること、言ってもいい?」
「いいけど……どうしたんだ急に」
「べつに。なんとなく」
ナナは僕の腕にくっついて、すこしだけ嬉しそうに歩いていく。
……こりゃあ、ひと雨きそうだ。
夕焼け雲がうろこ状に散らばっているのを見上げて、僕は苦笑した。
そろそろ、梅雨の季節だ。
ちなみに。
音楽室の噂に『美しい歌声も聞こえてくる』という話が追加されるようになったのは、それから数週間後のことだった。