午後の予報は白い雨
2024年8月26日
お風呂が沸きました。
「人形の夢と目覚め」のメロディーが流れると、途端に憂鬱な気分になる。セミロングの後ろ髪を濡らした水滴をフェイスタオルで拭いた後、ソファーから立ち上がり肌色のブラウスを洗濯機に入れる。お風呂の曲名を教えてくれた高校の友だちは今ごろどうしているだろう、とりとめのない思いを頭の片隅に抱きながら、白いブラジャーのホックを外した。
入浴剤にまみれた浴槽から出て、ボディタオルをしっかりと泡立てる。自分の身体を見ないよう固く目を閉じながら、立ち昇る湯気の中でシャンプーを落としていく。そそくさとバスタオルにくるまると、昨日と同じ違和感がようやく胸にしまわれた。冷蔵庫から麦茶を出して窓の外に目をやると、街灯に照らされた光の中に音もなく霧雨が降り続いていた。僕の周りには、あるべきものがなく、なくていいものがある。
2024年8月27日
「私が受注した交通信号用無停電電源装置は、今月の検収に上げていいですか」
営業部の伊東主任が水色のワイシャツの袖をまくりながら答える。
「UPSはまだ先方さんの了承が取れていないからなあ。それより片岡さん、このニュースを見ましたか」
パソコンを見せてもらうと、DIC株式会社のプレスリリースが表示されていた。
「あ、やっぱり閉館するんですね」
「社長命令でわが社も全員存続の電子署名を入れたんだけどな。さすがに、大企業様のご意向には逆らえないか」
「何か、寂しいですね」
「会長が生きていたら悔しがっただろうなあ。ごめん、電話だ」
デスクに戻ってキーボードを叩こうとした瞬間、左手の薬指が震えていることに気づいた。「閉館」の二文字が思った以上にショックだったらしい。こめかみを押さえながら給湯室に向かい、冷蔵庫に入っていたカゴメのフルーツジュースを額にあてた。
「お疲れ様です。お先に失礼します」
帰り道、街灯のはるか上に輝くわし座のアルタイルを見つけてから、僕は佐倉市で働く理由に想いを巡らせていた。
美大には入ったものの周りの学生との差が針のように右脳へ突き刺さっていた四年次の春、組織に属さないと不安だと思い就職活動を始めた。何か色に関わる仕事をしようと思った時に、幼い頃に見た「若林踏切」交差点の風景が蘇ったのだった。規則正しく点滅する信号の色を維持したい。調べていくうちに、この街に信号機の製造メーカーがあることが分かった。佐倉市には宮田公園があることしか知らなかったが、面接の案内が来たのでブラックのパンプスを履いて玄関のドアノブを回した。そういえば、京成電鉄の車窓から視界に飛び込んできた風車は異国の地への入り口のようで、これまでの場所には戻れないことを暗示しているような気がした。
京成佐倉駅から十五分ほど路線バスに揺られ、バス停から十分ほど歩くと資材置き場に隣接した三階建ての黄色い建物が見えてきた。「株式会社横山製作所」と書かれた看板の下で、紺色のボタンダウンを着た中年男性が手を上げて合図をくれた。山積みに書類が置かれた机の間を通り抜けて、「会長室」と書かれた木製ドアをノックした。
「どうぞ」
朴訥とした声に導かれて中に入ると、橙色の蝶ネクタイを結んだ老人がにこやかに座っていた。中年男性は社長で、老人は父であり会長であり創業者でもあるということだった。採用面接として案内してくれた社長の問いかけに答えているが、会長は微笑みを浮かべるだけで何も語らない。社長の質問が終わったところで席を立とうとすると、会長がゆっくりと口を開いた。
「あなたは、絵が好きですか」
頭の中で、かつて観てきたゴッホの《糸杉》やシニャックの《サン=トロペの港》を思い浮かべながら、会長の眼を見て答えた。
「はい」
会長は小さく頷き、引き出しから白い封筒を取り出した。
「次の春からはこの街で働くだろうから、こちらに行ってごらんなさい」
帰りの電車で封筒を開けると、DIC川村記念美術館の招待券が入っていた。
2024年9月23日
「前と同じくらいの長さでまとめていただけますか」
革製のスタイリングチェアに座り、紫色のエプロンをまとったショートボブの美容師に声をかけた。二か月前に、街のことを知りたくてとりとめもなく歩いていたら、この美容室を見つけた。レンガ造りの二階建て家屋を改装したらしく、一階が店舗になっていた。ステンドグラスから中を除くとドイツ製のビスクドールやステンドグラスのテーブルランプが飾られており骨董屋かと思ったが、店外の小さな黒板に「完全予約制。美容室lucciola」と書かれていたので、家に戻って少し悩んだ後に電話をかけてみたのだった。その実、にこやかな女性美容師が丁寧に枝毛を切ってくれたので、今回は二度目の来店ということになる。
「分かりました。前回のカットを気に入っていただけてよかったです」
髪を洗いますのでこちらにどうぞ、と奥のシャンプー台へ案内される。頭皮のマッサージを終え、温水でカットの緊張がほぐれた後にスタイリングチェアへ戻る。僕は雑誌を読まないので、目を閉じてハサミのリズムに耳を澄ませる。
「毛先は、内巻きのワンカールで仕上げますね」
「落ち着いた雰囲気にしてください」
「外見は内面を反映する大切な要素ですから、飾りすぎないようにカットしますね。だけど、口紅の赤い差し色は、とても素敵ですよ」
急に僕の化粧を褒められて焦る。話題を変えようと、初回来店時にもらった名刺を思い出す。
「上村さんは、いつからここでお店を始められたんですか」
「四年前くらいかしら、空き家のリノベーションを行う活動に参加したの。レンガ造りの外壁と二階に並んだ丸窓がとても綺麗で。自分のお店も持ちたい時期だったので思いきりました」
「なるほど、棚に飾っているマトリョーシカやロートレックのポスターも似合う空間ですね」
「私は骨董品集めが趣味でして、このお店は保管スペースも兼ねているんですよ」
上村さんは柔らかく微笑んだ後、視点を定めて僕の前髪を揃え始めた。
「ありがとうございました。またお伺いしますね」
クレジットカードで会計を済ませた後に、少し迷ってから小さく打ち明けた。
「学生時代に水彩画を勉強していたんです。仕事を始めてからデッサンから離れてしまいましたけど、この街で色々な人と出会ってまた絵筆を握りたいと思うようになりました」
「あなたは、とても優しい絵を描くのでしょうね。私も、ぜひ作品を見せていただきたいです」
僕がうなずくと同時に、背後から柱時計が正午を告げる鐘を鳴らした。
2024年10月14日
「川村記念美術館行きのバス停はこちらでよろしいのですか」
京成佐倉駅のロータリーでバスを待っていると、カーキ色のスカーフをまとった老婦人が背後から声をかけてきた。
「そうです。無料送迎バスが出ていますよ」
「無料というのはありがたいわねえ。岡山から来たかいがありましたよ」
「そうなんですか、随分遠くからいらっしゃったんですね」
「桃太郎空港から成田空港まで直行便があれば良かったんですけど。羽田空港からの電車も長かったわあ」
「千葉県に入ると京成線は駅間が長くなりますからね。ほら、バスが来ましたよ」
バスに座ってからも、老婦人との会話は続いた。
「私設美術館は公立の美術館とは違って、建てられた方の想いが伝わってくるのよねえ。川村記念美術館はどうしても訪れたい場所だったのよ」
「私も、自分が暮らす場所から魅力が一つ消えてしまうことは寂しく思います」
「どの場所もいつなくなるか分からないから、行ける時に訪れるべきなのよ」
少しお尻が疲れてきたタイミングで、バスは川村記念美術館に到着した。
「案内してくれてありがとう。倉敷にも素敵な美術館があるから、ぜひ訪れてくださいね」
「貴重なお話をありがとうございました。今日は、ごゆっくり楽しんでください」
「大人一枚、PayPayでお願いします」
入場ゲートの前でチケットを購入し、なだらかな坂道に沿って林を抜けると、白鳥が泳ぐ池と噴水が見えてきた。池の対岸に見えるDIC総合研究所の重厚な姿に圧倒されて目線を移すと、二つの塔を宿した川村記念美術館が見えてきた。この境界をあと何回越えられるのだろう、少し緊張しながら館内に足を踏み入れた。
エントランスホールは、かつてないほどごった返していた。鉛色のマントを被った団体客がロビーで話し込んでいるかと思えば、藍色のカーディガンを羽織った若い男性が無料の音声ガイドを聞くべくQRコードをスキャンしていた。思ったより天井が高いな。作品だけでなく建物自体も記憶に焼き付けるべく、これまで意識していなかった外光と照明の調和に視点を合わせた。
最初に入った101展示室には、モネの《睡蓮》やルノワールの《水浴する女》といった印象派の作品がイントロダクションのように並べられていた。そうだ、僕は額縁を眺めるのも好きなんだ。正面だけでなく左右や下から見上げると、額縁の奥行きも相まって絵の表情が変わってくる。特に油絵の躍動感は画像ではなく、実物を見ないと体感することは難しい。徐々に美術館の静寂に身体を慣らしながら、102展示室に向かった。
また、お会いしましたね。レンブラントの《広つば帽を被った男》が、僕に向かって語りかけてきたように感じた。思わず軽く会釈をしたが、何度見てもカンヴァスに描かれた黒茶色の瞳に吸い込まれそうになる。そういえば、レンブラントの作品を見かける機会は少ない気がする。オランダ国外に持ち出すには料金が高いのだろうか。
103展示室に飾られているモホイ=ナジの《十字と円》が指し示す意味はやはり理解できず、110展示室ではウォーホルの《マリリン・モンロー》から『七年目の浮気』をまだ観ていないことを思い出した。
多機能トイレが開いていたので、小休止を兼ねて立ち寄ることにする。便座に腰かけると、右足が小刻みに震えていた。おかしいな、まだそんなに歩いていないのに。立ち上がると震えが止まったので、ハンドドライヤーで両手を乾かしてから104展示室に向かった。
ミロの《コンポジション》の色彩からグアッシュの持つ力強さを感じた後で、105展示室に漂う独特の空気が皮膚をなでた。コーネルによる手製の木箱に配置された釘や貝殻からは、小宇宙を作ろうとした作者の苦悩を垣間見ることができる。キャプションを読むと、美術館の警備員をしていた頃に芸術に目覚めたと書いてある。たしかに、一日中作品に囲まれていたら感化されるべき瞬間はありそうだな、と黒いスーツを着て背筋を伸ばした女性の監視員を見ながら思った。
長い廊下を歩いていると、徐々に照明が暗くなっていくことに気がついた。この展示室に来る前は地下に潜っていくような感覚があるが、照明の演出効果も大きかったんだな。小さく深呼吸をして、106展示室に入った。
これまでの展示室とは明らかに設計思想が異なっている。部屋に作品が展示されるのではなく、作品を展示するために部屋が作られている。マーク・ロスコの《シーグラム壁画》。七角形の部屋の中で赤茶色の巨大な絵が醸し出す陰影を見つめていると、深海に引きずり込まれそうな不安に包まれ、一度眼を閉じてから二階へと続く階段を目指して歩き始めた。
200展示室の柔らかな木漏れ日を浴びた時、突き刺すようなめまいがこめかみの中心を貫いた。ふらふらとよろけながら後ずさりをして、会場隅みのベンチに腰を下ろした。気分を落ち着けようと天井を見上げた時に、とめどなく涙が溢れてきた。制御できない何かが覆い被さってくる実感があった。涙を拭うためにハンドバッグを開けた瞬間、ハンカチを忘れたことに気づいた。慌てて袖口で目元を拭おうとしたその時、
「よろしければ、これを使ってください」
ふと眼前に、水色のハンカチが差し出された。
「あ、はい」
ハンカチをもらう時に指と指が触れた気がしたが、すぐに目元に当ててこぼれ落ちる雫を繊維に染み込ませた。少し気分が落ち着いてきたのでハンカチの差出人を見ると、緑色のセーターを着た青年が物静かに微笑んでいた。
「すみません。ご気分が優れないようでしたので、お声がけをしてしまいまして」
「いえ、ごめんなさい。ハンカチをびしょびしょにしてしまって」
「気にしないでください。それよりご体調は大丈夫ですか」
「本当に大丈夫です。ありがとうございました」
そう言って立ち上がった瞬間、両足の力が抜けてよろけそうになった。
「おっと」
とっさに男性が両肩を支えてくれたのが分かった。
「もしよろしければ、出口までご一緒しませんか。この後も展示室は続きそうですので」
制御できない自分の身体と濡らしたハンカチを右手に握りしめ、僕は小さくうなずいた。
次の201展示室は広い空間だったので、少し気分を落ち着けることができた。ステラの《セコイア》を鑑賞しながら、男性がささやくように話しかけた。
「僕は専門的なことは分からないですが、この配色はただ鮮やかなだけではなくて、平和への意志が込められているように感じますね」
「私も趣味でスケッチをする程度ですけど、こちらの絵は大胆そうに見えて補色や構図をしっかり計算して描き込まれていますね」
「だからこんなに大きな絵でも、まとまりがあるんですね」
作品を媒介に会話を続けながら、202展示室の入り口に立った。
「企画展としては今回が最後の開催になるみたいですね」
少し物憂げな表情で男性が呟いた。なぜか男性を元気づけたいと思い、僕はあえて明るい声を出した。
「作家のお名前は西川勝人さんか。私は今回の展覧会で初めて知ったけど、ポスターに掲載された透明感のある作品が気になっています」
「とりあえず、中に入ってみましょうか」
最初の空間に入ると、石膏で作られた作品が丁寧に並べられていた。《池のほとり》という油彩画からは、灰色の湖に水滴が広がっていくような錯覚を抱いた。水の流れを閉じ込めたような作品だな、と白い世界の中で思った。
203展示室では迷路のような順路に沿って、乳白色の石膏作品が並べられている。《蓮》や《根》といった作品からは、異国の歴史が閉じ込められているように感じた。雨が振り出す前の静かなざわめきが、作品の内側から聞こえる気がした。
「ドイツの曇り空を作品に詰めて、日本に持って来てくれたんですね」
独り言のように男性が呟いた。
「《無題》という作品名は、そんなに好きじゃないんです。でも、この人の作品には、見た人が想像力を広げるための余白が残されている。だから、作品同士が繋がりを持って、私たちの見たことがない世界を提示しているんですね」
「最後の企画展に選ばれるって、どんな気持ちなんでしょうね」
「とても名誉に思う気持ちと、それ以上に寂しさを感じながら美術館と向き合っていたのかもしれませんね」
全ての展示を見終えると、穏やかな秋の日差しが僕たちを出迎えてくれた。先ほどの喪失感はなく、心地よい疲労と安堵があるだけだ。様々な作品と対話をしながら、実際に感想を語り合えたことで、僕の中にある不安と喜びが循環したようだった。
「シャトルバスに乗って駅に戻ろうと思いますけど、ご一緒されますか」
美術館を巡り終えると、男性が声をかけてくれた。
「はい。京成佐倉駅に帰ろうと思います」
「僕はJR佐倉駅なので途中までご一緒しますよ」
車窓からぼんやりと住宅街を眺めながら、バスの振動に身を委ねていた。
「美術館にはよく行かれるのですか」
「はい。毎日の生活の中で不安になる時があるんですけど、美術館に行くと心が落ち着くんです。でも、さっきは自分でも驚きました。これまで、展示を観ながら体調が悪くなったことはなかったのに」
「僕もそうですけど、閉館のニュースが寂しくなったんですかね。もしくは、ロスコさんの熱量に圧倒されたとか」
その男性が浮かべる微笑みに、レンブラントの肖像画を眺める時と似たような安心感を覚えた。
「そうだ、ハンカチをお返ししなくては。でも、こんなぐしょぐしょの状態では」
「いいんですよ。あなたに差し上げます」
「そんなこととてもできません。洗ってお返しさせてください」
「そうですね。そうしたら、二月から川村美術館で最後のコレクション展が開催されるみたです。そこで、またお会いしませんか」
「分かりました。ぜひお願いします」
「一応、連絡先を交換しましょうか。LINEはお持ちですか」
彼のスマホに表示されたQRコードを読み取り、友だち登録を行う。
「竹内さんですね。今日はありがとうございました」
「片岡さんですか。お互い本名が表示されているから分かりやすいですね。あ、そろそろ着くので、僕は降りますね」
遠ざかる男性の姿を見ながら、窓越しに小さく右手を振った。身体を制御できなかったとまどいと、予期せぬ出会いの嬉しさと。京成佐倉駅のロータリーから見上げた空に、雲間から微かな光が差し込んでいた。
2024年11月4日
「あら、何か嬉しそうね」
僕の声が普段より明るいことに気づいたのだろう。
「良い人に出会えたんです」
ドライヤーをあてた箇所にブラッシングをかけて毛流れを整えながら、上村さんがいたずらっぽく笑った。
「あなた、前より素直になっているもの」
2025年2月11日
【京成佐倉駅のバス停に来ています】
バス発車予定時刻の二分前になっても既読がつかず、不安が募った。バスに乗車した後も、変化のないスマホの液晶画面を見つめていた。八割ほど座席を埋めてバスは動き出した。JR佐倉駅から乗り込んだ乗客で座席は埋まったが、竹内さんの姿はなかった。
【JR佐倉駅にもいらっしゃらなかったけど大丈夫ですか】
既読がつかないまま、美術館に到着した。バス停から二十メートルほど離れた黒い屋根の待合所に入り、もう一度スマホをつけると通知が入っていた。
【ごめんなさい。急な用事で行けそうにないです。もう美術館に到着されたと思いますので、ぜひ楽しんでください】
不思議と怒りはなかった。ただ、心の中に空いた穴に乾いた風が吹き抜けるような気分だった。黒のショルダーバッグを開けて、ハンカチの入った袋の紐をきつく締めた。
【分かりました。ハンカチはまたの機会にお返ししますね】
気持ちを切り替えろ、美術館に来るのは今日で最後だ。深呼吸をして自動ドアをくぐると、昨年以上に館内は人でごった返していた。作品を目に焼き付けなければならないことは分かっているが、あまりの混雑に順番を待とうという気が起きない。人々の肩越しから遠目で絵画を眺めながら、心と体が乖離したまま展示室を彷徨って行く。キャプションの文字は浮き上がるような錯覚で読めず、彩色と造形が網膜から海馬に侵入することもない。帰り際に覗いたミュージアムショップから溢れる人に気圧され、不完全燃焼のままそそくさとバスに乗った。本当に、最後の来館が今日で良かったのだろうか。自宅のソファーで川村記念美術館の公式図録をめくりながら、湧き上がる睡魔に身を包まれていた。
夕方のサイレンで目を覚まし、少し迷ってからスマホを開いた。
【私は、今日無事に美術館へ行くことができました。ただ、とても混んでいるので、開館時間から少しずらした十一時過ぎに到着したほうがよさそうです】
メッセージを送り終わると、お湯をために浴室に向かった。
濡れた髪をバスタオルで拭きながらスマホをのぞき込むと、ぴたりと両手の動きが止まった。
【今日はお会いできずに本当に申し訳ありませんでした。実は昨日交通事故にあってしまいまして。もちろん命に別状はないですよ。でも右足を骨折したのでしばらく歩けそうにないです】
麦茶を喉に流し込み、ソファーに深く腰掛け二時間考えてから返信を打った。
【事情も知らずに勝手にご連絡いたしましたこと、深くお詫びいたします。大変な状況にもかかわらずご返信いただき、誠に感謝しております。竹内さんの早期のご回復を、心よりお祈り申し上げます】
送信完了後、テーブルに置いた図録を再び開き、巻末の作家略歴を眺めていた。三十分後にスマホが鳴った。画面を開くのが怖くて図録を読み続けていたが、作家全員の略歴を読み終えた時点でスマホのロックを解除した。
【片岡さんが閉館前に美術館を訪れることができて嬉しいです。せっかくなら松葉杖が外れた状態でまたお会いできることを願っています。その時にはぜひ展示のお話を聞かせてください】
少し心が軽くなり、十分後に返信を打った。ハンカチを入れた袋をポーチから取り出し、図録の隣にそっと置いた。
【ご連絡ありがとうございます。回復されたら、ぜひお会いできますと幸いです】
2025年2月24日
「何か、心配ごとがおありのようね」
頭皮をマッサージしながら、上村さんが話しかけてきた。心のざわめきに気づいてくれたのかな。助けを求めるように、目を開けて会話を始めた。
「川村記念美術館ってご存じですか。あの場所の閉館が近づいているんです」
「あら、私もあそこは大好きな場所で、京成佐倉駅に面白そうな企画展のポスターが貼り出された時に何回か訪れましたよ。いつも空いていたから、作品とゆっくり対話できて心が落ち着くんですよね」
「そうなんですよ。去年の夏までは静かな空間で、気兼ねなくレンブラントやモネの絵画を眺めていられたんですよね。でも、お客さんが少ないということは、運営が厳しいということなんでしょうね。特に、あそこは企業ミュージアムですし」
「本当に残念ね。あなた、絵を描くから私よりも閉館が寂しいでしょう」
「作品にもそれにまつわる人にも、色々な出会いと発見の場所になっていましたからね。まさに今、借りたものを返すタイミングをなくしてしまって。自分が思った通りに、なかなか物事は進みませんね」
ドライヤーが終わり櫛で髪を梳かし終えた後、明るい口調で語りかけられた。
「今度、私をデッサンしてもらおうかしら」
「美大でデッサンは習いましたけど。それにしても突然ですね」
「自分で絵を描いたら、少しは寂しさが紛れるわよ。それに、あなたが描く絵を見てみたくなったのよ」
いつものように曲がり角で振り向くと、上村さんは店先で笑顔を見せてくれた。
2025年3月1日
「お邪魔します」
玄関前に〈CLOSED〉の看板がかかっているが、ドアは開いていた。普段は見慣れているブリキ人形たちも、薄暗がりの中では意志を持って動き出しそうに見える。踏み出した右足が床を軋ませた時、頭上から声が響いた。
「こっちよ」
小上がりの奥に、二階へと続く階段が伸びていた。三度ノックしてドアを開けると、二つ並んだ丸窓の間に置かれた木製の椅子に上村さんが腰かけていた。
「いらっしゃい。午後は予約を入れていないから、好きなように時間を使えるわよ」
「初めて二階に上がりましたけど、一階と違ってすっきりしていますね」
「一階は私の趣味を展示しているだけだから」
部屋を見回しても、緑色の毛布がかかったベッドと黒い書斎机が壁際に並んでいるだけだった。今日のために、椅子は窓の前に移動させたのだろう。
「早速始めましょうか」
「分かりました。透明水彩で描くので、お水をお借りできますか」
「左側のドアがトイレよ」
水を入れた筆洗バケツを持って再びドアを開けると、上村さんが下着姿になっていた。
「え、脱ぐんですか」
驚きのあまり両手を揺らし、床に数滴こぼしてしまった。
「もちろん、裸の付き合いっていうじゃない。あら、ヌードデッサンは初めてなの」
「大学でやりましたけど、同級生の男の子は鼻血を出してましたよ」
じゃあ大丈夫ね、と言って上村さん当然のように背中のホックを外した。ブラジャーが身体から離れた瞬間、はっと息を呑んだ。白磁の陶器を想起させる肌の先端に、乳首はなかった。ふくよかなお腹の皺が現実世界の刻印だとすれば、滑らかな胸部の曲線はステラの抽象画のように見えた。
「どうしたの、私の裸を見て興奮したかしら」
「いえ、久しぶりに女性の裸を見てびっくりしたんだと思います。更衣室でも、他の人の着替えは見ないようにしていますので」
「私は、タオルも巻かずに胸を張って温泉に入るけど。丸まってたり、とんがってたり、おっぱいなんてみんな色んな形で面白いわよ。今は自分の身体が好きよ、過去を受け入れた証明だから」
とりあえず、ポージングを思案して椅子に深く腰掛けたり、右手を後頭部に回したりする。数分間の試行錯誤の後に、右足を上に組んで右ひじを右ひざの上に乗せ、あごを右手で抑える構図に決めることにした。素描もそこそこに水で絵の具を溶き始めたが、やはり描く前に聞いておくことにした。
「乳がん、ですか」
「そう。当たり前の生活を続けていただけなのにね。お医者さんから通告を受けた時は落ち込んだわね。茜色の夕焼け空に飲み込まれそうな気分だったわ。私一人だけ地球の自転から取り残されたような、そんな感覚」
返す言葉が見つからずに絵筆を走らせる。
「でもね、案外いつも通りの生活ができちゃったのよ。トマトを切って唐揚げを並べてご飯を炊く。特別な日々を乗り越えるために、変な心構えは必要ないのよ」
輪郭線を鉛筆で引いていると、上村さんが口を開いた。
「ただ座っているのも退屈ね。少し昔話をしてもいいかしら」
「分かりました、身体はできるだけ動かさないでいただけるとありがたいです」
「うん。もともと私は臨床心理士になりたかったのよ。それで大学で心理学を学んで、臨床心理士の助手になったのよ。千葉モノレールの近くに、千葉医療センターがあるでしょ。あそこで働いていたわけ。仕事は忙しかったけど、色んな患者さんと出会えて楽しかったわよ。都内まで片道二時間の通勤で疲れちゃったサラリーマンとかね。南関東って、気づかいしすぎる人が多いみたい」
お腹のふくらみは、赤と茶の絵の具を塗り重ねて立体感を表現する。
「最初に違和感を抱いたのは、お昼を食べ終わった後の休憩時間ね。私はお弁当に必ず卵焼きを入れるんだけど、胸につかえてお腹の中まで落ちて行く感覚がしなかったの。気のせいかと思ってほったらかしにしていたけど日を追うごとに、胸のつかえは重くなっていくのね。一か月くらい経ってとうとう卵焼きが口からこぼれてしまうんじゃないかと思った時に、やっと内科の診察室を訪ねたわけ。同じ病院の中にはあるけど、違う階に行くことにはすごい葛藤があるのよ。そしたら、乳がんだったとさ。子どもの頃からどれだけ生理がひどくても、体育も遠足も休んだことがなかったからね。だけど、つくづく思い知らされたわ。私は、心の異変には敏感なんだけど、体の不調には鈍感なのよね」
パレットの中で絵の具を溶いて、黄緑色を僕の理想に近づける。
「でもね、両方の乳房を切除しますって言われた時、私は少し安心したのよ。左右のおっぱいが違う形をしていたら、いつまでも失った自分の一部を探し続けるような気がして。これまでの人生を無駄にしないようアカデミックに考えることにしたのよ、シンメトリーな体で未来人に近づくかもしれないってね」
陽光は徐々に西日に変わる。影をつける場所を見失わないよう、少し椅子を引いてキャンバスを俯瞰する。まだ、全体のバランスは崩れていない。
「入院する三日前に急に不安になったのよ。六階の西病棟にね、ほとんど人の来ない多機能トイレがあるの。そこで体の水分がなくなるくらい泣いて、空気を切り裂くくらいの声が喉の奥から出たわ。後で、病院に怪獣がいるって噂になったみたいだけど」
一心不乱に、薄い橙色を身体描写に塗り込んでいく。
「手術のことはなんにも覚えてないのよね、麻酔で寝てたから。それで、目が覚めたら無性に甘いものが食べたくなったのよ。お見舞いに来てくれた同僚に一階のファミリーマートでルマンドを買ってもらったら、すとんと糖分がお腹に落ちる感覚がしたわよ」
「ルマンドはいつもより、美味しかったですか」
「ううん、いつもと変わらない味だった。だけど、あの食感が好きなのよね」
やっと、顔の輪郭線が掴めた。
「退院の日、病院発の路線バスに乗った帰り道よ。窓際の席で頬杖をついて景色を眺めていたら、街路樹から木漏れ日が差し込んできたのよ。その時、涙が一滴だけ零れたの。乾ききった心に、水分が戻ってきたのね」
足全体に乳白色を塗り重ねていく。
「商店街の入り口でバスを降りて、五線譜みたいに並んだ電線の少し上に、半分欠けたお月様が昇っていたわ。五時のチャイムが鳴って、焼き鳥の香ばしい匂いが漂ってくる。八百屋さんでにんじんを買って、お魚屋さんでカツオのたたきを買って家に帰ったの。そうして、ご飯を食べている時に気づいたの。私の外見が変わっても、周りはいつものままなんだって。日常が通り過ぎる安心感はあったけど、同時に私の不安がとてもちっぽけなものに思えてきたのね」
西日に目を細めながら、鎖骨の模様を描き切った。
「そこから一念発起よ。私の中で病院での生活は手術台の上に置いてきたから、新しい世界で働きたいと思ったの。そして、夜間学校に通って美容師になる勉強を始めたの。今のお店がある場所だって、あきらめずに歩き回ってやっと見つけたんだからね」
右手の上に重ねられた左手を描き写す。ネイルはしていないが、爪は短く丁寧に切られ、白い指先は細くて長かった。きれいな手だな、と僕は思った。
「はい。大丈夫です」
ひと通り描き終わったので、上村さんに告げた。気がつけば、六時間以上も描き続けていた。両端の補色関係に気になる点はあるが、次の休みに自宅で直そう。
「満足したかしら。ちょっと、お手洗いに行ってくるわね」
上村さんは、裸のまま悠々と部屋から出ていった。
「今日は、私の話を聞いてくれてありがとう。同じ姿勢をキープし続けて少し疲れたけどね。よかったら、次回はあなたのお話も聞かせてちょうだい」
2025年3月31日
「こんにちは」
美容室に入ると、窓から昼下がりの陽光が水色のスタイリングチェアに差し込んでいた。
「なんとか、納得できる仕上がりになったので絵をお持ちしました」
「あら、別に締め切りなんてないから、のんびり完成させてもらえばよかったのに」
「必ず、今日までに終わらせたかったんです」
二階に上がり、肩にかけていた黒色の絵画バッグを床に置く。チャックを開けて、二十号の作品を取り出す。恥ずかしさと緊張が交錯し、心臓の鼓動が早くなる。書斎机に置いたキャンバスを、上村さんは真正面からじっと眺めている。肖像画としても成立するよう、背景には紫色のグラデーションを入れた。退院後に上村さんが見たであろう、夕暮れの商店街を思い描きながら。
「ちょっと待っていてね」
そう言って、上村さんは階下に降りていった。
しばらくすると、ティーポットとたまごサンドを銀皿に乗せて戻ってきた。
「ダージリンのファーストフラッシュよ。柑橘系の香りがするでしょう」
「いい匂いですね。いただきます」
湯気の立つティーカップをソーサーから離し、僕は紅茶を口に含んだ。
「どうやら、私の歴史がキャンバスに表現されたみたいね」
黄身と白身がこんもり詰まったたまごサンドを一つ食べ終え、上村さんが口を開いた。
「この絵は生涯大切にするわね。久しぶりに描いてみてどうだったの」
「絵を通して上村さんと向き合えたことで、自分が抑えていた感情を呼び起こすことができたように思います」
「そうね。初めてお店に来てくれた時から、あなたはとても疲れているように見えたから」
「正直に言って、子どもの頃から自分の身体に違和感があるんです。私の中にもう一人、『僕』っていう別人がいるような感覚があるんです。普段は上手に隠れているけど、混乱すると制御できずに逃げ出してしまう。その人は、いつだって私の生き方を問いただしてきます。別に女の子が好きだってわけではないんです。何人か男の人とお付き合いをさせていただいたけど、お話するのはすごく楽しいんです。映画だったり建築だったり、みんな自分の好きなものを持っていて。だけど、身体を重ねる時にものすごい苦痛が襲ってくるんです。そうして、私の周りから色んな人が離れていってしまうんです」
上村さんは黙ってダージリンを注ぎ、静かにうなずいた。
「私の原風景は、実家の近くの交差点なんです。地元は東京の西太子堂なんですけど、世田谷線という路面電車が走っているんですね。それで、家の近くに環七が通っていて、『若林踏切』交差点を世田谷線が横断するんです。そこには踏切がなくて、信号機が設置されているんですよ。車も電車も歩行者も、規則正しく点灯する信号を守っている。遮断機の警報音がしないから、電車が通過する時は音がしないんです。青に変わった信号をすべるように廻る車輪。二両編成の電車を律儀に見送る四車線の自動車たち。私もそのルールを乱したくなかったので、歩行者用信号機が点滅を始めたら横断歩道を渡らないようになりました。そこはなんだか、秩序や調和が具現化した世界だと思うんです。保育園の帰りにおばあちゃんと交差点を渡ることが多かったですけど、渡り終わってからもしばらく横断歩道を見つめていました。特に黄色の世田谷線が好きだったので、青や緑の電車が通っても、その場に立ち尽くして黄色の電車を待っていました。おばあちゃんは文句も言わずに、やさしく私の手を握っていました」
上村さんは一瞬キャンバスを見つめ、すぐに視線を僕に戻した。
「自分が男性なのか女性なのかも分からなくなる時があるんです。いつも、身体の周りに薄い膜を張っている感覚はあるんですけどね。それが厚くなって、硬い殻に変わっていくんです」
「人の性別って、二種類に分けられるほど単純じゃないからね」
上村さんはそう言って、最後のたまごサンドを口に運んだ。
「それで一人遊びばっかりして、絵を描き続けていたら美術系の大学には入れたんですけど。でも、独りよがりの絵を褒めてくれる人もいなくて」
言いかけて、はっとした。
「もしかしたら、僕は今日初めて誰かを想って絵を描いたかもしれない。上村さんの胸を見た時に、ここに至る時間を絵に残したいと思って。人と時間を共有したのは、保育園の帰り道でおばあちゃんと世田谷線を眺めていた時以来でした。黄色い電車が来るまで帰らないって言った時も、にこにこしながらずっと手を繋いでくれていたんです」
「それでいいのよ」
上村さんのやさしい口元を見つめながら、僕はティーカップを持ち上げダージリンを飲み込んだ。
「あなたの気分転換に私を描いてもらおうと思ったけれど、予想以上の贈り物をもらっちゃったわね。もうカット代は永年無料にしようかしら」
「そんなのやめてください、ちゃんとお客さんとして接してくださいよ」
少し考えてから、一つお願いをすることにした。
「閉館後も、川村記念美術館の庭園が無料開放されるらしいんです。これから、どんな状況になるのか見に行ってもいいですか」
「オッケー、車で行くから画材も持ってきてね。次は野外スケッチよ」
2025年5月5日
「わざわざ額に入れていただいたんですね。すごく嬉しいです」
美容室の二階を訪れると、銀色の額縁に囲われた肖像画を見せてくれた。
「もちろんよ。額縁が入ると絵の表情が凛とするでしょう」
上村さんは颯爽と歩き出し、美容室と車の鍵を持って階段を降りた。
「ウェザーニュースによれば、午後の予報はにわか雨です」
シートベルトを締め終わると、車は静かに動き始めた。
「上手くやり過ごせるわよ」
日産マーチを第一駐車場に止め、誰もいない券売所を通り過ぎる。小径から眺める美術館も対岸にそびえる工場も、外見的には何も変化がなかった。ただ、運営を終了した館内は暗闇に閉ざされていた。
「やっぱりがらんとして、少し寂しいわね。最後のコレクション展に駆け込めてよかったわ」
「え、行かれたんですか」
「あなたの話を聞いてたら、行きたくなったのよ」
「ショップやレストランで働く方も、とても親切でしたよね。もう二度と、あの空間で作品に出会えないと思うとやりきれないですね」
「この美術館も、人々が往来する交差点の役割があったのね」
今日はこれ以上建物を眺められなかった。連れ立って坂道を下ると、開放されたテラス席が見えた。上村さんは池の噴水を眺めている。
「残された風景をゆっくり記録しなさいね。私は白鳥をじっくり観察するから」
どんよりとした曇り空の下、椅子にこしかけイーゼルを開く。養生中の芝生広場に、ムーアの《ブロンズの形態》がぽつんと佇んでいる。晴れてほしいという願望を込め上部を青く着彩し、絵筆に緑を浸すと同時に雨が庭園を覆った。
やっぱり、今日は描くのはやめようかな。その瞬間、雨が欄干にあたりキャンバスに雫が飛び散った。無色透明の雫が青の着彩を吸収し、真っ白なキャンバスに線を引く。その雫に絵筆の緑が触れた時、記憶の中に閉じ込められていた所蔵作品が浮かび上がった。ブランクーシの《眠れるミューズⅡ》に立ち現れる黄金の曲線美、マグリットの《感傷的な対話》で表現される並行世界、ライリーの《朝の歌》から滲み出す柔らかな色彩。夢中で絵筆を動かし、心は川村記念美術館を駆け巡っていた。
気がつくと、雲間から差し込む光が、芝生に佇む彫像を照らしていた。キャンバスには、雫に包まれた作品たちが、記憶を飛び出し踊り回っている。どうしても、僕の感動を伝えたい。
「この絵を描き上げたら、あの人に会いに行こう」




