万象を編む者
数週間に及ぶ旅路。揺れる馬車の中で、エメラルダは優雅に古書をめくっていた。
馬車は今、ネブラーク連邦特有の湿り気を帯びた空気の中を進んでいる。窓の外には鬱蒼とした森。その入り口が、ゆっくりと近づいていた。
「……それにしても、エメラルダ」
窓の外の深い霧を眺めながら、アルベルトが呆れたように笑う。彼の膝の上には、分厚い魔導書とネブラークの古地図が広げられていた。
「君、本当に荷物が少ないな。侯爵令嬢の旅とは思えない」
「あら?」
エメラルダは本から目を離さないまま答える。
「必要なものは全部、古代魔術を応用した空間収納の中よ。重たい荷物をいくつも持ち歩くなんて、効率が悪いでしょう?」
「……空間収納は高等魔術だぞ」
「できないの?」
「できるけどさ」
アルベルトは苦笑した。
エメラルダは視線を本に落としたまま、わずかに眉を上げる。今の彼女はきっと、世間から見れば「可愛げがない」淑女だろう。
だがそれでいい。
自分の力を信じ、自分の利便性を優先する。そんな自由を、彼女はようやく手に入れていた。アルベルトは、そんな彼女を見て満足そうに笑う。
「相変わらずだな。だが、その潔さは嫌いじゃない」
面白そうに、彼の瞳が細められる。アルベルトにとってエメラルダの常識外れな強さは、疎まれるものではない。むしろ歓迎すべき輝きだった。
(……この人といると、呼吸がしやすいのよね)
エメラルダは密かに思う。
完璧な聖女を演じる必要もない。ただ1人の魔術師として、対等に存在することを許されている。
ずっと欲しかったものが、今ここにある。
気づかないうちに、エメラルダの肩から力が抜けていた。
「精霊たちの話によれば、この森の最深部……霧が最も濃い場所に、彼らの屋敷があるはずよ」
「≪万象を編む者≫と≪災厄を喰らう者≫だったか」
アルベルトが地図を指でなぞる。
「精霊が言っていた2人組。どんな変人……いや、行使者なんだろうな」
エメラルダは、ふっと口元を緩めた。その瞳が楽しそうに輝く。
「楽しみだわ。古代魔術を使える者同士、どれほどの知見を共有できるのかしら」
窓の外の景色が変わり始める。瑞々しい緑の森は、次第に白く幻想的な霧の世界へと姿を変えていった。ひんやりとした風が、馬車の隙間から入り込む。
エメラルダの髪がふわりと揺れた時だった。
__明らかに、空気が変わった。
「エメラルダ、見ろ。あそこだ」
アルベルトが窓の外を指さした。
深い霧の向こう。そこに、静かに佇む屋敷が浮かび上がっていた。古びてはいる。しかし、不思議なほど凛とした美しさを放っていた。だが、近づくことができない。
屋敷の周囲には、驚くほど強固で複雑な術式が幾重にも重なった結界が張られていたのだ。馬車を止め、2人は外へ降りる。近づけば近づくほど、その結界の異常さが分かる。
あまりにも緻密。
あまりにも精巧。
まるで芸術品のような術式だった。
「……なんて美しい結界」
エメラルダの頬が、うっすらと紅潮する。
「これほどのものを常時維持しているなんて……只者ではないわね」
瞳には明らかな歓喜が浮かんでいた。
「これは尚更会いたくなったわ。さあ行きましょう、アルベルト」
「ああ」
アルベルトも口元を歪める。
「エメラルダの好奇心に置いていかれないよう、俺もしっかり付き合うよ」
2人は同時に結界へ手を伸ばした。瞬間、ふわりと空間が揺らぎ、光の塊と美しい泡が現れた。
元聖女と探狂者。
彼らの呼びかけに応えないものなど、この世界にはほとんど存在しない。干渉された結界の術式が、少しずつ歪み始める。まるで時計が逆回転するかのように。感情の輪が広がってその時だった。
「やあ」
結界の向こう側から声がした。目を凝らすと、そこには1人の青年が立っていた。柔らかな笑みを浮かべながら、こちらを見ている。
青年はエメラルダとアルベルトの顔を見比べ、ゆっくりと歩み寄ってきた。
「君たち、授けられた名前を教えてもらえるかな?」
その言葉の意味は、すぐに理解できた。エメラルダはアルベルトと目配せを交わし、結界へ伸ばしていた手を下ろす。そして一礼した。
「お初にお目にかかります。私は≪祝福の魔女≫です」
「同じく、お初にお目にかかります。≪古代魔術の探狂者≫です」
2人が名乗ると、青年は満足そうに頷いた。
「ご丁寧にありがとう」
そして胸に手を当てる。
「僕は≪万象を編む者≫。君たちと同じ、古代魔術の行使者だよ」
人懐っこい笑みを浮かべた彼は、軽く指を鳴らした。すると、結界が花びらへ変わった。霧の中に、無数の花弁が舞い散る。突然の出来事にエメラルダとアルベルトが目を見開くと、青年はくすりと笑った。
そして、優しく屋敷の方へ手を向ける。
「さあ、入って。話は聞いているよ」




