淑女は語らう
ある夜、エメラルダはナディアに誘われ、屋敷の最上階にあるテラスへと足を運んでいた。
霧の森の上には淡い月光が広がり、白く漂う靄をやわらかく照らしている。静かな夜風が頬を撫で、霧をゆるやかに押し流していく。その光景はどこか幻想的で、同時に触れれば消えてしまいそうな儚さを帯びていた。ナディアは手すりにもたれ、揺れる髪を指先で押さえながら、その景色をじっと見つめている。
しばらく、言葉はなかった。
風と、遠くの森のざわめきだけが2人のあいだを満たしている。やがてナディアが、小さく息を吸い込む気配がした。
「……ねえ、エメラルダさん。少し変なことを言ってもいいかしら」
「もちろんです」
エメラルダは迷いなく頷く。その即答に、ナディアはわずかに眉を下げ、どこか困ったように笑った。
「私たちが古代魔術を初めて行使した時の話だけど、」
昼間とは違う、抑えた声音。それでも奥には確かな揺らぎがあった。エメラルダは何も言わず、ただ彼女の横顔を見つめる。だがナディアの視線は交わらないまま、霧の向こうへと向けられている。
「カシムが古代魔術に目覚めた理由を聞いて……正直、どう思ったかしら?」
問いが落ちる。静寂が、ひときわ深くなる。それはほんの一瞬のはずなのに、不思議と長く引き延ばされたように感じられた。エメラルダは静かに息を整え、言葉を選ぶ。
「深い愛情だと感じました」
「それだけ?」
「はい」
「……そう」
夜風が、2人の髪を同時に揺らす。ナディアはわずかに目を伏せ、ゆっくりと息を吐いた。
「カシムは、私のために古代魔術に手を伸ばした。得体の知れない力に……踏み込ませてしまった」
その声は静かなままだが、押し殺した感情が確かに滲んでいた。エメラルダは改めて思う。彼女は、感情を外に出すことがひどく不器用な人なのだと。
「……あんな禁忌に触れさせたのは、私のせいで、」
ぽつりと落ちる言葉。視線は足元へと沈んだまま。
「いつか、カシムが古代魔術を会得したことを後悔する日が来るんじゃないかって。そう考えると、」
言葉が途切れる。喉の奥で何かが引っかかったように。
「……少し、怖いの」
かすかな呟き。けれど涙はない。ただ、ほんのわずかに視線が揺れただけだった。
エメラルダはその横顔を見つめ、ゆっくりと口を開く。
「ナディアさん」
夜風の中で、まっすぐに向き合う。
「あなたがどんな答えを求めているのかは、分かりません。だから、私の思ったことをそのまま伝えさせていただきます」
ナディアの眉が、わずかに動いた。エメラルダは穏やかに言葉を重ねる。
「たとえ得体の知れない力であったとしても、あなたを救いたいと願ったのは__カシム様ご自身の意思でしょう?」
静かで、揺るがない声音。
「古代魔術を会得したのもカシム様です。あれほどの領域に辿り着くには、生半可な覚悟では到底足りないこと。それは、ナディアさんもよくご存じのはずでしょう」
ナディアは何も言わない。その沈黙ごと受け止めるように、エメラルダは柔らかく微笑み、自身の胸にそっと手を当てた。
「自分の運命すら書き換えてでも守ると決めた。その選択は、何にも代えがたい愛の証ではありませんか?」
ようやく、2人の視線が重なる。エメラルダは少しだけ照れたように目を細めた。
「それほどまでに愛されていることを、どうか受け入れてください。罪だなんて言葉で片付けてしまうには……あまりにも、勿体ないです」
ナディアの瞳が、かすかに揺れる。
「きっと、後悔などしていません。むしろ、大切な記憶として、カシム様は今も抱き続けているはずです」
森が静かにざわめいた。まるでその言葉に応じるかのように。
「そうでなければ、あんなにも愛おしそうな目を向ける理由が、私には見つかりませんもの」
再び沈黙が訪れる。だがそれは先ほどまでの重たいものではなく、どこか穏やかな余韻を伴っていた。
やがてナディアは目を伏せ、小さく息を吐く。そして、ふっと肩の力を抜くように苦笑した。
「……ほんと、かつて聖女と呼ばれていただけあるわね」
軽く肩をすくめる。その声音は、先ほどよりもずっと柔らかい。ナディアはゆっくりと顔を上げた。
「ありがとう」
わずかに照れを含んだその一言は、夜の空気の中で静かにほどけていく。
「……ずっと、誰にも言えなかったの」
「苦しかったでしょう」
「……ええ」
遠目にも分かるほど、ナディアの手はかすかに震えていた。この話を口にするまでに、どれほどの葛藤があったのか。想像に難くない。それでも打ち明けてくれたことが、エメラルダにはただ嬉しかった。
「カシム様からの愛情は、滅多なことでは揺らがないと思いますよ」
隣に並び、同じ景色を見ながら微笑む。ナディアは少しだけ唇を尖らせ、その表情にはどこか幼さが滲んだ。
「私、王太子から婚約破棄されたんです。『可愛げがない』なんて言われて……国を守っていた聖女の任も解かれて。ひどい話でしょう?」
「少しだけ耳にしたことはあったけれど……その王太子、馬鹿なのかしら?」
あまりにも率直な返答に、エメラルダは思わず吹き出した。まったく予想していなかった言葉だった。
「そうかもしれませんね。結局、大災害から国を守ることもできず、無様に地を這っていたので……一度だけ、という約束でアルベルトと共に救ってあげました。まあ、その後は大変だったようですが、知ったことではありません」
「死ぬよりはマシでしょうね」
2人のあいだで、堪えきれない笑いがこぼれる。
「助けてあげるなんて、優しいじゃないですか」
「さっさと死なれても困りますから。きちんと苦労してからでないと」
楽しげに語るエメラルダの言葉は、どこか冷ややかにも聞こえるが、それが彼女なりの誠実さだった。すべては自業自得。その重みを背負わぬまま終わるなど、あまりにも軽すぎる。
夜のテラスに、2人の笑い声が静かに溶けていく。霧に包まれた屋敷の夜は、ゆるやかに、確かに更けていった。言葉にせずとも通じ合う何かが、いつの間にか2人のあいだに芽生え、静かに根を下ろし始めていた。




