エメラルダ と カシム
アルベルトとナディアが書庫で難解な碑文の解読に没頭しているある昼下がり、エメラルダは中庭に面した回廊で、カシムとお茶を共にしていた。
「にしても、いつの間にアルベルトとナディアはあんなに仲が良くなったんだい?」
首を傾げるカシムに、エメラルダも同感だ。
「本当に。ついこの前まで、数言しか話していないと思ったのに、気づけば2人で書庫に籠るなんて驚きですね」
「元々、重度の研究者気質だったからなぁ。いいんだけど、適度なところで止めてあげないとね」
そんな会話に花を咲かせていれば、ふわりと風が吹き抜ける。カシムの指先から零れ落ちた花びらが、エメラルダの光の塊と戯れるように宙を舞い、淡くきらめいた。その光景をぼんやりと眺めながら、カシムはどこか遠いものを見るような眼差しで口を開く。
ほんの少しの静寂。先に破ったのは、カシムだった。
「……ねえ、エメラルダ嬢。君から見て、今のナディアはどう見えるかな」
不意に投げかけられた問いだったが、その奥には拭いきれない不安と、かすかな迷いが滲んでいた。エメラルダは静かにカップを置き、柔らかな微笑みを浮かべる。
「とてもお幸せそうに見えますわ。凛としていて、それでいてカシム様の前ではとても柔らかい。……愛されている方の顔をしていらっしゃいます」
「そうかな。…そう、だといいな」
カシムはわずかに自嘲を含んだ笑みを浮かべ、舞い落ちてきた花びらのひとひらを、壊れ物を扱うようにそっと指先で受け止めた。
「僕はね、あの日からずっと、ナディアが僕の隣で笑っているのが奇跡だと思っているんだ。世界の法則を捻じ曲げて、無理やり引き留めた命。神様が怒って、明日には彼女を連れ去ってしまうんじゃないかって、時々怖くなる」
その言葉は、先日語られた過去の重みを静かに裏打ちしていた。
死という絶対の断絶を、古代魔術という禁忌で塗り潰した男の、偽りのない独白。
「でもね、後悔はしていないよ。ナディアがいない世界なんて、生きる意味がない。現に僕は、古代魔法の行使に失敗したらナディアの後を追おうと思っていたんだ」
風がまたひと筋、回廊を抜けていく。胸の奥に澱んだ感情をそのまま抱えながら、それでもカシムの表情は変わらず穏やかな笑みを保っていた。
「僕は、ナディアのためなら世界を敵に回したって構わない」
語るほどに、その想いは隠されるどころか、むしろ鮮明さを増していく。好きで、愛しくて、どうしようもなく手放せない。その感情は、もはや信仰にも似た純度にまで昇華されていた。
エメラルダはその熱を否定することなく、ただ静かに受け止める。
「…死を超えてなお、そうして笑い合える。それは、何よりも尊いことではありませんか」
エメラルダは、かつて自分がいた場所を思い出す。
完璧を求められ、役割を押し付けられ、心を通わせることなど二の次だった日々。それに比べて、この屋敷に住む2人はどうだろう。異端と呼ばれようとも、禁忌に触れようとも、ただお互いの存在だけを理由に生きている。それがどれだけ素晴らしいことか。
「カシム様がナディアさんを救い、ナディアさんがそれに応えて共に歩むことを決めた。お二人の間にある絆は、魔術よりもずっと強固な絆のように私には見えます」
「…ははっ、エメラルダには敵わないな」
カシムは照れくさそうに頭を掻いた。その目は、いつもの快活なものに戻っている。
「君とアルベルトを見ていると、僕たちとはまた違う『対等な強さ』を感じるよ。だからかな。ナディアも、君たちには少しだけ心を許しているみたいなんだ。あんなに楽しそうに魔術の話をする彼女、久しぶりに見たよ」
「それは光栄ですわ。私も、ナディアさんから学ぶことは多いですから」
エメラルダは、回廊の奥から聞こえてくるアルベルトとナディアの少し険のある議論の声に耳を澄ませた。難しそうだが、どこか楽しそうだ。
狂気とも呼べるほどの愛を抱えるカシムと、それを不器用ながらも全力で受け止めるナディア。
その歪で、けれどこの上なく美しい夫婦の形を、エメラルダはどこまでも微笑ましく、そして少しだけ羨ましく思うのだった。




