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アルベルト と ナディア

 霧の屋敷に滞在して数日が経った。

 さらさらと羽ペンが紙をなぞる音と、ときおり暖炉の薪がぱちりと弾ける音だけが、夜の静寂に静かに溶け込んでいた。アルベルトは机に向かい、わずかに身を乗り出すような姿勢で、執事のトーマスへ宛てた手紙を書き進めている。その筆致は迷いがなく、内容の1つ1つを確かめるように丁寧だった。


 その背後に、控えめながらもやや硬い足取りでナディアが近づいてくる。彼女の手には、小ぶりの皿が大切そうに支えられていた。


「これ、もしよければどうぞ」


 差し出された皿の上には、こんがりと焼き色のついたクッキーが整然と並んでいる。ほんのりと甘く香ばしい匂いが漂っていたが、ナディア本人はどこか落ち着かない様子で、わずかに表情を強張らせていた。


「ありがとう、ナディア。香ばしくて、とても美味しそうだな」


 アルベルトは顔を上げると自然に微笑み、躊躇いもなく1枚を手に取る。そのまま何の疑いも挟まず口へと運び、サクッ、と心地よい音を立ててかじった。


「……うん、いいな」


 短いながらも率直な感想がこぼれる。その一言と表情に、ナディアは目に見えて肩の力を抜き、小さく安堵の息を吐いた。


 アルベルトはクッキーを片手に、再びペンを走らせ始める。紙の上にインクが滑る音が戻る中、その様子を眺めていたナディアは、ふと首を傾げた。


「何を書いていらっしゃるのですか?」


 その気配に気づいたのか、アルベルトは軽く笑い、書きかけの手紙を少しだけ持ち上げて見せる。


「屋敷を任せている執事のトーマスへの手紙だ」

「トーマスさん…。」

「ああ。仕事ができる頼れる執事だよ」


 アルベルトはもう一枚クッキーを手に取りながら、どこか懐かしむように目を細めた。ナディアはその表情に興味を惹かれたのか、少し身を乗り出す。


「どのような方なのか、お伺いしてもよろしいでしょうか」

「もちろんだ。そうだな…。一言で言えば、最強の番人だな」


 くつり、とアルベルトは喉の奥で笑う。


「俺が研究に没頭して何日も寝ないでいると、音もなく背後に現れては容赦なく叱りつけてくる。だが同時に、警戒心は誰よりも強い。最初にエメラルダが屋敷を訪れたときなんて、問答無用で追い返そうとしたくらいだ」

「まあ! アルベルトを正面から叱れるなんて、それだけでも並ではありませんのに…。それに、エメラルダさんを追い返そうとするなんて、本当に徹底していらっしゃるのですね」


 ナディアは目を丸くし、思わず感嘆の声を漏らす。その反応が可笑しかったのか、アルベルトは肩を揺らして笑った。


「元々、王族でありながら捨て子だった俺を育ててくれた人でもある。俺にとっては、3人目の親のようなものだ。あの時も、『元』とはいえ王子の婚約者だった聖女が突然現れたんだ、警戒するのも無理はないさ」


 そう語るアルベルトの声には、どこか柔らかな響きが混じっていた。過去を思い出しているのか、視線はわずかに遠くへと向けられている。


「だがな、どれだけ俺が無茶な生活をしていても、翌朝には必ず、俺が1番好む温度で紅茶を淹れてくれているんだ。何も言わずに、当たり前のように」


 その言葉には、深い信頼と家族に向けるような温かな情が滲んでいた。ナディアはそれを静かに受け止め、ふっと頬を緩める。


「本当に素敵な方なのですね」

「ああ。本当に良い人だよ」


 アルベルトは小さく頷き、再びクッキーを口に運ぶ。その仕草はどこか満ち足りていた。


「ふふっ。いつかお会いしてみたいものですね」

「ぜひ会ってくれ。きっとすぐに気に入るさ」


 その言葉にナディアは静かに微笑み返す。暖炉の火がゆらりと揺れ、2人の影が壁に柔らかく映る。

 やがて2人は顔を見合わせ、声を忍ばせるようにして小さく笑い合った。その笑みは、静かな夜の空気の中で、確かな温もりとしていつまでも残り続けていた。



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