使用人がいない屋敷
ナディアが淹れた薬草茶の香りがリビングに満ちる頃、ようやくカシムがリビングに戻って来た。すっかり意識も覚醒しており、元気に「おはよう!」なんて声をかけるものだから、エメラルダとアルベルトは小さく笑った。
4人はテーブルを囲み、ネブラーク伝統の平焼きパンと数種類のジャムを並べて、朝食をとり始めた。
「今日はまた懐かしい朝食だな!」
「2人がネブラークの定番朝食を食べてみたいってリクエストしてくれたのよ」
慣れた手つきで食べ始める2人に倣って、アルベルトたちもパンを手に取った。
朝食を取りながら、ふとエメラルダが周囲を見回す。
整えられた室内、手入れの行き届いた調度品。しかし、そこには自分たち以外の気配が全くなかった。昨日から感じていた違和感の正体にようやく気付き、おもむろに口を開く。
「……そういえば、このお屋敷には使用人の方はいらっしゃらないのですか?」
エメラルダの問いに、ナディアはカップを口に運ぶ手を止め、静かに首を振った。
「ええ、置いていないわ。昔から、自分たちの身の回りのことは自分たちでこなす方が向いていたの」
ナディアの代わりに、カシムが苦笑混じりに補足する。
「それもあるけれど、1番の理由はここにある物が普通の人にはちょっと……いや、かなり危なすぎるからなんだ」
カシムがリビングの壁際に並ぶ棚を指差す。そこには、うっすらと魔力の残滓を纏った触媒や開くだけで空間が歪むような古いスクロールが、無造作に、けれど整然と置かれていた。
「僕たちは趣味で魔術を扱っているんだ。扱っている研究資料や実験器具は、どれも古代魔術の影響を受けている。不用意に触れれば精神を汚染されるか、最悪の場合には存在そのものが消えてしまうこともあるんだ」
「……なるほど。知識のない者が入れば、惨事になりかねないというわけか」
アルベルトが納得したように頷く。彼自身、自領の書庫で危険な術式を扱う際は細心の注意を払っている。この屋敷そのものが、巨大な実験場であり、同時に危険な保管庫でもあるのだ。どうやら、この屋敷も同じ認識らしい。
「ええ。だから、魔術への知見が深いだけではなく、万が一の時に自分で自分を守れる人以外、この屋敷に入れるのをやめたのよ」
ナディアは淡々と言った。
彼女の視線が、リビングの隅で静かに駆動している魔導模型に向けられる。それは自動で室内の湿度を調整しているようだが、よく見ると複雑な多重術式が編み込まれており、素人が触れれば一瞬で凍土に変えられかねない代物だった。
「だから、ここは私たち2人だけ。でも…」
ナディアは少しだけ、困ったような、それでいて心地よさそうな表情でカシムを見た。
「カシムが朝、これほどまでに使い物にならないと分かっていたら、もう少し考えたかもしれないけれどね」
「あはは、ひどいなナディア。でも、だからこそ僕たちはこうして、誰に気兼ねすることもなく、自分たちの好きな研究に好きなだけ没頭できるんだろう?」
カシムの言葉に、エメラルダは深く共感するように微笑んだ。かつて王都で『聖女』として、常に周囲の視線と期待に晒されていた彼女にとって、その不自由さは身に染みて理解できるものだった。
「わかります。理解者のいない場所で力を振るうのは、時にとても息苦しいものですから。……ここは、本当の意味で自由なのですね」
「……ええ。そして、あなたたちのような『知見のある客人』なら、私たちはいつでも歓迎するわ」
ナディアはそう言って、エメラルダのカップに香りの良いハーブティーを注ぎ足した。先ほどとは変わった香りのそれに驚けば、クスリと笑われる。
「ネブラークの特産品であるこのお茶は、2杯目に別の銘柄を注ぐの。2種類を混ぜた風味は癖になるわよ」
何とも興味深いそれに口を吐ければ、確かに甘い風味が広がった。思わず「美味しい」と呟けば、カシムとナディアは嬉しそうに笑ったのだった。




