穏やかな朝
翌朝。ネブラークの深い霧は、朝日を浴びて乳白色の柔らかな光へと姿を変えていた。客室で身支度を整えたエメラルダが、アルベルトと共にリビングへ向かうと、そこには既に先客がいた。
ナディア・レディートである。
彼女は窓際の椅子に腰掛け、静かに1冊の魔導書を捲っていた。昨夜の凛とした雰囲気はそのままに、朝の光に透ける黒髪がどこか幻想的な美しさを際立たせている。
「おはようございます、ナディアさん」
「おはよう。昨夜はよく眠れたかしら」
ナディアは顔を上げ、わずかに目を細めて2人を迎えた。
「ええ、おかげさまで。とても快適でした」
「それは良かったわ」
淡々と答えるナディアだったが、その視線は時折、リビングの入り口へと向けられる。何事かを待っているような、あるいは案じているような、そんな気配。すると、廊下から力ない足音が近づいてきた。
「……んぅ……ナディア……」
現れたのは、昨日の快活な印象が嘘のように、髪をあちこち跳ねさせたカシムだった。目は半分閉じかかり、足取りはおぼつかない。寝衣の上に薄手のガウンを羽織っただけの姿で、ふらふらとナディアの元へ歩み寄る。
「……おはよ……どこ……」
「ここよ、カシム。それにしても、お客様の前なんだからシャキッとしなさい」
ナディアは呆れたように溜息をついた。だが、その言葉とは裏腹に、彼女の手は自然とカシムの方へ伸びる。カシムはナディアの姿を認めると、ふにゃりと相好を崩し、そのまま彼女の肩に頭を預けた。
「……ナディアの匂いがする……。あと5分……いや、1時間……」
「なんで伸びてるのよ…。ほら、着替えていらっしゃい。朝食の準備をしておくから」
ナディアはカシムが寄りかかりやすいように少し肩を下げ、その跳ねた髪を細い指先で優しく整え始めた。昨夜の刺々しさはどこへやら。そこには、甘える夫を当然のように受け入れる、慈しみに満ちた妻の姿があった。
ハッとしたナディアは、エメラルダとアルベルトの存在を思い出したのか、照れたように顔を赤らめた。それから少し逡巡した後、小さく口を開く。
「カ、カシムは朝が弱いの。……見苦しいところを見せてごめんなさい」
「いえ、こちらこそ夫婦の時間を邪魔をしてしまい、申し訳ありません」
エメラルダが頬を緩めて言うと、ナディアは一瞬だけ気まずそうに視線を彷徨わせた。
「……放っておくと、どこでも寝てしまうから。手の焼く夫よ」
相変わらずのツンとした物言い。だが、カシムを抱き留めるその手は優しい。程なくして目を擦ったカシムは、ふらふらと部屋を出て行った。
「放っておいて大丈夫なのか?」
心配そうなアルベルトに、ナディアは笑う。
「はい。いつも一通り甘えた後は、着替えるために自室に戻っていくんです。次に現れた時は、昨日のカシムに戻ってますよ」
慣れたように答えるナディアを見て、エメラルダは小さく笑った。まるで子を見守る親のような気分だ。きっとカシムとナディアの方が年上だろうが、2人の関係にやり取りに微笑ましさを感じない方が難しいだろう。
(……素敵ね)
ふと隣を見ると、アルベルトも微笑ましそうな、それでいてどこか羨望の混じったような眼差しで彼らを眺めていた。
「さあ、朝食を作りましょうか。何かリクエストはありますか?」
「え、ナディアさんが作ってくれるんですか!?」
「ええ。基本的な物なら何でも作れるわよ」
ナディアの言葉に、アルベルトが思いついたように口を開いた。
「じゃあ…ネブラークの定番朝食みたいなのをお願いできるか?ぜひ食べてみたい」
アルベルトの言葉にエメラルダも頷く。新しい土地に行ったら、まずはその土地のものを食べたくなるというもの。その意見には、エメラルダも大いに賛成だった。
「ネブラークの定番…。分かったわ。じゃあ、少し待っててもらえるかしら」
「手伝いますよ!」
「大丈夫よ。お客様なんだから、おもてなしさせてちょうだい」
こちらが気遣いすぎないように上手く言いまわしてくれるナディア。どこまでも優しい彼女に、2人は甘えることにしたのだった。




